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「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭


青山清の山口県側の3人の孫娘。左からヒサ、トヨ、マス(明治末・筆者蔵)

青山清の子孫たち

靖国神社の徳川康久宮司の「〈明治維新という過ち〉発言」が、ここまで大騒ぎになったのは、元東京都知事の石原慎太郎や衆議院議員の亀井静香ら超党派の国会議員有志が関わっていたからだ。
 
彼らは靖国神社を訪れ、西南戦争で新政府に敗れた西郷隆盛や会津藩の白虎隊、新選組など戊辰戦争で「賊軍」の合祀を平成28(2016)年10月12日に徳川宮司に申し入れていた。
 
なるほど、以前に徳川宮司は徳川家康公を祀った芝東照宮(東京都港区)の神職をされており、そこの宮司の立場で新政府軍を「向こう」と語り、幕府軍を「こちら」と語ったなら問題はなかったのだろう。
 
だが、官軍側を祀る靖国神社に、徳川家の末裔が就任した時点で、状況は変わるのだ。
 
私が青山隆生さんに案内されて、東京文京区の東京青山本家にお邪魔したのは、石原さんや亀井さんが徳川宮司に賊軍合祀を申し入れて半年が過ぎた平成29(2017)年4月15日であった。
 
お会いしたのは青山清の曾孫になる山口佳代子さんだった。

青山清の曾孫・山口佳代子さん〔左〕と祖先について語る筆者(平成29年4月)

簡単な挨拶を済ませると、私は曾祖母の祖父になる青山清のご神体を見せて戴いた。

青山清のご神体の鏡「従七位青山清霊璽」(平成29年4月・東京青山本家にて)

ここで、山口県側の子孫と東京青山本家について少し説明しておかねばならない。

まず山口県側は、青山清と山口県士族・勝木新之介の次女・増子の間に生まれた春木とツルの家系である。

春木は清の跡を継いで第10代の椿八幡宮大宮司となるが、「大夫塚」の神道墓に刻まれていたとおり、明治6(1873)年12月2日に上京中か、その直後に東京で亡くなっていた。

そこで娘のツルの家系のみが山口県側の子孫となるのである。ツルは萩藩士の岩崎信一に嫁し、長男の傳槌、長女ヒサ、二女マス、三女トヨの三姉妹を授かった。

長男の傳槌は岩崎家を継ぎ、広島経由で東京に出ている。いま、傳槌の長女ミツの孫娘・飯島美小夜さんが世田谷に住んでいて、古い家族写真などを送って戴いたことがある。

長女ヒサは野村喜三の後妻になった私の曾祖母である(正確には祖母の継母になる)。

徳山毛利の微臣として戊辰戦争で京都男山の戦い(城州八幡合戦)に従軍した野村陣兵衛が郷里に戻ってから、明治8(1875)年に徳山で授かった喜三が、どういう経緯か、旧吉敷毛利家臣で牧師になっていた服部章蔵に明治25(1892)年に洗礼を受けてプロテスタントになるのである。

明治期の野村家がキリスト教に帰依したことで、徳山のプロテスタント周陽教会の創立にも服部章蔵と共に関わり、さらには喜三が大正4(1915)年4月15日に母ハツ、後妻ヒサ、長男一男、次男正夫、二女チヅの一家で藤曲村居能(現、宇部市藤山)に入ったことで、居能で開いた野村呉服店でキリスト教の布教活動をはじめたのが緑橋教会のスタートになるのだ。こうした流れで野村家に嫁したヒサも熱心なクリスチャンになったのである。歴史とは不思議なものだ。

緑橋教会のルーツとなった居能の野村呉服店(昭和戦前・筆者蔵)

次女マスは美祢市の野村良蔵に嫁し、二人の間に生まれたヨシ子が西岐波の長生炭鉱を経営していた新谷軍二の長男・小林静男に昭和9(1934)年2月に嫁している。

ヨシ子は聾啞者で、小林もまた聾唖者だったので、早くも昭和3(1928)年7月15日に宇部市役所社会課の援助で宇部聾唖会を常盤通りの市役所西隣で立ち上げていた。

宇部市で最初の聾唖学校であり、夫婦で経営したのである。

昭和15年5月15日の発行された『大宇部 』には小林夫妻の経営する宇部聾唖学舎がグラビアページで紹介されている。

昭和15年5月15日の『大宇部 』で紹介されている宇部聾唖学舎

三女トヨは、野村喜三の弟・三治(明治12〔1937〕年生まれ)に嫁し、やはり熱心なキリスト教徒となって名古屋に出ている。

徳山中学校を卒業した三治が、そのまま代用教員になり、洗礼を受けた教会で知り合ったトヨと結ばれた後、三治は近衛師団の尉官となり、大阪砲兵廠で予備役に編入していた。

大正6(1917)年に名古屋市瑞穂区北原町に徳山の野村家(徳山で最初に教会になったと伝わる屋敷)を模した家屋を構えたと聞いている。

三治はトヨと上京後に大阪東教会、大阪桜山教会(昭和16〔1941〕年に日本基督教団名古屋桜山教会に改組)に転会し、昭和27(1952)年に亡くなるまで(トヨは昭和16年没)熱心なクリスチャンであった。
 






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