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【三田三郎連載】#011:W先生のこと

※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の第十一回です。
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W先生のこと

 私が大学院の修士課程に在籍していたとき、指導教員とのトラブルに見舞われたことがある。修士課程修了の直前に突如として、指導教員から修士論文を提出せず留年するように命じられたのである。大学院において指導教員の意向は絶対だから、私はその宣告を受けた時点で事実上留年が確定した。諸般の事情により詳述することはできないが、その経緯はあまりにも理不尽であり、研究科ではちょっとした騒ぎになった。研究科の大学院生や教員の大方は私に同情的で、慰めや励ましの言葉をかけてくれた。だが、残念ながら一部には心無い言葉を浴びせてくる人間もいた。ある研究員は、「ちゃんと先生に頭下げたんか。頭下げてお願いしたら最低点で通してくれるやろ」と私を叱責した。ある事務員は、「三田くんはいろんな人から心配してもらって幸せ者や。良い経験ができたんやから感謝せなあかんよ」とへらへら笑いながら言った。慰めや励ましの言葉は曖昧にしか覚えていないにもかかわらず、心無い言葉の方は一言一句正確に覚えているのだから不思議である。人間という生き物は、苦境にあって追い打ちをかけるような真似をしてきた相手のことはずっと忘れないようにできているらしい。

 ただ、先述の通り、そうした無神経な人間はごく一部で、ほとんどは私に温かく接してくれた。何人かの先生は、ありがたいことに私を飲みに誘ってくれた。その中でも、特に印象深く覚えているのはW先生である。W先生は私の友人の指導教員というだけで、あまり接点はなかったにもかかわらず、私を心配して飲みに誘ってくれたのである。

 約束の当日、私は待ち合わせ時間を間違えて、三十分ほど遅刻してしまった。その頃の私は精神が荒廃しきっていて、待ち合わせをするというただそれだけのことが、過酷な一大事業と化していたのだ。通常であれば、待ち合わせの時間と場所は正確に把握したうえで家を出るだろう。ところが、通常の精神状態ではなかった当時の私は、待ち合わせの時間や場所がうろ覚えでも、改めて確認する気力がないものだから、そのまま朧げな記憶を頼りに家を出ていたのである。当然、待ち合わせのミスが頻発することとなり、その日も場所こそ間違えなかったものの遅刻はしてしまった。そして巡り合わせの悪いことに、その頃は真冬で、待ち合わせ場所が駅前の公園だったため、W先生を寒空の下で三十分も待たせてしまった。

 でも、W先生は遅刻してきた私を叱るどころか、笑顔で迎えてくれた。私の精神状態を察していたのだろう、私がなかなか来ないことについて、苛立ちよりも心配の念が勝っていたようだ。W先生の優しさに救われたものの、今でもこのことは申し訳なく思っている。
 W先生に平謝りしつつ、近くの居酒屋に入った。ひとまず乾杯を済ませたものの、私が会話を楽しめるような状態ではないことを悟ったW先生は、気を遣って自分からたくさん話をしてくれた。そして、話すことと言えば、自分が大学の中でどんなトラブルに巻き込まれてきたかとか、どれほど惨めな思いをしてきたかとか、そういう内容だった。食事が運ばれてきても、酒をおかわりしても、W先生はずっとそんな話を続けた。私のことには触れてこないし、最初はなぜそんな話をするのか真意をはかりかねていた。だが、途中で私は気付いた。W先生は、自らの傷によって私の傷を癒そうとしているのだ、と。教授が大学院生に自らの惨めな体験を話すのは、恥ずかしかったことと思う。それでも、自分の恥を晒すことで少しでも私の気が楽になるならと、そうした話をしてくれたのである。

 結局、W先生が直接的な励ましの言葉を口にすることはなかった。だが、私は十分すぎるほどに励まされた。今だから打ち明けるが、当時の私は自死を有力な選択肢として保持しながら日々を過ごしていた。しかし、W先生と飲んだその日以降、現在に至るまでその選択肢は封印している。W先生には感謝してもしきれない。

死ぬ時も2×3は6だろう便宜上それを希望と呼ぼう   三田三郎

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著者プロフィール

1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124


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