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1987年 人生の舵が切られた二度目のニューヨーク

初めてニューヨークへ行ってから5年が経った21歳大学4年の時。就職前の夏休みに、兄がたまたま仕事でニューヨークにいるということもあって、一人で2度目のニューヨーク旅行に行った。
日中はほぼ一人でぶらぶらして、ミュージカルを見て、夜も何日かは一人で夕食をとることもあった。

この時もいくつかミュージカルを見たが、どれも素晴らしい僕の中で忘れられない作品たちとなった。
リンカーンセンターで見た「Anything Goes」。名女優パティ・ルポーンが主役。今にして思えば何と幸運なことか。1934年初演の作品のリバイバル版だが、作曲のコール・ポーターの写真がステージ上に掲げられ、コール・ポーター自身の歌声から自然にオーケストラのオーバーチュアへと流れる冒頭の演出で、僕はすでにこの作品のとりこになった。この時に購入したキャストレコーディングのCDは今でもよく聞く。

次にシューバートシアターで「コーラスライン」。ブロードウェイですでにロングラン中だったし、劇団四季もすでに日本版を上演していたこともあって、やはり見ておかなくてはいけないと思って見に行った。もはや感想を言うまでもない素晴らしいステージ。音楽もダンスもすべてが圧倒的。
ただこの記憶に関しては不確かで、ひょっとしたら1回目にニューヨークに行ったときかもしれない。確かめようがないので、ここではこの時に見たことにして話を進めよう。

そして出来たばかりのマーキスシアターの杮落し公演「ミー・アンド・マイガール」。ニューヨークでミュージカルを見るには、やはり歴史ある重厚な劇場で見る方が心躍るが、ここは出来たばかりの上にマリオットホテルに組み込まれた近未来的な劇場。劇場そのものにはなんの感慨もなかったが、ホテルのロビーフロアやエレベーターのデザインに感動した記憶がある。

この作品も元は1937年にウェストエンドで初演されたものがリバイバルされ大ヒット、そのロンドンプロダクションがそのままブロードウェイで上演した。作品としてはブロードウェイでは初演だったらしい。
こちらも幸運なことにロンドン版でも主演してオリヴィエ賞のベストアクターに選ばれたロバート・リンゼイがそのままニューヨークでも主演を演じたものを見ることができた。
彼はその年のトニー賞のベストアクターにも選ばれた。

ただでさえ英語がほとんど理解できないうえに、ロンドンの下町訛りが面白いらしく、客席は爆笑しているのに自分にはわからなかったことがもどかしかったものの、単純で明るいストーリー、ハッピーエンドな作品で十分ストーリーは理解できた。
3本続けて本当に幸せな作品に出合えたことは、今にして思えば本当に奇跡のような瞬間だった。
この時見た3作品は、今でも僕の中のマイベストミュージカル10本のうちに入ると思う。この時のミュージカル体験は、確実に今の仕事の根っこになっている。
この時のキャストによる「ミー・アンド・マイガール」のCDもいまだにしょっちゅう聞く。
ちなみにこれらの作品に対して、僕は事前に何の情報も持っていなかったので、初めてのニューヨーク同様、観に行った全ての作品を選んだのは兄である。

さらにこの時ニューヨークに行く目的はもう2つあった。
一つは、この前回の訪問の時にはまだ完成していなかったトランプタワーを見たいということ。
どういうわけか僕は大学生時代ドナルド・トランプという人物に興味を持ち、自伝を読んでいた。その自伝の中で「ファンタジーを売る」とまで言っていた金ピカのビルを見てみたかった。

5番街に面したトランプタワーの入り口

泊まっていたホテルからぶらぶら5番街を歩いて、タバコ屋で珍しい煙草を買ってそれを吸いながらトランプタワーを目指した。
遠くからでもすぐにわかるバカでかいビルとその異様な外観。
「くだらねえなぁ~」
最初の感想は凄いとか、立派とか、そういうのではなく、こんなバカバカしいものを建てるとは、なんて面白いんだろう。そんな感じだった。
建物の中もキンキラキン。目が痛くなる金色。
そんなトランプタワーを見ることができてとても嬉しかった。
そんな時、ふと
「いつかこの街に仕事で来られたらいいなあ。」
そんな漠然とした思いがあった。
ただしこの時はニッポン放送に内定が決まっていたので、ニューヨークで仕事をすることなどないわけだが、それでもなんとなくニューヨークにいる自分をぼんやりとイメージしていた。
不思議なもので、それから20年後。僕はニッポン放送からホリプロに移り、社長になって蜷川幸雄さんの作品の製作者として、リンカーンセンターで何度も作品を上演することになる。そんなこと夢にも思わなかった。
(ましてやトランプが大統領になるなんて、もっと思わなかった。)

トランプ大統領が誕生してからトランプタワーの周囲には
柵が張り巡らされ、厳重な警備になった。

ただ強く思うと現実になるということはその後も続き、日本で劇団四季の「オペラ座の怪人」を見たときには、
「いつかアンドリュー・ロイド・ウェバーに会いたいなあ。こんなミュージカル作りたいなあ」
と思った。そうしたら実際約20年後にホリプロは彼の作品を上演し、彼にも会うことができたし、「レ・ミゼラブル」を見た後も、
「キャメロン・マッキントッシュっていうプロデューサーに会って話が聞いてみたいなあ」
と思っていたら、やっぱり約20年後「メリー・ポピンズ」の上演の時に会うことができた。
だから、「デスノート・ザ・ミュージカル」を作った時も
「いつかロンドンかニューヨークで上演できたらいいなあ」
と強く思ったくらいだから、思いが実って初演から20年後の2035年くらいにはどちらかで上演しているかもしれない。

さて話を戻してこの年のニューヨーク行きのもう一つの目的は、プラザホテルの1階のティールームに通う、ということだった。
僕の大好きなジェフリー・アーチャーの小説「ケインとアベル」の中で、ポーランドからニューヨークに渡ってきた主人公の一人、アベル・ロスノフスキがアルバイトをしていたのがそこだったからだ。
小説に書かれていた細かな描写を、自分でも体感してみたかったわけだ。

ニューヨーク滞在中の約1週間、僕は毎日ティールームに通い続けた。そこでは毎日のように弦楽四重奏の生演奏を聴くことができる。その時間を見計らって行った。
ただ僕のようなどこから見ても東洋人で、どこへ行ってもティーンエイジャーに見られる日本人のちっちゃい兄ちゃんに、やさしくしてくれるほど上流階級は甘くない。最初の3日間くらいは入り口近くにある一番端っこの席に案内された。
なかなか注文も聞きに来なかった。
「アベルは現実にはいないんだな」そんなことを考えていた。
当時のニューヨークはまだ屋内でもタバコが吸えたので、ここで5番街で買った珍しいタバコが威力を発揮することになったのかもしれない。
1本1本色違いの紙に巻かれた変わったタバコを吸っていたのを、ウェイターが気にし始めたのが分かった。声をかけてきた人もいた。
そんな不気味な東洋人の兄ちゃんが毎日ほぼ同じ時間にやってきて、色鮮やかなタバコを燻らせ、アールグレイを飲みながら弦楽四重奏を聞いている。
4日目になって、案内された席が入り口付近から真ん中の席に代わり、次の日はさらに近づき、帰国前日にはとうとう演奏者にかぶりつきの最前列に通された。顔なじみになったウェイターに倍のチップを置いていったくらい爽快だった。
「ケインとアベル」の世界にどっぷり浸れた1週間だった。
先述した通り、みたミュージカル全て選んだのは兄であり、「ケインとアベル」が面白いと勧めてくれたのも兄である。
僕の人生の舵を切ったのは、兄だったのかもしれない。

ちなみに小説「ケインとアベル」はホテル王となったアベルが銀行家のケインと敵対する内容だが、このプラザホテルは後にドナルド・トランプが買収する。不思議な縁だが、残念ながらその後の改修工事でプラザホテル1階の思い出の地、ティールームは姿を消した。

こうして2度目のニューヨーク旅行は終わったのだが、この時の強い思いは今日まで続いている。
そしてこの2度目のニューヨーク訪問から約30年後。僕はミュージカル「バンズ・ヴィジット」の共同プロデューサーとして、ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールのステージに上がり、最優秀ミュージカル作品賞受賞の栄誉を受けることになった。
授賞式後の打ち上げ会場は、あのプラザホテル。
その地下と1階を貸し切って行われた。
僕は、30年の時を経てプラザの1階、ティールームがあった場所に “帰ってきた“のだ。

僕は何かの出来事が線でつながり、それが長大なストーリーとなったときは、その先の物事もうまくいくと思っている。そしてストーリーがずっと続いていくと信じている。

トニー賞最優秀ミュージカル作品賞受賞の瞬間
ラジオシティ・ミュージックホールのステージ上で

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