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都市を盗る

「都市を盗る」という言葉にピンとこられた方もいるだろう。今年で生誕100周年となる作家・安部公房が、1980年から2年ほど連載したフォト&エッセイのタイトルである。

2024年3月号の雑誌「芸術新潮」で、安部公房の特集が組まれ、その中で彼のフォト&エッセイが5本再録されていた。どれも面白く、安部作品とどこか通ずるところがあるような感覚(あるいは錯覚)を覚えた。

例えば1980年2月号の「芸術新潮」に寄せられたエッセイは、「便所」がテーマになっている。小説の主だった登場人物が便所にかかわり合いを持っているということで、便所を撮影して回っているという奇妙な内容である。

一部、引用する。

そんなことを繰返しているうちに、なぜか便所が好きになりはじめた。便所というより、小便をしている男たちの後ろ姿だ。とくにシャッターを押してから、現像されるまでの間、カメラの中に凍結されている男たちの背中の形を思い浮べていると、ぼくはちょっぴり人間が好きになりはじめた。
(中略)排便という行為は、自分をその末端に連結させるための部品化である。だから排便中の人間には顔がない。顔がないかわりに背中がある。匿名化を代償に、管理社会のスタンプを押された背中が見える。じっと時に耐えているような、孤独を背負った肩があらわになる。

(雑誌「芸術新潮 2024年3月号」P58〜59より引用)

本誌に寄稿している平野啓一郎さんは、安部のフォトエッセイについて言及している。「撮影時には、必ずしも動機を言語化できなかったとしても、彼が被写体に強い関心をそそられていたことは、ありありと伝わってくる」と記す。

なるほど、安部が書く物語はどれも珍妙な設定だが、どこか地に足がついた印象を抱く。それは人間を観察した結果、(ある意味で実存する人間よりも)リアリティを感じさせる人物として描けるからではないだろうか。

見えるもの、書いてある事柄すべてに人間が表れるわけではない。公衆トイレで小便をする人間の後ろ姿は「表情」こそ読み取れないものの、当時は(今も?)人間の滑稽さを物語れていたのだろう。

その集積が、安部の作風につながっていったと思うのは安直だ。だが、全体の一部として、小説の何かと接続していたはずだ。

今日は図書館で、安部公房の本を3冊借りてきた。しばし安部の世界に浸りたい。

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なお、現在公開日は未定だが、2024年に安部公房『箱男』の映画化が決まっている。

監督は石井岳龍さん。すでにベルリン国際映画祭で上映されたそうで、あの「箱」をどのように映像で表現したのか、今から楽しみである。

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