見出し画像

「ディープな維新史」シリーズⅢ 維新の真相❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

奇兵隊に入った福原家臣たち


初代の宇部村長の山﨑峻蔵の子孫である中尾1丁目の山﨑紘一郎さん(昭和18〔1943〕年生まれ)を訪ねた。
 
山﨑俊蔵については、『諸士中戦争度数書出草案』に、禁門の変(山城国藤森合戦)に従軍したのち、四境戦争(折敷畑合戦)にも身を投じたと書いてある。

 『諸士中戦争度数書出草案』に維新の功績を記録されている山崎俊蔵

その峻蔵の父親の山﨑彦右衛門(山﨑半治)は、馬屋原彦右衛門の名で『奇兵隊日記』にも登場していた。そのことを聞きに行ったのである。 

山﨑さんが案内してくれたのは、宇部護国神社の正面に向かって右手の小道を登ったところにある刈川墓地だった。 

「これが奇兵隊に入った馬屋原彦右衛門の墓です」

 山﨑さんが指さした墓石には、確かに「山崎彦右衛門 彰信」と刻まれていた。それが本名なのだそうだ。

祖先の「山崎彦右衛門 彰信」の墓前に立つ山﨑紘一郎さん


 馬屋原彦右衛門こと山崎彦右衛門が奇兵隊に入った経緯は、山田亀之介が『宇部郷土史話』で「奇兵隊と宇部」と題して記している。

 そこに登場する山﨑半治こそが馬屋原彦右衛門であり、山崎彦右衛門のことであった。

半治は文久3(1863)年に家督を息子の巴門に譲り、自らは隠居していた。ちなみに巴門が、後に宇部村の初代村長になる峻蔵であった。 

ところが半治は隠居の身ながら、福原越後の出陣にいてもたってもおれなくなり、「スグリ藁の中に軍刀を隠し、ひそかに村を脱して三田尻に出で、宗藩の人夫に紛れて船に乗りこんだ」という。

そのまま瀬戸内海経由で京都に向かうが、早くも禁門の変で敗走して帰還中の船に播磨灘の沖で出くわした。

このとき、「軍(いくさ)は負けだ」と聞いて、悔しがったという。

福原越後は自刃する。

福原越後肖像(渡邊家蔵)

だが、領主を失った半治が、黙って引き下がるはずもない。

「宇部を救う為とあって馬屋原彦右衛門と変名し、山門の滝原勉(たきはらつとめ)、小串の神田久米作、この二人を誘うて脱走して奇兵隊に入った」(『宇部郷土史話』)

 加えて、「太田の戦に間に合うか合わぬかに行った」というので、その時期は慶応元(1865)年1月のころだろう。 

半治こと馬屋原彦右衛門(山崎彦右衛門)と滝原勉と神田久米作の3人を「宇部の人の奇兵隊に入った嚆矢(こうし)」と『宇部郷土史話』は語る。 

さらに少し遅れて川上の椋梨晋作が岩木健之助と変名して奇兵隊に入り、半治は息子の巴門(峻蔵)を誘い、さらにはまた巴門が河野秀雄を誘って入隊を計画する(ただし巴門は長男だったことで入隊はできなかったという)。 

領主を失った宇部の福原家臣団は、起死回生とばかりに奇兵隊に続々と入隊していったのだ。 

実際、その後も、飯田俊助(後の陸軍中将)、石川又一、大野梅太郎、河野秀雄、久保田宇一(楠上宇一と変名)、入江汀、日高周平、さらには生雲(阿武郡)の家臣が6~7名。合せて20名を、久保田寅彦(宇一の父)が率いて入隊した。 

この時の入隊者名が宇部護国神社の石段前の西村有友の歌碑「終にかく御代のしづめとなる神の高き功は誰か仰がぬ」の裏に刻まれている。 

宇部護国神社の西村有友の歌碑(平成27年11月)

➀ 山崎彦右衛門 彰信/② 村上小次郎 周徳/③ 神田久米吉 則忠/④ 入江汀 輔政/⑤ 橋本峯雄 一義/⑥ 日高周平 儔隆/⑦ 飯田敏輔 規行/⑧ 大野梅太郎 直忠/⑨ 椋梨晋作 順明/⑩ 河野秀雄 道康/⑪ 石川又市郎 恭輔/⑫ 三井弦二郎 清峻

生雲の家臣の奇兵隊入隊者も、以下の5名が確認できる。

 ⑬ 奕野忠平 道忠/⑭ 柏村晋 晴長/⑮ 有馬清右衛門 義友/⑯ 下瀬安吉 善秀/⑰ 伊藤虎松 直之 

奇兵隊は、幕府が長州再征令を出した慶応元(1865)年4月13日から(『もりのしげり』)、再び活躍する。 

以後を『奇兵隊日記』で追うと、4月27日に「馬屋原彦右衛門帰陣之事」と見える。 

5月9日に福原越後の嗣子である福原芳山(駒之進)が山口を発ち、「宇部え御引越」と『林勇蔵日記』は記している。

 これは一週間後に、幕府から罪を受ける形で自刃した福原越後の招魂祭(合祀)を宇部の琴崎八幡宮で行う準備のためだろう。 

禁門の変の責任をとり、国賊として散華した福原越後を神として祀るのであるから、幕府への敵愾心は猛烈だった。 

『奇兵隊日記』の5月10日には、「岩城謙之助・楠江卯一郎(久保田宇一)・柏村晋・下瀬安之助(下瀬安吉)・中島九郎・有馬清右衛門・馬屋原彦右衛門、明日より帰省候事」と見える。 

これも前出の福原越後の招魂祭の準備と思われる。 
家臣団はみな、宇部に戻るのだ。

 こうして5月16日に、琴崎八幡宮に福原越後が神となって合祀されたのである(『維新招魂社縁記』)。

『宇部村誌』(山田亀之介蔵)の「維新招魂社」の箇所にも、「慶応元年五月十六日 同家(福原家)は其(そ)の神霊を假りに琴崎神社に合祀せり」と記されている。

 なお、祭祀をつかさどった神官を「萩椿郷八幡社祠官青山下総」としているが、むろん人を神とする招魂祭を行った神官の本名は萩椿八幡宮第9代宮司の「青山上総介=青山清」であった。

山田亀之介所蔵『宇部村誌』の「維新招魂社」の箇所

 彼こそが明治維新後に青山清を名乗り、靖国神社初代宮司となる勤皇派神官である。 
これ以後、青山の名もまた『奇兵隊日記』に頻繁に出てくるのは、宇部兵の奇兵隊メンバーたちと交流の結果だろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?