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【三田三郎連載】#005:短歌を作り始めた頃の話

※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の第五回です。
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短歌を作り始めた頃の話

 私が短歌を作り始めたのは、高校を卒業してすぐの頃だった。高校生のときは穂村弘さんのエッセイを通して短歌に興味を持ってはいたものの、自分が短歌を作るなどということは考えもしなかった。だが、大学進学を目前に控えたタイミングで、どういうわけか何か新しいことに挑戦しなければならないという強迫観念に駆られ、その結果始めたのが短歌の実作だったのである。
 
 時間はありすぎるほどにあったので、毎日朝から晩まで自室にこもり、思い付いた言葉をこねくり回して短歌へと仕立てる作業に没頭した。作風は完全に好きな歌人の模倣でしかなかったが、自分の想念が定型に収まっていくのがとにかく気持ちよかった。
 
 ところが、そうしたお世辞にも健全とは言えないライフスタイルが祟ったのか、途中から自分で自分の精神状態を心配するような有様になってしまった。危機感を覚えた私は、部屋にこもるのをやめて、外を散歩しながら短歌を作るようにした。「この歌にウルトラマンは合わないか、字余りになるけど仮面ライダーにした方がいいか、だって春だしな」などと訳の分からないことを呟きながら住宅街を徘徊する青年の姿は相当に異様だったと思うが、ともあれ外を歩くようになって私の精神状態は劇的に回復した。
 
 これにて一件落着、となればよかったのだが、外を歩きながらの作歌にも問題点があった。もちろん不審な目で見られるというのもあったが、別にそれは私にとって大した問題ではなかった。もっと重大だったのは、外界には誘惑が多いということである。私は高校卒業直後に一人でふらっと飲み屋に入るような猛者ではなかったので、酒の誘惑の話をしているわけではない。そうではなくて、住宅街とはいえ近所に本屋やレンタルビデオ屋などはあったので、そういったところを通りかかると、無意識のうちに内部へと吸い込まれるのである。そしていったん入ったが最後、短歌のことはすっかり忘れてしまうのだった。
 
 そうした誘惑の中でも最も大きな脅威だったのは、漫画喫茶である。本屋やレンタルビデオ屋などであれば、徐々に立っているのが辛くなってくるので、時間を取られるといってもたかが知れている。だが漫画喫茶であれば、座り心地の良い椅子はあるわ、壁一面に漫画が並んでいるわ、おまけにドリンクは飲み放題だわで、半永久的に滞在することができる。初めはふらふら歩いていて偶然近くに来たら少し立ち寄る程度だったのが、いつの間にか自宅から一目散に直行して長時間居座るようになっていた。こうなるともう短歌を作ることなどできない。さらに間の悪いことに、麻雀漫画の面白さに目覚めてしまった。おそらくその店にある麻雀漫画は全て読破したのではないか。私の関心は短歌を作ることから麻雀漫画を読むことへと完全に移行した。こうして私の中の第一次作歌ブームは終焉を迎えた。
 
 大学へ入学した私は、麻雀漫画をひとしきり読み尽くしたこともあり、漫画喫茶には行かなくなった。一方で、作歌に復帰することもなかった。せっかく大学という場所へ通うようになったのだから、何らかの団体に所属してみようと思ったのである。そして私の入った大学には当時、学生短歌会などというものはなかったので、必然的に短歌からは離れることとなった。
 
 いくつかの団体に潜入調査を実施し、入念な検討を重ねた結果、大学新聞の発行を担う新聞部に入ることを決めた。かなり悩んで紆余曲折は経たものの、最終的には文章を書きたいという欲求に突き動かされたのである。大学公認の団体であり、先輩たちもみな温厚そうだったので、安心して入部した。しばらくは大学新聞の発行に付随する諸々の事務作業を担当することになった。勝手の分からないことも多かったが、いつも先輩が丁寧に指導してくれるので助かった。
 
 ところが、いざ私が記事を執筆する段階になると、すぐさまトラブルが頻発するようになった。私の書く文章が大学新聞にはふさわしくないと、部内で問題になり始めたのだ。新聞部が発行する大学新聞は、基本的なスタンスとして、大学に関する情報を価値中立的に淡々と伝えることが求められた。だが、この連載の読者なら既にお察しの通り、私にそのような文章が書けるはずもない。最初は冷静に事実だけを述べていたはずが、徐々に精神が高揚してきて、抑えきれなくなった自我が暴れ出し、文章が跳ね回って収拾がつかなくなるのだ。いくら先輩に注意されても、こればかりは私の生まれ持った体質が原因であって、すぐに矯正できるものではなかった。結果として、大学公認の真面目な新聞に、私がこの連載で書いているようなふざけた文章が掲載されることになったのである。
 
 そんなことが繰り返されるうちに、自業自得としか言いようがないものの、私は部内で露骨に疎まれるようになった。ある同級生の部員からは、真っ直ぐにこちらの目を見据えながら「僕は、あなたが、嫌いです」と一語一語を噛み締めるように言われた。また、副部長からの攻撃も印象的だった。会うとすぐ私の臀部を執拗に蹴ってくるのである。臀部を蹴られるという経験は、肉体的な痛みこそそれほど強くはなかったものの、屈辱の象徴のような側面があるために、意外にも精神へのダメージが大きかった。
 
 そういう状況だったので、私は自然と新聞部からフェードアウトしていくことになった。まだ一年生の中頃だったはずで、再挑戦が可能な時期ではあったが、もう集団での活動は懲り懲りだという心境に陥っていたし、他の団体を探して参加する気力も残っていなかった。何か一人でできる活動はないかと考えたとき、思い出したのが短歌だったのである。華やかな大学生活の夢破れて、退路を断たれた格好の私は、今度こそ全身全霊で作歌に取り組もうと決意を固めたのだった。
 
 それからは、高校卒業直後に自分を追い込み過ぎたことの反省を活かして、大学での授業や塾講師のアルバイト等を通じて一定程度の社会性は確保しながら、空いている時間は可能な限り作歌に費やすという生活を送った。また、当時は今ほど簡単に歌集が手に入る時代ではなかったものの、大学図書館には偉大な歌人たちの全集や選集が大量に収蔵されていたので、それらを片っ端から読むことでインプットも絶やさないように心がけた。すると、そのような生活様式が私にマッチしていたのか、ほとんど不満もないほどに快適で充実した作歌の時間を長くにわたって獲得することができた。
 
 ただ、そうした恵まれた日々の中でも精神的に辛いことがあるにはあった。最も辛かったのは、私の作った短歌を読んでくれる人がいなかったことだ。そもそも友人自体がほとんどいないのに、その中で私の短歌を読んでくれそうな人を探すのは至難の業だった。実際、私は短歌を作るばかりで、それを誰かに見せるという機会はほとんどなかったのである。
 
 一度、私の作った短歌から十首ほどを厳選し、それらが印刷された紙を思い切って友人に手渡したことがあった。公園での出来事だったと記憶しているが、私は友人が無言かつ無表情で私の短歌を読んでいる時間に耐え切れなくなった。気が付けば私はその紙を友人の手から強引に奪い取って、あろうことか衝動的に近くの池へと投げ捨てていた。友人は驚いた表情を見せ、慌てて池まで紙を拾いに行った。びしょ濡れになった紙を池から拾い上げて戻ってきた友人は、それを持ったまま穏やかな口調で、二度とそんな真似はするなと私を諭した。それは、私が自分の短歌を粗末に扱ったからなのか、あるいは私の短歌をもっとじっくり読みたかったからなのか、はたまた私が池にゴミをポイ捨てしたからなのか、友人が私を叱った理由はなぜか全く覚えていないが、その一件があってからというもの、自分の短歌を他人に見せることが怖くなってしまった。
 
 一度だけ、逆転の発想で、初対面の相手なら自分の短歌を見せられるのではないかと考え、実行に移そうとしたこともあった。だが、「実は私は短歌を作っていまして……」と切り出した途端に「じゃあ、ここで一句!」と言われて心が折れた。(念のために補足しておくと、俳句は「一句、二句」と数えますが、短歌は「一首、二首」と数えます。また、突如として相手に即詠を要求するような発言自体がそもそも大変に失礼です。そうした二重の意味で、短歌を作っている人に対して「ここで一句!」と言うのはタブーですので、絶対にやめましょう。※「ここで一句!」撲滅委員会会長三田三郎より)
 
 そんなこんなはありつつも、新聞部を離れてからの約二年間は、概ね順調に短歌を作り続けることができた。短歌が次々と脳内に浮かんでくるので眠れない夜もあったくらいだ。第一歌集の収録作の大半はこの時期に作られたものである。それほど作歌に関しては密度の濃い日々を過ごしていた。
 
 だが、三年生の中頃に再び岐路が訪れる。進路を決定しなければならなくなったのだ。少なくとも、その時点で就職か大学院進学かを選ぶ必要があった。その頃、大学での専攻分野に強い関心を抱いていた私は、悩みに悩んだ結果、大学院に進学して研究職を目指すことにした。
 
 そこから大学院の入学試験に向けて勉強を始めたのだが、それによって生活の均衡が崩れたのか、短歌を作ろうとしても全く身が入らなくなってしまった。いざ短歌に向き合おうとしても、その時間を院試の勉強に回した方がいいのではないかという疑念が頭を離れないのである。ここに至って私は、自分が学問と短歌を両立できない人間であることに気付いた。大学院に進学する以上は死ぬまで研究者でありたいと思っていたから、学問の道を選ぶならば短歌とは今生の別れになる。就職か大学院かというハードな二択の先に、今度は学問か短歌かというこれまたハードな二択が待ち受けていたわけである。また悩みに悩んで、最終的には短歌と決別して学問に専念する覚悟を決めた。
 
 ただ、大学院には進学したものの、修士課程の段階で指導教員からここには書けないような手厳しい仕打ちを受け、精神に回復不能なダメージを負った私は、早々に研究者としての道を断念することとなる。「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがあるが、一兎に絞って追いかけたからといって、その一兎が必ず手に入るわけではないのだ。
 
 一方で、研究者になれなかったからこそ、その後に短歌と再会することができたのだとも言える。懸命に追いかけていた一兎を逃した先に、かつて見切りをつけたはずのもう一兎が現れたのである。思い返せば、私は短歌というものがありながら、漫画喫茶に新聞部、そして学問と、ずっと浮気ばかり繰り返していた。そんな私を見捨てずにいてくれた短歌という兎には、もはや死ぬまで頭が上がらない。

咳き込んだ拍子に夢を失ったということにしてもらえませんか   三田三郎


著者プロフィール

1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124

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