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【課外授業】浪曲に 三味線合わす 夕べかな

 「どうして大学に行ったのかてえ、そら、履歴書に『○○大学○○学部卒業』てえ書くためやろ。このお先真っ暗の時代に少しでもまともな会社で食いっぱぐれの無い人生送ろ思うたら、まずその会員証作らなあかんやろ。」・・・相変わらず冬さんの解説は明快だった。
 
 あの35歳のクリスマスイヴの夜、新世界の映画館で再会した偶然には驚いたが、正直もうそれ1回きりでご縁も無かろうと思っていた。「この先のオンボロアパートでゴロゴロしとるさかい、その気んなったら遊びに来いや。」と言われたものの、実際に会いに行くことは無かった。あれから干支が一回りし、春奈と別れた寂しさを如何にか紛らわそうとした私は、半月に一度くらいミナミのホテヘルでお気に入りのお嬢とシャワーを浴びる習慣を作った。或る程度想像通りであったとはいえ、同じお嬢を指名し続けていると、4~5回目にはすっかり打ち解け合って、「ええっ?あっこの店でラーメン食べたことないわ。ホンマに美味しいん?」だの「あのお菓子ってラムネ味あるの?」だの、互いにシーツを擦りながら普通の恋人同士のような会話も交わすようになっていく。幾度も逢って肌を重ねるうち、心まで裸になれるものだから不思議なものだ。パートナーが欲しいという気持ちを風俗で満たす伎倆もいつの間にか身に付いたのだろう。人生の折り返し地点を過ぎ、肉体的には不感症に忍び寄られていたが、未だに辛抱ならない色欲をもはや嘆かわしいとも感じなくなった点では、精神的にも不感症になっていた。
 京都から阪急と地下鉄を乗り継いで1時間、通勤だと思えば訳無いが、せっかくこの煌びやかな混沌に包まれた街まで足を運んだというのに真っ直ぐ帰宅するのも勿体ないという気分が、私を通天閣へと南下させると、冬さんは本当にオンボロアパートでゴロゴロしていた。もうサンタを通り越して仙人のように老け込んでいたが、死んではいなかったし、暫く時間を費やすと12年前の角打ちの事がふと記憶に甦った様子も顔に表れた。足腰こそ操り人形の如くフラフラだったが、相変わらず口だけは達者だったことに安堵した。
 そんなきっかけで、認知症にもならずに生き延びている傘寿過ぎの独身男と、不感症にもめげずに生き延びている桑年手前の独身男の奇妙な交流が始まった。半月に一度、コンビニでカップ酒を4本仕入れ、それだけを手土産に国宝級の陋屋を訪ねる。つまみも買わない。生活に必要なモノと不要なモノの区別が付かない物置のような六畳板張りに座し、互いにカップ酒を2本ずつ空にすると私は座を去る。決して長居はしない。不潔とまでは云わないし、悪臭漂っているわけでもないが、雑然として薄汚れた部屋の空気感に耐えられないのだ。
 
 「阪神大震災があったやろ。東京でバリバリ働いとった頃やけどな、あん時だけは大阪まで飛んで帰ったわ。せやけど少ない身内とツレの生存確認だけ済ませたら、これといってやる事ないやんか。ほんでワシ、柄にも無くボランティアゆうの手伝うたんやで。これ、数少ない自慢や。断水が続いとるさかい、避難所に着いたローリーからポリ容器に水を移して被災者に配るんや。」・・・冬さんが話に夢中になっている間に無数の水粒が弾けるような音が聞こえてきた。雨がトタンを打ち付けているのだろうか。「ちゃうちゃう、隣が揚げ物しとるだけや。あないに狭い台所でよう油を扱いよるてェ思うけんど、彼奴の唐揚げは絶品やで。食うてくか?♪雨の如き音立ててェ~、カラッとあがるハレのメシ~、てェ、コレ、どや。浪曲みたいやろ。この歳んなるとなあ、あの音だけで腹が膨れんねん、いや、ホンマやて。まだなあ、70代前半の頃までは牛丼屋に行く元気もあったんや。これが70代後半になると店で外食する言うんが億劫になってきてな、スーパーの総菜いくつか見繕えば1日過ごせてしまうもんなんや。いつだか、そらもう見事に不味いカップラーメンを買うてしもうてな、作り方間違えたんちゃうか思うて、わざわざフタをゴミ箱から拾い戻して『熱湯3分』の文字を読み直したほどやったわ。そうなるとなあ、今度はお湯を沸かすのも面倒でな、カップラーメンすらよう買わんようになってもうた。最近は電子レンジ回すんも嫌んなって、冷めても旨いもんを選ぶ腕上げたでえ。独り身のまま下手に長生きするとなあ、男は皆こないになる。よう覚えときィ。」・・・卓上には食べ残しの春雨がこびり付いたプラ容器が放置され、フタに貼られた特売シールまでもが色褪せていた。醤油差しの注ぎ口には爪楊枝が刺さったままだった。私も30年後にはこれに酷似した生活臭を放つこととなるのだろうか。
 「ほったらな、避難所のすぐ隣の団地に住んどって、自分も被災者やゆうのに、毎日朝から晩までワシらの給水活動を熱心に手伝うてくれる若っかい兄ちゃんが居ってん。せやけどな、暫くしたら気付いてんけど、ありがた迷惑ゆうんはコレのこっちゃで。この兄ちゃん、地域でも評判の悪い知恵遅れで、水を貰いに来はった人らも、なんや兄ちゃんを避けててん。ええか、配っとるのは飲み水やで。よう見たら、作業服はだらしないわ、無精髭には寒さで鼻糞や涎が引っかかっとるわ、それを拭ったゴム手袋でホースの口を触りよるわ、明らかに不衛生やねんか。『ちゃんと洗うてや』てェ注意しても、その場でしか直らへんくて、また繰り返す。それどころかな、余計なことに地元の長老かなんかが出てきて優しい言葉を掛けて煽てると、自分がチームリーダーにでもなった気分なのか、こっちに『もっと素早く』なんて指示を飛ばしよんねん。
 2日目までは堪忍しててんけどな、ようやく到着した後発隊の炊き出しのメシをな、避難所の人らよりも先に受け取ってきて、ワシらに勧め始めたんやわ。後発隊の人らに「おおきに、ありがとう」てェ頭下げながら、まだ大勢の人らが温かい食事を求めて列に並んだはる目の前で「どうぞ!食べて下さい!」てェ、困った人ら助けるために集まったはずのワシらに向かって大声で連呼しよんねや。
 こないに住民全員が大変な時、とんでもない輩を野放図にしよって、此奴の保護者は何してくれてんねんて思うたけど、周囲の話やとな、親にも見放されて、かと言うて重度の障害ともちゃうから施設にも入れんくて、今は献身的なご近所さんに偶然拾われて同居しとるらしい。けど、まあ四六時中世話は出来ひんわなあ。あないな調子やから仕事もクビになって、ヒマやさかい、毎日避難所に来ては一生懸命やること探しとるらしい。この兄ちゃんも今のアンタと同じくらいの年恰好やった。アンタやったら、この兄ちゃんのこれから生きるべき道をどない考える?」・・・“共生”って安直に語るけれど、“強制”や“矯正”と紙一重なのかもしれず、何かをしたい人に何もさせないわけにもいかず、そもそも何かをさせることが本人にとっての幸せにつながるといった発想が傲慢なのかもしれず、強制や矯正に抗う心理が“優生”を支持したのかもしれず、社会の大半は何らかの社会的弱者なのかもしれず、私は冬さんから突き付けられたテーマに大学のゼミのような匂いとも臭いともつかないニオイを知覚していた。
 ・・・喋り終えると、脂を含んだ埃の蓄積でボタンの周辺が浅黒くベタついたリモコンを左手に取り、徐にテレビを点ける冬さん。すると右手のほうでリモコンと同じくらい年季の入った双眼鏡を構えるではないか。「爺さん、何やってるの?」「テレビもなあ、字が小ィそうて、こうして画面を覗かんと分っからへんねや。」球場で踊っているチアガールを見るために、二階席からだと遠すぎるので、双眼鏡を大型ビジョンに向けていた人は居たが、家の中でテレビに双眼鏡を向けている人というのはさすがに初めて目にした。この爺さんの奇行も大型ビジョンのようにスケールがデカい。
 
 「ほんで今日は何の話や。ああ、大学やったな。正しい大学生の過ごし方てえ、アンタ、卒業して何年経っとんねん。ほんなもん、そのオツムの優秀な恋人に教えてもろうたら良かったんとちゃうか。そうそう、ハルヨちゅうオンナ。ホレ、アレとちゃうか。20代の十年に比べたらやで、30代の十年なんて“おまけ”みたいなもんやさかい、勉強の出来る者は20代の始めのうちに自分の伸びしろを知っておけっちゅうとこやろ。人間30過ぎたら大した成長は無いからなあ。何でもハナ肇が肝心ちゅうこっちゃ。『馬鹿まるだし』になれる学生のうちが華やで、人生ほんま。」「ええっ!爺さん『馬鹿まるだし』好きなの?オレもなんスよ」「アンタ、若いのに古い映画よう知っとんなあ。」「三味線弾いてるわけじゃありませんよ。でもダメダメ、この話を始めると長くなるから帰りますわ。」「ほっか、ほなまたな。」
 
 冬さんのアパートを後にした道すがら、公園の脇の生垣を背凭れにして居眠りしつつも乾嘔にしばしば苦しんでいる酔っ払いに遭遇した。大学生だろうか、まだ若い。この街では珍しくない光景だが、物語はここから先だった。学生の前を通りかかった30代くらいの酔っ払いが、若人の乾嘔を見て、こちらは立派に中身を出し切ってしまったのだ。それはそれは拝みたくなるくらい美しい嘔吐であった。真正の“もらいゲロ”というやつを生まれて初めて見た。学生の項垂れる先には、まるで本人が道端に描いたかのような液体が拡散しているが、これは全く別人のサラリーマンの吐瀉物である。30代は20代に「すまん、すまん」と手を合わせているが、眠りについた学生が頭を擡げる気配は一向にない。すると、酔いの冷めた30代が、鞄から手帳らしきものを出し、その1ページを乱暴にちぎり取ると、ペンで何やら書き始めたではないか。そのメモを20代のシャツの胸ポケットに挿し込むと、自分の口元に残っている粘りを拭いながら「ホンマにスマン」と立ち去っていった。十秒ほどが経過し、私が恐る恐る学生に近づいていくと、メモには吐瀉物の方向を示す矢印と共に「私のものではありません」と書かれていた。
 全ては冬さんの垂れた教訓の通りだった。20代の始めのうちに自分の伸びしろを知っておくべきであり、人間30過ぎたら大した成長は無い・・・つづく

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