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ベンウィートリー『レベッカ』ネタバレ考察・感想・レビュー

ウィートリー監督の過去作で脚本を担当し続けたエイミージャンプは監督の奥様。実際に奥様が書いた脚本にウィートリー監督が口出しをすることはほぼないようで、過去作の「らしさ」は奥様の存在が非常に大きかったのだと思われます。そして、本作『レベッカ』ではエイミージャンプは不在。偉大過ぎる前妻レベッカの不在を描くことで、その存在感を強調する『レベッカ』が、偉大過ぎる奥様の不在により、ウィートリー作品におけるその存在感を強調する結果となったのは何とも皮肉で面白い。というか夫婦であんなぶっ飛んだ作品作り続けるとか、家でどんな会話しとるんやろ…食卓風景覗いてみたい。

ウィートリー監督にとって、原作小説の映画化は『ハイライズ』に続き2回目。その『ハイライズ』はエイミージャンプ脚本。そちらの原作は読んでいないから、どれくらい忠実だったのかは判断できないけれど、エイミージャンプ不在の本作はデュモーリアの原作にかなり忠実に作られていた。ちなみにヒッチコック版のリメイクではないことを監督は何度も強調していて、本作はあくまでデュモーリア原作の再映画化作品として製作されたもの。実際に、筋はほぼ同じでありながら、ヒッチコック版とはかなりニュアンスの異なる作品になっていた。

まず大きな違いは女性の力強さ。本作の主人公は、性格の悪い婆に雇われてコキ使われてる貧乏な若い女性。旅先で出会った金持ちマキシムと恋仲になり、即結婚し、豪華な屋敷で暮らすことになるという完全に『シンデレラ』なお話なのだけど、肝心の主人公には名前がない。『レベッカ』は、弱々しく名前もない若い女性がアイデンティティと力強さを獲得する物語。ヒッチコック版では薄っすらとしか感じ取れなかったこの要素を、ウィートリー版では強調していた。

マキシムと主人公との力関係の変化にそれが最も大きく表れている。物語が進むごとにどんどんとマキシムの存在感が薄くなり、その代わりに主人公の存在感が増していく。クライマックスでは、自分が欲しいものを手に入れるために誰にも頼らず、更には手段も選ばずに自分の力で奔走する。これはヒッチコック版にも原作にもなかったもの。むしろヒッチコック版では、ただそこにいる・守られる存在としての主人公(女性)が描かれており、夫婦間での守るー守られる立場の逆転が大きな違いとなっている。

マキシムには既に亡くなっている前妻がいて、それがタイトルにもなっているレベッカ。作中には一度も姿を現すことはないにもかかわらず、物語は常にレベッカ中心で進んでいく。楽しい結婚生活を夢見て屋敷にやって来た主人公を待っていたのは、いたるところに残るレベッカの大きすぎる痕跡。誰もが完璧な女性だったと語り、友人やマキシムの家族、使用人たちにも比べられているのが実感として伝わってくる。その最たる存在が家政婦のダンヴァース。奥様と家政婦の関係性を越えた親密な間柄だったレベッカに対してダンヴァースは並々ならぬ思い(愛情)を抱いており、レベッカの痕跡を塗り替えようとする主人公の存在自体が面白くない。

ヒッチコック版では、主人公とダンヴァースの初対面シーンで、ハンカチの落下を持って力関係の違い(圧倒的ダンヴァース有利)を印象付けていたのに対し、同じハンカチ落下の演出を採り入れつつも、本作では二人の対等に近い関係性を決定づける演出へと変更されている。ダンヴァースにビクビクしていたヒッチコック版に対して、本作ではライバル関係のように主人公もダンヴァースに敵意を向ける。

これは、主人公を通して単に強い女性を描くという意図のみではなく、悪役としての印象を強めに描いていたヒッチコック版のダンヴァースとは違い、本作は被害者としての側面も同程度に描き、悲劇のヒロイン的な人間味を持たせようとする意図も含まれているから。もちろん最も存在感のあるのはレベッカなのだけど、主人公とダンバースでダブル主人公といっても良いくらいにダンヴァースに本作は重きを置いていて、レベッカを中心として、そのレベッカ(過去)を葬り去りたい主人公と、レベッカを永遠のものにしたいダンヴァースとの女vs女のバトルの側面が非常に強くなっている。だから、アーミーハマー演じるマキシムを含めて、男たちが物語のわき役のようなポジションに終始留まっている。

この主人公とダンヴァースの女同士のバトルで面白いのは鏡の部屋での演出。これは、『ハイライズ』でも、トムヒ演じる主人公の孤独を際立たせるものとして利用されていたもの。本作では2度登場し、『ハイライズ』同様、主人公の孤独を際立たせるだけでなく、相手方であるダンヴァースの孤独までも描いている。更には、鏡の部屋で行なわれるこの2人のレベッカをめぐる対話は、それぞれに対する自問自答のような意味合いまでも生み出し、『A Field in England』のような同一主体における過去→未来への切り離しと収束という、内面の取捨選択の思惑までも感じ取れる。

孤独という意味では、仮装舞踏会も同様。これも『ハイライズ』で描かれていたのだけど、『レベッカ』の原作にもあるものなので、うまいミックス。本作でも主人公の孤独を強調するだけでなく、周囲の人々が身にまとう英国の過去を体現させた仮装によってもたらされる悪夢的映像が、過去ー未来を象徴し、衝撃という点では『A Field in England』まではいかないながらも、英国の過去ー未来の分岐点を暗示させるような意味合いも含めて大きな起点となっていた。

そもそも『ハイライズ』『A Field in England』の両作は、空間そのものを主役のように象徴的に描いたもので、それはマンダレーというレベッカ(個人として、そして国としての過去)を想起する屋敷を象徴化する本作とも繋がる。そして、金持ちたちの豪華絢爛な外見に対する中身の矮小さとしての『ハイライズ』、その崩壊の滑稽さとしての同じく『ハイライズ』や『フリーファイヤー』、社会的価値観の変遷としての『A Field in England』を考えると、それら全てを内在する『レベッカ』の監督は適役だったのかも。そこに夫婦間における男→女の力関係の変遷の意味で『サイトシアーズ』まで含ませてきてるのだから、監督の集大成感がある。そして、『サイトシアーズ』のラストまではいかないまでも、ぱっと見の裏側にある嫌~なところにまで観客の感情を持っていくあたりは本当に人が悪い。このラスト付近はヒッチコック版が原作を甘めに改変してるのだけど、ブラックさ漂うウィートリー監督らしい本作も好きだった。

エイミージャンプが脚本書いてたらどうなってたのかな~ってのは気になるけれど、原作ものだからそこまでの逸脱は流石にないのかな。夫婦だし、多少は口出しもしてるのだろうけど、過去作から比べると少し大人しく感じたのは残念だった。監督はこの後、『Freak Shift』『トゥームレイダー2』が控えてるみたい。『トゥームレイダー2』はエイミージャンプ脚本みたいだから超楽しみ!

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