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近年起きる「難しい方がラク」という妙な感覚

兎にも角にも現代は、ラク(楽)であることが重視される世界になりました。

学問や資格取得の本であっても、文字よりもイラストの方が多いマンガ形式のものが一気に増えましたし、ネットで人間関係を募る際にも、一昔前と比べて「ゆるく」「気軽に」といった部分が強調されるようになりました。SNSのTwitter(現X)などもわかりやすい例で、"140字以下"という非常に少ない文字数で文章発信をする、もしくは読んで楽しむ為のサービスです。

ところが最近の私は、いずれも「ラクな方が難しくて、難しい方がラク」という具合に、サービスが想定している価値観とは真逆の感じ方をするようになってきました。

例えばマンガで学問が説明される場合には、イラストに余白が奪われた分だけ文章の絶対量は減ってしまいます。それで、学問の体系的な理解(つまり全体図を掌握する)為には、却って沢山の時間と書籍が必要になってきます。人間関係に於いても「ラク」を重視する場合、互いの腹の内を明かしたり、正面から向き合うことは自然に避けて通るわけで、本当の意味で打ち解けるためには、却って膨大な気力と時間が掛かると思うのです。Twitterも同様で、140字以内となれば、やはり情報の絶対量が少なくなりますし、思考の深度としてもいずれも浅い領域に留まらざるを得ないわけで、各発信者の人間性と真意を測る為には、とにかく量を沢山読み漁る必要が出てきます。つまり、「ラクな方が難しい」と感じるのです。

こういった感覚について、この記事を手に取られた皆さんも共感される部分が多いのではないでしょうか。何故なら、短文が主流になりつつ現代のネット風潮の中で、敢えて長文に特化した此処noteというサービス、つまり「あえて難しい方」を利用されているからです。

私は長期ひきこもりという個人的な身の上から"勉強心"みたいなものが不自然に有り余っているせいではないかと思うところもありましたが、最近はサービスによって想定される「大衆の知能」というものが、加速度的に年々低くなっていることで、いよいよ大衆の側からも違和感が出てきたことが原因ではないかと思い直してきています。

この調子で「楽で、手軽で、わかりやすい」が飽和していった先の世界で、人々はそれに飽き飽きして、大衆用のコンテンツにしても、むしろ高度な思考や深い真理など、難しいものこそが主流になってくる。有象無象のネット書き込みでさえ、いずれも深く高度な思考に基づいており、私など発信者気取りの素人はすぐに置いて行かれる。私も負けじと目を凝らし、世界の深みを見出そうとするようになる。高度であることが喜ばれる世界。単に娯楽、コンテンツとしてでさえ…。あるかも知れないそんな未来を想像すると、何だか無性にワクワクしてきます。


このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)