見出し画像

「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❻ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

招魂場建設令後の「小郡下郷山手招魂場」


慶応元(1865)年7月10日(『もりのしげり』では7月4日)に、長州藩が招魂場建設令を出して最初に創祀された招魂社は「小郡下郷山手招魂場」であった(石川卓美『防長護国神社誌 招魂社起源考』・山口県文書館蔵)。
 
いわば、これが合法的な招魂社の第1号というべきか。
 
むろん合法というのも長州藩内に限った意識だ。
招魂社の合法化は、そのまま討幕意識の公表を意味していた。
簡単に言えば、表立って幕府と戦うという意思表示をしただけのことである。
 
小郡下郷山手招魂社の創祀を石川卓美は「慶応元年七月十九日」とし、そこに祀られた戦死者を「集義隊」としている。「慶応元年七月十九日は京師禁門の変の一週年」で、「第二奇兵隊に於ては、世良修蔵、楢崎剛十郎 其の他の隊士等、熊毛郡石城山の陣営に祭壇を設け、神籬(ひもろぎ)を立て、厳粛に招魂祭を執行した」(『防長護国神社誌 招魂社起源考』)と見えるので、岩城山でも第二奇兵隊の招魂祭が行われたことがわかる。
 
そこで小郡の山手招魂社について、『小郡町史』(昭和54年刊)で確認すると、「小郡宰判では農兵から成る集義隊によって、同年(慶応元年)七月同隊ゆかりの英霊を祭るため、下郷の山手に招魂場を設けたのを起源とする」と記されている。
 
実際に探しに行ってみたが、簡単には見つけることができなかった。
小郡下郷山手下に鎮座する栄山神社が後身であったが、もとあった山手招魂社の場所に建てられてはいなかった。
 
栄山神社の前に立つ「栄山神社由来碑」には、「終戦後官費支弁が禁止され社殿が老朽化したので旧小郡在郷軍人有志が発起して浄財を集め昭和二十二年ここ栄山の地に社殿を移転建設、社名も栄山神社に改めた」と書いてある。

「栄山神社由来記」


それで山の中の遊歩道(栄山自然観察の森)を歩くことにしたが、しばらくして森の中でようやく「元招魂社 維新諸隊士の墓」と書かれた案内板を見つけることができたのだ。
 
そこには、「石段を上がったところに幕末、小郡宰判の農民からなる集義隊(のち八幡隊と合併し鋭武隊となる)殉職者の墓十三柱が建っている。大半は元治元年七月の〈禁門の変〉と慶応二年の〈四境戦争〉でたおれた若者たちである」と書いてあった。

「元招魂社 維新諸隊士の墓」の案内板.


おそらく石川卓美がいう最初の招魂祭が行われた「慶応元年七月十九日」は四境戦争勃発より前なので、最初は禁門の変だけの戦死者が祀られたのかもしれない。
 
いろいろ想像しながら、森の中にぽっかり口を開けた石段を登ると「天明二壬寅十一月吉日 信仰連中」と刻まれた小さな石鳥居が現れた。

旧山手招魂社の石鳥居 


すぐ向こうの左手に7基の招魂碑が並び(一番手前の招魂碑は折れて地面に転がり、つぎの招魂碑も途中から折れていた)、右手には6基の招魂碑が並んでいた。
 
鳥居に刻まれた天明2(1782)は禁門の変より120年余り前なので、もともと何かの小祠があった場所に招魂碑を建てて招魂社に仕立てたのだろう。
 
いずれにせよ、長州藩が招魂場建設令を出して9日後に創祀されたのがこの山手招魂場であったわけだ。
 
それから3週間を待たない8月6日に、下関で奇兵隊士を祀る大々的な招魂祭が行われた。
 
それが桜山招魂社で、現在の桜山神社であった。

下関の桜山神社(平成21年4月)

『白石正一郎日記』が示すように山県有朋が参列して青山上総介(青山清)が祝詞をあげ、白石正一郎が高杉晋作から借りた鎧直垂姿で、惣管に代わって神事奉行として献供するなど大々的な招魂祭として、討幕の烽火のシンボルとなる招魂社であった。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?