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少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ⑪ 日記のひとつのピークである部分 ~ 巣離れと旅立ち 

一九四四年三月七日、火曜日
(前略)
・・・それにしても、おととしごろのわたしは、あれほどいろんな点で恵まれていたのにもかかわらず、必ずしも幸福ではありませんでした。
ちょくちょく寂しさを感じることもありましたが、それでも、 一日じゅうとびまわり、遊びまわっていましたから、あまりそのことを考えること
もなく、せいぜい毎日を楽しんでいました。
意識してか、無意識にか、冗談でむなしさをまぎらそうとしていたんです。
現在のわたしは、人生について真剣に考えていますし、生涯の一時期が永久に終わつてしまったこともさとっています。
あののんきな学校生活は過去のものとなり、二度ともどってきはしないでしょう。さしてそれらをなつかしく思うこともありません。そういうものは卒業してしまいましたから。
真剣に物事を考えている自分がつねに存在するので、屈託なく道化役を演
じることも、もはやできません。
おととしから今年、一九四四年までのわたしの生活を、 いわば強力な拡大鏡を通してながめてみると、最初はむろん、もとの家での光り輝く日々があり、そのあとここへきてからは、すべてが一変して、日ごとの喧嘩口論、 いがみあいとなります。
その変わりようがのみこめないわたしは、ただ急な変化に驚くばかり。
そしてそのなかで、唯一、方向を見失わずにいるための手段、それがせいぜい意地を張って、 つっぱっていることだったのです。
一九四三年、つまり去年の前半には、孤立して、たびたびべそをかきましたが、そのうちおいおいに自分の欠点とか、短所などがわかってきました。
いまでも欠点だらけですけど、そのころはもっとひどかったような気がします。
昼間のうちは、わざと心にもないことをあれこれしゃべりまくって、みごとに失敗。
そこでたったひとり、自分を改造するという困難な仕事と取り組まざるをえませんでしたが、それというのも、ひっきりなしに浴びせられる非難を避けるため。みんなから浴びせられる非難があまりにも重くのしかかり、それに押しつぶされそうになって、萎縮してしまうほどだったからです。
去年の後半になると、事態はいくらか好転しました。わたしも十代のなかばにさしかかり、多少はおとなとして扱われるようになったからです。
いろんなことを考えたり、書いたりしはじめ、そのうち、自分なりの結論に達しました。
つまり、ほかのひとはもうわたしにはなんの関係もない、わたしを時計の振り子よろしく、右へ左へとふりまわす権利なんか、みんなにはない、わたしはわたし自身の望むところにしたがって、自分を変えたいだけなのだ、ということです。
そのときはっきりさとったのは、おかあさんなんかいなくてもぜんぜん困らない、いなくても平気でやってゆけるということでした。
これがわかったのはつらいことでしたが、それ以上に打撃だったのは、おとうさんでさえ、すべてを打ち明けられる腹心の友にはなれそうもない、そうさとったときでした。
それからはもはや、自分以外のだれをも信頼する気にはなれませんでした。 .今年のはじめになると、第二の変化がやってきました。夢です……そしてそれとともに見いだしたのが…異性へのあこがれ。同性のお友達への、ではなく、異性の友への。
さらにまた、自分のなかにある幸福というものも発見し、自衛のためにまとっている軽薄さと快活さという殻、それも自覚しました。
でもしばらくするうちには、それもいくらか落ち着いてきて、いまではもっぱらペーターのためにだけ生きています。なぜなら、ペーターこそが多くのものを左右するでしょうから。
今後わたしの身に起こるだろう非常に多くのことを。
いまでは、夜、ベッドに入って、お祈りの最後に、「この世のすべてのすばらしいものや愛おしいものや美しいものにたいして神様に感謝します」と唱えるとき、わたしの心は歓喜に満たされます。
そして思います、こうして隠れ家生活をつづけられることの、健康であることの”すばらしさ″を。
わたしの全身全霊をあげて思います、ペーターの″愛おしさ″と、 いまはまだ芽生えたばかりで、すごく感じやすく、ふたりともあえてまだ名づけようとも、手を触れようともしないあるものの″愛おしさ″を。
愛、未来、幸福など、この世を意義あらしめているすべてのものの″美しさ″を思います。
世界、自然、その他すべてのものの、すべての傑出したものの、すべてのみごとなものの、比類ない″美しさ″を思います。
そんなときわたしは、あらゆる不幸のことはいっさい考えません。
ただひたすら、いまなお眼前に存在する美についてだけ考えます。
この点こそがおかあさんとわたしとでは、まったく態度の異なる点のひとつです。
だれかがふさいだ気分でいると、おかあさんはこう助言します。「世界じゅうのあらゆる不幸のことを思い、自分がそれとは無縁でいられることに感謝なさい」って。
それにひきかえ、わたしの助言はこうです。「外へ出るのよ。野原へ出て、自然と、日光の恵みとを楽しむのよ。自分自身のなかにある幸福を、もう一度つかまえるように努めるのよ。あらゆる美しいもののことを考えるのよ。
そうすればしあわせになれるわ!」
おかあさんの考えかたは、とても正しいとは思えません。だって、もしそうなら、自分自身が不幸のなかをさまよっている場合、いったいどうふるまったらいいんでしょう。お手あげじゃありませんか。
それとは逆にわたしは、どんな不幸のなかにも、 つねに美しいものが残っているということを発見しました。それを探す気になりさえすれば、それだけ多くの美しいもの、多くの幸福が見つかり、ひとは心の調和をとりもどすでしよう。
そして幸福なひとはだれでも、ほかのひとまで幸福にしてくれます。
それだけの勇気と信念とを持つひとは、けっして不幸に押しつぶされたりはしないのです。

                じゃあまた、アンネ・M・フランクより

アンネの日記増補新訂版 p362 - 366

この日記が書かれたのは、日記が終わる5か月前のこと。
長い日記の中でも、アンネがひとつの結論めいた決意を記したといってもいい部分かと思う。
一見、両親への反発、特に母親への嫌悪のように思えるかもしれないが、もはや精神的に、そういう段階を遥かに過ぎていることがうかがえる。

つまり、自分を「未熟者あつかい」或いは「子どもあつかい」するという差別に対し、敢然と決別する決意を表明し、また独自のパラダイム(価値観を伴った、物事の見方・捉え方)に従い、より高い理想に向かって旅立つという、強い意志が、この日の日記から感じられる。

アンネは、物理的・精神的に、ナチス・ドイツというファシズムから差別・迫害を受けていたのであるが、それは人種差別であり、「劣等民族あつかい」だったわけである。
しかし、相手のことを「自己と同じく尊重するべき存在」として扱わない、「子どもあつかい」や「年寄りあつかいなども、相手を傷つけ苦しめる差別であることには変わりないのだ、ということをアンネの日記は訴えているように思える。


1944年8月4日正午すぎ。ゲシュタポによる急襲・連行の後、床に散乱したアンネの日記と日記帳を見るミープ・ヒースら。


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