百田尚樹『日本国紀』が書けなかった日本近代史の真実とは?

はじめに:『日本国紀』が触れたがらない歴史の真実とは何か?

(冒頭イラスト:筆者。下手くそですみません) 

幻冬舎の社長と作家の津原泰水さんのトラブルが発端となって、再びあの『日本国紀』がメディアに注目されるようになりました。著者の百田尚樹氏によるこの書籍についての説明を、珍しいことに朝日新聞が載せたりもしています。

 私は『日本国紀』に対していろいろな面で批判的なのですが、このnoteでは、『日本国紀』の内容の誤りや流用などの問題よりも、むしろ、「『日本国紀』が何について書いていないか」という問題について幾度も簡単に触れてきました。

百田尚樹『日本国紀』のホンネは“戦後改悪史観”をばらまくこと?
『日本国紀』が隠蔽する不都合な真実!
百田尚樹『日本国紀』で北方領土問題がまるで無かったような扱いに
   なっている件

 『日本国紀』は、日本の近現代史上の多くの重要な出来事について、なぜか無視して、触れていません。この「『日本国紀』が書かなかったこと」をピックアップすると、それだけで一つの本が出来るくらいです。

 現に私は、「『日本国紀』が書かなかったこと」だけを集めて論じた本を出版しようと思い、原稿を書きためてきました。ただ、あるプロの方に助言もいただいたのですが、考えてみると『日本国紀』という著作はいずれ流行が終わって忘れられるわけで、最初からそれに便乗したような本を書こうとするのは得策ではなく、せっかく本を書くならもっと別な視点が必要だとも思えてきました。

 それはそれとして、いずれにしても『日本国紀』という本は65万部以上は売れたようですから、それなりに世間に影響を与えており、「『日本国紀』を歴史の教科書にしよう」などという人すら出てきています。

 果たして『日本国紀』は、歴史の教科書にできるようなシロモノなのでしょうか。内容が正しいとか間違っているとかいう問題もありますが、それ以上に、大切な歴史上の出来事をたくさん無視している本を、教科書に出来るのでしょうか。

 ともあれ、さきほど書いた出版の話は別にして、まずは「『日本国紀』が書いていないこと」を簡潔にまとめてみることにしました。
「何が書かれているか」ではなく「何について書いてないか」を解明すると、そこから著者のスタンスのようなものが見えてきて面白いものです。

 それではご覧ください。
『日本国紀』は、果たして何について「書いていない」のか。
そして、それはなぜ書かれなかったのか。
「書かないこと」の裏には、著者のどういう思想や態度が潜んでいるのか…?

1 大日本帝国憲法よりもすぐれた憲法案を民間人が提案していたのに無視…

 まずは明治期のあの有名な自由民権運動から話を始めましょう。自由民権運動については、さすがに『日本国紀』でも一応触れてはいますが、ごく簡単に済まされてしまっています。
 自由民権運動では、各地に団体(結社)が作られて、政治のあり方について勉強し、演説会も頻繁に開催されました。
 憲法制定と議会開設を求める動きは盛り上がり、このような中で、民間で憲法案を作る動きも各地に広がっていきます。
 これらの民間の憲法案を「私擬憲法」と呼んでいますが、現在わかっているだけでもおおむね1883年ころまでに、60以上の私擬憲法が作られました。特に有名なのは植木枝盛「東洋大日本国憲按」です。
 (植木枝盛とは土佐出身の自由民権運動家で、あの板垣退助と同郷。)

 この「東洋大日本国憲按」では、
 ・国家が国民の自由権利をはく奪できないこと
 ・法の下の平等
 ・死刑の廃止、さらに
 ・国民の抵抗権

 …まで盛り込んだ、当時としては非常に先進的な案で、大日本帝国憲法などよりも遥かに民主的でした。もちろん天皇が神聖な存在などとは書いていません。
  ここで、この「東洋大日本国憲按」と、実際に明治の日本で制定された「大日本帝国憲法」とを、それぞれ第1条だけ比べてみましょう。第1条だけでも、発想の違いがよくわかります。

 (参考リンク)植木枝盛の憲法構想 国立国会図書館

 また、現在の東京都あきるの市にあたる地域の自由民権グループが作った「五日市憲法」草案というのも、時代はくだって1968年になってから発見されて有名になりましたが、これも国民の権利を非常に細かく規定していました。

 (参考リンク)五日市憲法草案とその評価 あきる野市

 しかしこれらの民間のすぐれたさまざまな憲法案は政府に無視されて、1889年、天皇を神聖化した大日本帝国憲法が制定されるに至ったのです。
 こういう経緯は『日本国紀』では一切書かれていません。なぜなのかはわかりません。
 国民の権利や自由を守るためのすばらしい憲法を作ろうとして、私たちの先祖の自由民権運動家たちが一所懸命努力したという話です。『日本国紀』でなぜ書いてないのでしょうか?
 まさか、大日本帝国憲法よりも優れた民間の憲法案がせっかくたくさんあったのに葬られてしまった…という事実が知られてしまうと、都合が悪いのでしょうか?

2 教育勅語と御真影を使った国民洗脳教育が行われたことはスルーですか?

 『日本国紀』では、太平洋戦争後にGHQが日本国民を洗脳するために「WGIP」なるプログラムを行い、戦争に対する罪悪感を植え付けたと主張しています。(このWGIPについては一般にはトンデモ論扱いされているようですが。)
  ところが百田尚樹氏は、もっと早い時期に行われた重大な洗脳教育を見落としています。というより、都合が悪いのでわざと無視しているのでしょう。
  その洗脳教育とは何か?教育勅語と御真影による教育です。

  このnoteでも以前書いたように、明治の前半は、日本人の天皇に対する観点はかなり自由な感じで、「雲の上の偉い人」「身分のすごく高い人」ではあっても、忠誠や崇拝の対象というわけではありませんでした。江戸時代でいえば、農民にとっては殿様は偉い人ですが、別に殿様を崇拝したり、殿様のために命をかけようと思ったりはしなかったのと同じです。これは当然です。明治前半の人々は、江戸時代に育ったわけで、天皇に忠誠を感じるような教育は受けなかったのですから。
  だからこそ、1880年頃の自由民権運動家たちは「神武天皇は国泥棒だ」とか「神武天皇は蜂須賀小六と同じ成り上がり者」などと演説して、不敬罪などに問われたりしたのです。そもそも不敬罪という罪を法律で決めて取り締まったということは、そういう「不敬」な発言が頻繁に行われていたからです。
   
  一方明治政府は、天皇を中心として国民を統合することを考えて、教育体制もそれに合わせて整えていきました。1890年に義務教育制度が定められ、同じ年に有名な教育勅語も発布されます。
  教育勅語は、国民に対して、神の子孫である天皇の「忠良の臣民」となるように道徳を教える内容でした。さらに御真影(天皇・皇后の写真)も全国の公立学校に備えられるようになりました。祝日の行事などでは、校長が教育勅語をうやうやしく読み上げ、御真影に対して教員や生徒が頭を垂れるという光景がおなじみになっていきました。

このようにして明治の後半からは、国民は天皇に対する忠誠心を植え付けられるようになっていったわけで、これこそ洗脳教育というべきでしょう。
  はるか古代から日本人がみんな天皇を尊重していたかのようなことを言う人もいますが、実際はこういう教育で忠誠心を植え付けられた後の話です。
 こういう事情はよほど都合が悪いのでしょうか、『日本国紀』ではまったく書いていません。

 余談ですが、教育勅語や御真影をまるで天皇の分身のように扱ったため、教育現場ではいろいろな悲喜劇が起こりました。御真影に対するお辞儀が足りないとか、教育勅語を読み間違えたなどの理由で校長や教員が辞めさせられたり、逆に校長を失脚させる目的で御真影や教育勅語をこっそり汚したり盗んだりするなどの不祥事すら起こったのです。
 ひどい例になると、教育勅語を盗まれた校長が一家心中したり、御真影や教育勅語を火災や津波から守るために教員や校長が命を落として新聞で「教師の模範」として称賛されたりすることもありました。


3 宗教の伝統を破壊する神仏分離・廃仏毀釈が行われたのに、触れないの?

 さきほど見たように、天皇は神の子孫で神聖不可侵の存在とされていました。そして伊勢神宮を頂点として、全国の神社は国の機関とされ、神道は国家の祭祀として他の宗教とは別格の扱いでした。
 もちろん天皇が天照大神の子孫であるという神話ははるか昔からあったので、明治に始まったわけではありませんが、江戸時代以前は状況が大きく違っていました。
 細かい話はここではできませんが、仏教の存在が大きかったのです。
 江戸時代以前は、多くの主要な神社は寺が管理し、仏教が優位の状態でした。例えば滋賀県の日吉大社は延暦寺が、奈良県の春日大社は興福寺が、それぞれ管理していたのです。

 仏教がインド由来の宗教であることは江戸時代以前の人々も知っていましたから、日本限定の神道よりも仏教の方が格上だという考え方の方が主流でした。日本の神は、仏に奉仕する存在だとか、仏が仮の姿を取ったものだなどと考えられていたのでした。例えば日蓮宗では、天照大神は法華経を護持する神の一員とされていますから、法華経の方が皇室の祖先の神より優位だということになります。また真言宗では、天照大神は大日如来の仮の姿だとも見られていました。
 また全国の八幡宮が祀る八幡神は、江戸時代以前は八幡大菩薩と呼ばれて、菩薩と同一に思われていましたし、仏が仮の姿を取ったことを示す「権現」「明神」などという呼称も各地の神社にありました。
 こういう状態は神仏習合と呼ばれています。

 さらに天皇家も仏教と強いつながりを持ち、即位する時は大嘗祭だけでなく即位灌頂という真言宗の儀式を行い、花祭りやお彼岸の行事を行い、さらにお葬式は仏教式で行って、京都御所のお黒戸と呼ばれる部屋に歴代天皇の位牌が置かれていたのでした。

 そもそも仏教はどんなものでも無常という考えがあり、また輪廻転生の思想もあります。天皇が来世は庶民に生まれ変わるということもあり得ます。さらに悪いことをすれば地獄に堕ちるという考えもあり、天皇ですら地獄に堕ちたという伝説もあります。
 天皇を神の子孫として絶対的な権威を与えたいと考える明治政府にとって、こういう仏教の考え方は望ましいことではありませんでした。

 明治維新期になると、皇室から仏教が排除され、従来は春と秋のお彼岸だったのが春季・秋季の皇霊祭に変えられるなど、新たな神道の行事が考案されて、皇室に持ち込まれました。(この春季・秋季皇霊祭など、現在行われている皇室祭祀の多くのものは、明治初期に新たに作られたのです。)
  さらに歴代天皇の墓は京都の泉涌寺の境内に置かれていたのですが、明治以降は、新たに古代の古墳を真似た巨大な陵墓を作ることになったのでした。

 1868年には神仏分離が定められ、神仏習合を否定して、神社と仏教寺院が分離され、また寺院の土地が取り上げられるなどして、仏教界には大きな打撃となりました。
 さらに現場のレベルでは、過激化した神社関係者たちが寺院を荒らしたり破壊するなどの騒動が起こったり、役人が寺院を減らそうとしてトラブルになったりもしています。これらの動きを廃仏毀釈と呼んでいます。
  細かい例を挙げるとキリがありませんが、例えば、江ノ島の弁財天を祀る仏教寺院が神道の女神を祀る江島神社になったり、平将門を祀る神田明神で「天皇に逆らった将門を祀るのは良くない」とされて、将門がはずされたりするなど、多くの混乱が起こっています(平将門が神田明神に戻ったのは1980年代のことでした)。さらに地方の神社の神を置き換えて、古事記や日本書紀の神にしてしまうということも行われました。

 こういう動きは、『日本国紀』ではどういうわけか、まったく書かれていません。

4 産業革命の影の部分から目をそむけるのですか?

 明治に入って、最初は製糸業紡績業という軽工業が産業の中心となりました。特に絹糸を作る製糸業は輸出産業として大いに活躍し、外貨を稼いで日本経済に貢献したようです。
 日清戦争の後になると、重工業も次第に発展していくようになります。その象徴が官営の八幡製鉄所でした。製鉄業、造船業というふうに発展していきます。

 鉱業として有名なのが、栃木県の足尾銅山です。ここは江戸時代から銅の採掘が行われていましたが、明治になると、政府から古河市兵衛という人物が払い下げを受けて、古河鉱業という会社を設立し、大規模な開発に乗り出しました。あの渋沢栄一も古河市兵衛に出資しています。
 ところが大量に廃棄物が発生し、そこから鉱毒が川に流れ込んで、周辺の水質や土地が汚染され、魚も大量死し農地が荒廃するなど、甚大な被害を産み出してしまいました。
  たまりかねた農民たちは、古河鉱業を糾弾し、政府に対して対策を要求しましたが、警察と衝突して多くの検挙者が出ました。
  地元の代議士だった田中正造は、農民たちの苦境を見て、帝国議会でたびたび政府や古河鉱業を追及したのですが、政府がなかなか動かないのをみて絶望し、とうとう議員を辞職して、ついには1901年、明治天皇の馬車に駆け寄って直訴しようとする有名な事件を起こします。

 田中正造は処罰はされずに済みましたが、足尾銅山問題はこれで世間の注目を浴び、政府も対策に力を入れざるを得なくなりました。

(参考リンク)田中正造 とちぎふるさと学習 栃木県

 これはかなり有名なエピソードのはずですが、どういうわけか、これも『日本国紀』には書かれていないのです。
 百田尚樹さんは、一体何を考えているのでしょうか。苦しめられた民衆が政府に反抗した話は書きたくないのでしょうか?

5 日露戦争に反対した人々がいたんですが…興味ないの?

 1904年に日露戦争が起こります。戦争に至るまでに日本政府とロシア政府は様々な交渉や駆け引きを続けていたのは言うまでもありません。『日本国紀』では、当時のメディアや世論が「ロシア撃つべし」という主戦論を唱えて盛り上がったことばかりを取り上げています。主戦論が非常に有力だったのは間違いではありませんが、反対に、戦争に反対する論者もそれなりにいて声を上げていました。この非戦論者のことが『日本国紀』ではまったく無視されています。

 有名な例としては、まずキリスト教徒で教育者の内村鑑三があげられます。敬虔なキリスト教徒だった内村鑑三は、東京第一高等中学校の教員だった時に、さきほど紹介した学校の儀式での教育勅語の読み上げの際、おじぎが足りなかったということで非難を浴び、職を失ったこともあります。(神以外のものを崇拝することを拒否したからでしょう。)その内村は、日清戦争(1894年)の際は戦争を支持していたのですが、その後徹底した自己批判をして、日露戦争の時には『萬朝報』という新聞で、対ロシア開戦反対の論陣を張りました。『萬朝報』では、社会主義者の幸徳秋水堺利彦という人物も執筆していて、やはり非戦論を主張しています。
 (この幸徳秋水は文章家として知られて、さきほど紹介した足尾銅山事件で田中正造が、明治天皇に直訴するための文章の代筆をしてもらったほどです。)

 しかしながら『萬朝報』には開戦を支持する論者もいて、最終的には社全体の路線が開戦支持の立場になりました。非戦論者たちは退社して、このうち幸徳秋水と堺利彦は『平民新聞』という別な新聞を創設して活動を続けます。

 また日露戦争が始まってしまった後のことになりますが、歌人の与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」という有名な詩を発表して、日露戦争に従軍した弟の身を案じ、戦争に反対する気持ちを示したことが有名です。(結果的には弟は無事でした。)

 このような動きについて、『日本国紀』はまったく触れていません。おそらく戦争に反対する声にはまったく興味がないのでしょう。

6 米騒動とシベリア出兵が無かったことにされてる?

 大正時代に入ります。『日本国紀』では大正時代は割りと簡単に扱われています。期間が短いから仕方ないのでしょうが、書いている大きな出来事としては大正デモクラシー、第一次世界大戦と好景気、関東大震災くらいです。

 実際に読んでみると、『日本国紀』が大正期に起こった重要な出来事をいくつも無視しているのがわかります。一つは、米騒動です。

 1918年、第一次大戦の好景気と投機の動きもあって、お米の価格が急上昇し、8月には春に比べて2倍にまでなってしまいました。生活苦に苦しむ庶民は怒り出します。7月に富山県の魚津で、地元産の米を県外に船で搬出するのを阻止しようとして漁民の妻たちが大挙して港に押し寄せて、地元での安売りを要求するなどの騒ぎになりました。
 これは非暴力的な抗議だったのですが、新聞が「女一揆」などと取り上げて報道したことから、たちまち全国に知れ渡り、各地で反響が広がって、ついには暴力的な争乱まで起こっていきます。
 米屋が襲撃・略奪され、不当な買い占めを行っていると疑われた商社が放火されて、ついには海軍工廠で労働者が暴動を起こして海軍陸戦隊が制圧する騒ぎまで起こり死者も発生しました。

 全国で10万人の軍隊が動員され、約2万5千人が検挙される騒ぎになりました。この暴動で、時の寺内正毅内閣は総辞職しています。

 こういう怒った民衆が立ち上がるような話は、『日本国紀』は触れたくないのでしょう。完全に無視されています。

 細かいことを言えばきりがありませんが、もう一つ重要な大正時代の出来事を挙げるとすれば、シベリア出兵です。

 1917年にロシア革命が起こってロマノフ王朝が倒れ、レーニンが率いる世界初の社会主義政権が成立すると、革命の波及を恐れた各国は、ロシアの革命政権を倒すために、内政干渉をして反革命派を支援したり、自ら軍を派遣したりしました。(ちなみに、ロシアの革命政権は、この時点ではまだ「ソビエト社会主義共和国連邦」(ソ連)という国家にはなっていません。)

 日本も米国から誘われるなどして、シベリア方面での利権確保をめざし、1918年8月からウラジオストクに日本軍を上陸させ、7万人の兵力を動員しています。

 しかしシベリアの地はあまりに広く、冬になると厳冬で、日本軍は非常に苦しい条件で現地の革命軍(パルチザン)との戦いを強いられます。

 このような中、サハリンの対岸の町・ニコラエフスクで悲劇が起こります(尼港事件)。ニコラエフスクには明治以来数百名の日本人居留民が住み、日本領事館も設置されており、出兵してきた日本軍も数百名規模の部隊をここに進駐させたのですが、2000名を超える革命軍との戦闘になり、日本領事以下700名以上の日本人が革命軍に殺害されてしまったのです。

 これは一つの悲劇の例ですが、全体に戦闘や凍傷で3300名以上もの死者を出して、結局何も得るものがないまま、日本軍は7年後に撤退しました。

 シベリア出兵が『日本国紀』で一切書いていないのは、たぶん日本の軍事や外交の恥だからでしょう。しかも余計な内政干渉ですから、一方的な侵略で、何も良いことがありません。『日本国紀』としては、無かったことにしたかったのだと思います。
 (200名の日本人が中国で殺害された通州事件については『日本国紀』は細かく書いているのに、700名の日本人がロシアで殺害された尼港事件について無視しているのも不思議な話です。

7 国民の自由を弾圧して苦しめた治安維持法のことは、書きたくないの?

 1925年のこと、普通選挙を求める世論に政府も動かされて、男子限定で普通選挙が導入されました。これは『日本国紀』にも書いてあります。
 ちょうどこの1925年は、日本がソビエト社会主義共和国連邦(1922年に成立)と国交を樹立し、またシベリア出兵を終了させた年でもあります。社会主義国と国交を樹立するということで、社会主義思想の流入を警戒する声もありました。また普通選挙となると、労働者や貧困層も投票ができますから、現状への不満を吸収して社会主義政党が勢力を伸ばすことを政財界は恐れました。

 こういう事情もあって、同じ1925年、加藤高明内閣治安維持法という法律が成立しました。この法律は「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として、結社を組織または情を知りてこれに加入したる者は、十年以下の懲役または禁錮に処す」と規定していました。
 つまり天皇中心の政治体制(「国体」)を変革したり、資本主義経済(「私有財産制度」)を否認する政治勢力を抑えることが目的だったのです。(下記は治安維持法の閣議決定書:国立国会図書館より)

 1928年になると治安維持法は改正(改悪)されて、田中義一内閣のもとで、厳罰化と処罰対象の拡大が行われました。もとは結社を組織するか加入することが要件でしたが、改正(改悪)後は、結社に加入しなくても、その目的遂行のための行為をしただけで処罰可能となり、また最高刑は禁固10年から死刑になりました。処罰の範囲は拡大解釈されて、共産党や社会主義者の取締まりに猛威を振るいました。

 ちなみにこの1928年の時点では、何と帝国議会で法案が可決されていないのに、法改正(改悪)が行われたのでした。なぜそんなことが可能だったのかというと、大日本帝国憲法第8条第1項に「緊急勅令」という制度が定められていて、緊急の必要がある場合は、帝国議会の決議抜きで、天皇が法律に代わる勅令を定めることができるようになっていたため、この離れ業を使ったのです。(後に帝国議会が事後承認をしています。)
 緊急事態などで政府に強い権限を与えると、こういうことになりかねないという歴史の教訓です。

 1935年に共産党の組織が弾圧で潰滅すると、今度は自由主義者や宗教団体が治安維持法による弾圧の対象になりました。特に有名なのが、大本教創価教育学会(後の創価学会)です。
 大本教は、神道で最も古い神とされる国之常立神を祀る新興宗教ですが、皇室の祖先の天照大神より古い国之常立神を祀ることが危険視されるなどして徹底した弾圧を受けました。
 また創価教育学会は、伊勢神宮のお札を飾ることを拒否したことから、これも弾圧対象になったのでした。治安維持法が廃止されたのは、日本が戦争に負けた後でした。

 このように治安維持法は、戦前、政府が国民の精神的自由を破壊した悪法なのですが、何と驚くべきことに、『日本国紀』では一切記述がないのです。触れると何か都合が悪いことでもあるのでしょうか?百田さんは一体何を考えているのか、理解に苦しむところです。

8 戦争中には昭和天皇の東京脱出計画がありましたよ?

 第二次世界大戦中のことについてはここであまり詳しく触れる余裕はありませんが、『日本国紀』で気になったところを一点だけ挙げておきます。

 戦争中、東京を始めとして全国各地が空襲で大きな被害を受けたのですが、昭和天皇は東京から移りませんでした。『日本国紀』ではこのことが強調され、昭和天皇が疎開を拒否したとも書いています。そういう発言がどこかの時点であったのは事実のようですが、現実に疎開計画がなかったわけではありません。というより、現に天皇の疎開のための準備が進められており、予定まで立てられていたので、もっと戦争が長引いていれば昭和天皇は東京を脱出していたはずでした。

 具体的には戦争末期、連合軍の本土上陸が予期されたので、それに対応するため皇室と政府は、長野県松代町に巨大な地下施設を建設して、東京を放棄しそこに退避する計画を進めていました。この施設は「松代大本営」と呼ばれています。10トン爆弾にも耐えられるコンクリートの地下施設を計画して、1944年10月から秘密のうちに建設が開始され、朝鮮人労働者も多数動員されて働かされましたが、計画の75%ほど完成したところで終戦になったため中止されて終わりました。

 皇室、政府機関、大本営、日本放送協会、中央電話局などの国家機関の中枢が東京を捨てて松代大本営に移転する計画で、皇室は特殊な装甲車で秘密裏に東京から移動し、三種の神器も持って行く予定になっていました。

 この松代大本営の話は、今では知らない人が多くなっているようです。ひょっとして百田尚樹さんも知らなかったので書けなかったのでしょうか。

9 日本国憲法には「押しつけ」でない部分がありますよ!

 『日本国紀』では、戦後の日本国憲法の制定についてはボロクソに書いています。GHQが日本の実情に合わない憲法を、日本弱体化のために押しつけた、というのが著者のスタンスです。

 占領下で制定された日本国憲法が「押しつけ」要素があったことは否定できません。しかしGHQが作った案をそのまま日本語に直して、帝国議会で形だけ審議して右から左に受け入れたというわけではありません。
  GHQが異論をとなえない範囲では、帝国議会の審議で修正したり追加したりすることも可能であり、現に活発な議論が行われて、GHQ案に対して多くの修正が行われています。

  例えば憲法25条の「生存権」は、生活保護の根拠となる条文としても知られていますが、これは元々のGHQの案にはなかった規定であり、日本側の審議で追加されたもので、日本人が誇って良いものなのです。詳しくはこのnoteの次の記事を参照してください。

  日本国憲法の中の「押しつけ」でない部分とは?

おわりに:「書かなかったもの」から見えてくる『日本国紀』のスタンス

 いかがだったでしょうか。以上の内容では書き切れなかったこともいろいろあります(例えば北方領土問題についても書かれていません)が、このように『日本国紀』で触れなかったことについて検討して見ると、ある一定の傾向が浮かび上がってきます。

 それは「公権力が国民を抑圧した出来事や、逆に国民の側が不当な抑圧や政策を受けてそれに対して抵抗した出来事については、できるだけ書かないようにしたい」という意思が感じられるということです。

 そして全般的に、戦後の民主化や憲法制定の意義をできるだけマイナスに評価し、逆に戦前の体制や政策のマイナス面については触れないようにしたい、という姿勢が伝わってきます。 

(主要参考文献)(順不同)
佐藤信ほか『詳説日本史研究』(山川出版社)
色川大吉『日本の歴史21 近代国家の出発』(中央公論社)
隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』(中央公論社)
牧原憲夫『日本近現代史② 民権と憲法』(岩波書店)
原田敬一『日本近現代史③ 日清・日露戦争』(岩波書店)
成田龍一『日本近現代史④ 大正デモクラシー』(岩波書店)
中村隆英『明治大正史』上・下(東京大学出版会)
松永昌三『自由・平等をめざして 中江兆民と植木枝盛』(清水書院)
坂本武人『幸徳秋水 明治社会主義の一等星』(清水書院)
関根正雄『人と思想 内村鑑三』(清水書院)
色川大吉『自由民権』(岩波書店)
教育史学会編『教育勅語の何が問題か』(岩波書店)
安丸良夫『神々の明治維新』(岩波書店)
安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店)
佐藤弘夫『神国日本』(筑摩書房)
義江彰夫『神仏習合』(岩波書店)
村上重良『天皇の祭祀』(岩波書店)
圭室文雄『神仏分離』(教育社)
長岡新吉『産業革命』(教育社)
島薗進『国家神道と日本人』(岩波書店)
林竹一『田中正造の生涯』(講談社)
麻田雅文『シベリア出兵』(中央公論新社)
奥平康弘『治安維持法小史』(岩波書店)
筒井清忠編『昭和史講義』(筑摩書房)
古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波書店)








 

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