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不快を排除することはできない。

為末大さんのnote「不快と多様性」を読んだ。

不快は社会的な感覚です。だからこそラーメンを啜る音を不快に感じる文化圏もあれば全くない文化圏もあります。この両者が折り合って住む際に、どちらの不快をより普遍的な不快と定義するのでしょうか。ラーメンを啜る文化の人たちと、啜らない文化の人たちがわかれて住むのでしょうか。または多数派の不快に少数派を従わせるのでしょうか。
Dai Tamesue 為末大 (株)Deportare Partners代表「不快と多様性」より引用、太字は私)

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この文章を読んで思い出したのが、2年半前にプラハを訪ねたときのことだ。

日本は平成から令和になろうとしていたとき、慌ただしい日本から離れた。全く馴染みのないチェコという国。まだ1歳になったばかりの長男と街を歩いていたら、歩きタバコをしながら闊歩している人たちの多さに驚いた。

僕は非喫煙者であり、どちらかと言えば、いや、極めてあからさまに喫煙行為が苦手である。小学生のときに喘息を患っていたこともあり、気管支があまり強くないという事情もある。日本で暮らしていても、気を抜くと全方位からタバコを携えた人たちがやってくる。息子の受動喫煙を避けるという意味でも、かなり街中でのタバコには警戒している。そして言葉を選ばず正直に言うと、街中のマナー違反の喫煙者に対して不快な感情を抱いている。(すみません)

だが、不思議とプラハに滞在していたとき、街中でタバコを吸う人たちに対してそれほど不快な感情を抱かなかった。プラハ滞在中から不思議だったんだけれど、なぜか殆ど警戒することがなかった。最終的には「また行きたい!」とポジティブな思いを残しつつ旅を終えていた。

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そのときの感触と、為末さんの「不快は社会的な感覚」という言葉がぴたりと符合する。

あのとき僕は、プラハにとっては旅行者というアウトサイダーだった。なので不快な思いを感じる筋合いはなかったし、どちらかと言えば、僕が彼らにとって不快にならないよう(排除されないよう)努めたのだった。とか言うと若干後ろ向きな感じがするが、それは至って自然な社会的行為のように思う。「あなたたちと国籍は違えど、ざっくりいうと同じ人間です」というような振る舞い方をしたと思う。合わせにいったというか。

で、そう考えると、僕にとって「タバコを吸われる」というのは、本当に嫌悪する行為なのかという疑問が湧く。

ある場所では喫煙に対して寛容になれるし、ある場所では排除したい思いに駆られる。

僕の価値観とか志向性って、それくらいグラグラなベースの上に成立しているんじゃないだろうか。僕って何なんだろう。アイデンティティ迷子だ。

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ただ仮に、仮だけど、僕と同じような感覚(人間の本質がアイデンティティ迷子であるということ)だったとしたら、それって、活路をまあまあ見出せるということではないだろうか。

Twitterという空間で、今日も誰かが誰かを罵倒している。誰かが誰かのツイートにLikeをつけ、それが自分の立場であることを示そうとする。だけど場所が変われば(Twitterから離れれば)、罵倒したその人は至極穏健なキャラクターで周囲から信頼を獲得しているかもしれない。

BS-TBSで昨年放送されたドキュメンタリー番組「イントレランスの時代」。番組の中で、穏健そうな老人が、ヘイトスピーチを繰り返す政治団体の政治活動に参加している様子を映していた。

インタビューではとても穏やかに「自分が日本にできることを……」というようなことを語っていたが、いざ政治活動(という名のヘイトスピーチ)が始まると、突然大声を発し、ヘイトスピーチをさせないようにする人たちのことを罵倒した。その豹変ぶりは、ちょっと言葉では表現できない。

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番組を観ていたときの僕は「人間の本性って恐ろしいな」と感じたのだが、前項までの気付きを経て、もしかしたら……と思った。

あの老人は本心を表現しているように見えたが、もしかしたら、たまたま特定の環境で与えられた役割を、忠実に遂行していただけではないかと。ナチスで虐殺行為を主導したアドルフ・アイヒマンを例に出すのは気が引けるが、ヘイトスピーチが「滞りなく行なわれる」ように対処するのが、自分の役割だと信じているだけではないかと思ったのだ。

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話がだいぶ逸れてしまったが、不快という感情について。

もしも環境が行動を規定するのであれば、不快という感情を100%排除するためには、環境をガチガチに同質化させる他ない。

企業の採用活動で「カルチャーマッチ」という言葉があるが、曲解してしまうと、殆ど似たような人しか集まらない組織になってしまう。(フェーズにもよるし、それが悪いことだと一概に言うつもりはないけれど)

だがそういう環境や組織は、往々にして息苦しいものだ。

僕はこれまでチームスポーツをしてきたことがあるけれど、いずれも途中でフェードアウトしそうになったことがある。そのスポーツの才能がない、ということよりは、わりと組織の中で繰り返される「同じような」会話に息苦しさを感じてしまうからだ。ある意味で逃げ出したかったということだろう。

最近はタブーとなりつつあるが、「空気を読む」という言葉が流行したことがある。同質化した組織の中では、空気読めない言動=不快なもの、と見做される。なのでそういう言動をしないように「空気を読む」ということなのだろう。当時は自覚的でなかったが、「空気を読む」という言葉がまとう排除性の高さに震える思いがする。

こういった文脈のもとで考えると、不快や違和感というものを完全に排除すべきではないのだと思い至る。

「人間だもの」というと軽くなるが、やはり、「ちょっと変だな」という人を見掛けると、不快なり違和感なりを抱くのは仕方のないことだ。

だから、そこから始めれば良い。

ちょっとくらいの不快、不便、違和感、気持ち悪さを感じるとき、それは極めて健全な環境に身を置いているのではないかと。

ちょっとくらいの汚れ物ならば、残さずに全部食べてやる

ある分野での原理主義者的な態度を取る人を、完全に否定はしない。純度の高い思いは、時に世の中を変えるほどの影響力を持つことがあるからだ。(実際僕たちは、そういった「やりすぎ」に思える人たちの恩恵を受けるフリーライダー的な側面がある)

だけど、そういう人ばかりが正義ではない。

清濁飲み込みながら、ちょっとずつ折り合いをつけていこう。それが大人というものではないだろうか。

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