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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❷ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

最初に祀られた益田右衛門介


京都に放火して御所の孝明天皇を長州藩に引っ張ってくる計画は、新選組の近藤勇も池田屋襲撃の3日後に養父・周斎に宛てた手紙でも明かしていた。
 
「長州藩士等追々致入京(おいおいにゅうきょういたし)却(かへつ)て近々放火砲発之手筈と事定まり其虚(そのきょ)に乗じ朝廷を本国へ奪行の手筈に豫(あらかじ)め致治定候(ぢていいたしそうろうところ)」(『池田屋事変始末記』)
 
こうして福原越後は宇部兵を率いて京都に進撃するが、もう少し詳しく見るなら、本来は元治元(1864)年6月22日の辺りで皇居に放火して孝明天皇を御所から拉致する予定だったのだ。しかし池田屋事件で計画が事前に漏れたことで計画が前倒しされたのである。

「池田屋騒動之址」石碑(平成19年8月撮影)


このため6月15日には来島又兵衛率いる遊撃隊が出撃し、翌6月16日に福原越後も江戸に嘆願に行くと称して300名の家臣団を率いて上京した。
 
その後、福原兵は6月22日に大阪に上陸して伏見に陣し、来島の遊撃隊は6月27日に嵯峨天竜寺に着陣した。国司の兵は7月11日に同じく嵯峨天龍寺に入り、益田の兵は少し遅れて7月13日に大阪に到着すると男山(京都石清水八幡宮)に陣している(昭和41年刊『宇部市史 通史篇』)。
 
ところが長州藩側は西洋銃(ライフル銃)が足りておらず、性能が悪い旧式の銃しかなかった。
 
福原家臣の石川範之が『伏水行日誌』で、「銃器ハヤーゲルトテ誠ニ不完全ナル者」と不満をぶつけたのは、このためである。

『伏水行日誌』に見えるヤーゲル中の性能の悪さを記した箇所。

結局、天皇拉致計画は失敗に終わり、幕府により長州藩の福原越後、国司信濃、益田右衛門介の三家老が責任を負わされ、同年11月に国賊として処刑されたのは、すでにみたとおりだ。 

3人の生首は広島の国泰寺に運ばれ、本当に自刃したかどうか幕府側の役人が実際に目で見て確かめる「首実検」が行われた。

 だが、これで一連の騒動が終わったわけではない。

長州藩は巻き返しをはかる。 年末に九州から舞い戻った高杉晋作が長府の功山寺で奇兵隊などの諸隊を決起させたのだ。

功山寺決起(高杉晋作)像。

その延長線上に、慶応元(1865)年の年明け早々に大田・絵堂の戦いに突入する。

 高杉晋作率いる維新革命軍が守旧派の俗論党を打ち破り、討幕派の勢いが強まる流れに沿って、処刑された三家老のうち、神として采地に最初に祀られたのが益田右衛門介であったわけである。 

場所は萩市の須佐である。

 須佐の「須佐歴史民俗資料館」近くの道路沿いの笠松山東麓に鎮座する笠松神社が、益田右衛門介を神として祀った神社であった。

創祀について『須佐町誌』が次のように記す。 

「須佐では旧臣らによって慶応元年二月八日笠松神社を建て、親施の霊を高正大明神としてまつったが、主君を思って慶応の年号を認めず、反骨の気概を示した社前の灯籠には元治四年(一八六七~慶応三年)の刻銘があり…」

 むろん益田親施は益田右衛門介のことであった。

 須佐郷土史研究会発行『温故 第二十五号』所収の「益田親施年譜」にはさらに詳しく、「慶応元乙丑二月八日 神祭号 高正大明神 毎年九月二日ヲ以テ祭日トス 同年八月六日 土居山ヲ切開キ一社造営ス」と見える。 

実は、益田親施が「高正大明神」となって祀られる2日前の元治2(慶応元)年2月6日のこととして、「益田右衛門介ノ遺臣大谷(僕)助等回天軍ヲ設立シ二十七日同志三十一人血盟書ヲ作ル」と『もりのしげり』が記していた。 

益田親施を「高正大明神」として祀るのと並行して、討幕のための須佐回天軍の結成が行われていたのである。

 いま、笠松神社を訪ねると、「元治三年丙寅四月」の文字が刻まれている拝殿前の石鳥居がある。

笠松神社(益田右衛門介を祀る)。鳥居に「元治三年丙寅四月」と刻まれている(須佐町)。

あるいは境内の石燈籠にも「元治三年丙寅十一月」とか、「元治四年卯九月」と刻まれている。

 「元治三年」は存在しない年号で、実際は慶応2年だった。

「元治四年」も慶応3年だが、「慶応」は幕府側の徳川慶喜(よしのぶ)に応じる意と解されるため、長州藩では使わなかったのである。

 こうした徹底的な幕府への対決意志の根源が「高正大明神」の本質に浮かび上がるのだ。 





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