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「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❶ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

「禁門の変」の謎


平成27(2015)年は山口県の明治維新を舞台にしたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』が放映された。
 
だが、視聴率はいまひとつ。山口県内でも盛り上がりにかけた。
 
私が暮らす宇部市でよく聞かれた不満は、宇部領主で「禁門の変」を主導した福原越後がほとんど登場しないという苦言だった。
 
実を言えば、大河ドラマが終盤に差しかかった同年11月に大阪大学にシンポジウムに招かれて出席したが、そのときNHKの土屋勝裕チーフディレクターと楽屋で談笑できた。

大阪大学会館での「『花燃ゆ』in大学」の楽屋風景。着席左からNHKの土屋勝裕さん、筆者、産経新聞編集委員の石野伸子さん(平成27年11月)

「なんだか大変なんじゃないですか」私の問いかけに、「うーん、まあ、ずいぶんいろんなところからお叱りを受けています」と土屋さんが答えた。

 おそらく宇部の苦言も届いていたのだろうが、それは話題に出さなかった。 代わりに、「吉田松陰を史実に近い形で描いておられたのは山口県では無理な演出でしょうが、NHKならできるんだと感心して見ておりました。あそこが一番面白かったですよ」と正直に感想を述べてみた。 

すると土屋さんが、「あれもだいぶお叱りを受けましたよ」と苦笑いをされた。

 私が「吉田松陰を史実に近い形」といったのは、原田伊織氏の『明治維新という「過ち」』とも関係があることであった。つまりNHKは、原田流に、吉田松陰をテロリストとして描いていたのだ。 

山口県では、偉大なる教育者であり、道徳主義者であり、親思いの聖人君子とされていた旧来の吉田松陰像を正面から否定する描き方だったのだ。なにしろ長州萩には松陰を神として祀る松陰神社まであるのだから。

だが、実を言えば、そんな行為者としての松陰こそが、真の松陰像と思っていた私には、NHKの描き方は、痛快であったのだ。 

そういえば防府市長の松浦正人さんも同席していたが、なんだかずっと機嫌が悪かった。 どうも土屋さんも松浦さんは苦手なようで、ほとんど口を利かれず、もっぱら私にばかりに話を振ってこられた。 

実は松浦さんが不機嫌なのも、なんとなく察しがついていた。大河ドラマでは最初の予定とは異なり防府市がほとんど登場せず、ドラマの終了後に松浦さんが市長の立場で、直接NHKに抗議したと漏れ聞いていたからだ。松浦市長なら、やりかねない。 

それはともあれ、『花燃ゆ』は外からいうほど、山口県では盛り上がらなかったことは間違いない。 

そこで、防府市と同様、『花燃ゆ』でほとんど取り上げられなかった宇部の明治維新史についても、この際、書いておこう。 

それは、元治元(1864)年の6月から7月にかけて起きた前出の「禁門の変」のことだ。

別名が「蛤御門の変」と呼ばれるのは、このとき長州藩兵が鉄砲の弾を打ちこんだのが京都御所の蛤御門だったからである。

京都御所の蛤御門=「禁門の変」(令和2年11月)

その門の正式名称は「新在家門」(しんざいけもん)というらしい。 
京都御所の蛤御門の傍には、「江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、〈焼けて口開く蛤〉にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになった」という説明板が立っている。 

ともあれ、この騒動で長州藩は「朝敵」となり、長州藩三家老であった福原越後、国司信濃、益田親施(ちかのぶ)の3人は一旦、徳山(現、山口県周南市)で幽閉され、その後、責任を負って自刃を強いられたのだ。

「禁門の変」後に福原越後が幽閉された地(現、山口県周南市)。

実は、三家老のうち福原と国司の二家老が現在の宇部市出身者なので、宇部こそが維新革命の3分の2を推進した地といえば、言えなくもない。 それにしても郷土史の講演などをしたときによく質問されるのは、「どうして長州藩は皇居に鉄砲や大砲の弾を撃ちこんだのですか」という問いである。「なぜ朝敵になったのですか」と、よく聞かれるのだ。

 だが、一般の学者などは憚りがあるのか、あまり正面から答えない。

実は、その部分は、伏せておきたい維新史であるし、原田伊織氏が、面白がってネタにする部分でもある。

 まずは禁門(蛤御門)の変に至るまでの概略を見ておこう。 

発端は前年(文久3年)8月18日の政変(八・一八政変)だった。幕府勢により長州藩兵が京都を追われた事件である。

 簡単にいえば、その巻き返しのために長州藩兵が京都に潜入し、すきを狙って御所に放火して、孝明天皇を拉致して長州藩に連れてくる秘密の計画こそが「禁門の変」の最終目的だったのだ。

 ちょうど今の山口県庁の場所に山口城を造営していた最中で、そこに孝明天皇を据えて、一気に新しい時代を長州藩主導で進めようという国家改造運動だった。

山口城は最初のころは「御屋形」とよばれており、その「御屋形」を描いた地図『幕末山口市街図』が山口県文書館に保管されている。

「御屋形」と記されている場所が後の山口城〔現在の山口県庁の場所〕(山口県文書館蔵「幕末山口市街図」)

 ともあれ、孝明天皇を山口城に連れてくる計画は『新選組戦場日記』の「元治元子年六月六日之事」にも以下の文言で見える。

 「全ク私宅ニ居ル拾人是ハ不残長州也、土蔵ニ入置品ハ御所焼キ打道具六月廿二日風並能ケれハ焼打致スノ了簡 天朝ヲ奪イ山口城江落スノ謀叛夫々数多長州人姿ヲ替江四条辺ノ町家江入リ込ミ隠レ居ル」 

これは京都の旅籠「池田屋」で長州藩士らと密談を重ねていた古高俊太郎(近江商人)を幕府方が捕まえて白状させたものであった。「池田屋事件」は、270年の眠りから覚める長州藩の革命的ロマン主義に彩られた事件なのだ。 実をいえば、私はこの話が面白く、好きなのである。 

だが、原田伊織氏は『明治維新という「過ち」』で、だからこそ「長州テロリスト」と酷評していた。それをいうなら新選組も「幕府テロリスト」なのだろうが、どうもそうは書かれてない。

 原田伊織氏は、選挙か何か、いわゆる後に言うところの「民主主義」的な手法で政権禅譲が行われたら良かったとでも言いたいのか。

あるいは、幕府は倒れなくてもよかった健全な体制とでもいうつもりなのだろうか。

 どうやら『明治維新という「過ち」』の視点は、単純に討幕を推進した長州が「悪」で、当時はすでに「オワコン」だった徳川家体制が「正義」という子供じみた見方なのだ。

 そんな原田伊織氏風に言えば、確かに吉田松陰の思想はテロリズムを内包した体制変革誘発思想だったろう。 

実際、安政6年4月7日、萩の野山獄にいた吉田松陰が、佐久間象山の甥であった北山安世(きたやまやすお)に書き送ったのは、「那波列翁(ナポレオン)を起してフレヘードを唱(となへ)ねば復悶医(いや)し難し」という言葉であった。そのためには「草莽崛起の人を望む外頼(たのみ)なし」といっていた。松陰は、「草莽崛起、豈(あ)に他人の力を仮(か)らんや。恐れながら、天朝も幕府・吾(わ)が藩も入〔要〕らぬ、只(た)だ六尺の微軀(びく)が入用」と続けている。

 これをテロリズムの決意といえば、言えなくもなかろう。

しかし、だからこそ何の結果も出ない閉塞した時代には、大きな魅力があったのではないか。

 吉田松陰の魅力は、『明治維新という「過ち」』が否定したその部分にこそ、意味があったのだ。

なぜなら、松陰にとって世の中は、「徳川幕府という〈過ち〉」だったからだ。 





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