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Paris、HK、NYのプロジェクト。絵を描かなくなった理由について2

この様なパリと香港のプロジェクトでの仕事に追われて、自然と制作をする時間がなくなっていった。

日本のパートナーの方からも「これからはアーティストとしてではなく、経営者として頑張ってもらわねば」という言葉をいただいていた。

またしてもここでアートと職業という問題にぶつかっている。その時には自分では気がついていなかったけれど。二つの店舗のセレクトを完全に任せてもらっているという普通では考えられないラッキーな状況に対して、自分が出来る限り答えようという思いしかなかった。

そして香港の店舗もオープンし、二つのプロジェクトが落ち着いた頃、また出会いがあった。

フランスの国費をアーティストに助成金として振り分ける部署で仕事をしている男性Jとの出会いだった。彼はgalleryペロタンに所属しているアーティストなど、一線のアートシーンで活躍しているアーティストに制作費として助成金を振り分けてきていたので、フランスのアート業界の繋がりに長けている人だった。アーティストとだけではなく美術館やアート団体、ギャラリーとの繋がりも深かった。

これはアートを始めた時から自分が求めていた出会いだった。

アート業界について知りたい。どうしたら一流のアートシーンに食い込めるのか?とずっと考えていたから。

Jは今の仕事を辞めて私のプロジェクトに入りたいといってくれた。これもまた夢の様な話だった。

Jとの出会いのあと、現在の店舗とは別にギャラリーを作ろうという話が持ち上がり、日本のパートナーも了承してくれた。

物件を探しながら、次のプロジェクトについて話をしていくうちに、やはりギャラリーと店舗を分けるのではなく、同じ空間にその二つが共存できるスペースを作りたいという話になった。そして最終的にはその二つのスペースにプラスαでカフェも併設した施設という大きなプロジェクトに変わっていった。

いくつか候補の物件があったが、スペースが小さかったり、オーナーとの話が進まなかったりしていたが、マレ地区に元工場だった物件を見つけた。

そうこうしているうちに日本のパートナーがニューヨークにも店舗を持つことに決めた。

私とアートディレクターとして入ったJはニューヨークに呼ばれ、これからのパリ、香港、ニューヨークが連携してプロジェクトを継続していくためのプランを練った。

ちょうどその時ニューヨークマラソンの時期だった。私とJはカフェのテラスで朝食を食べていた。マラソンランナーがその前を駆け抜けていき、とても寒かったのだが特別な高揚感の中にいた。

Jが昔自分がアーティストだった時のことを話してくれた。若い時にMOMAのグループ展に参加したことがあるということもその時に知った。「でも自分個人の制作ということに興味が持てなくなった。アーティストを助ける仕事をしたくなったのだ」という。私はその話を聞いた時に、自分もその様に感じていると語った。「自分はこのプロジェクトに身を捧げたいので、アーティストとして活動したいという思いは諦める」と。

このニューヨーク滞在中にJがピックアップしていた現代アーティストのアトリエを回った。全てコンセプチュアルアートのアーティストたちだった。

映像、立体、文章と音などによって作品を作っているアーティストたち。全てが新鮮で、驚きと発見と勉強の日々だった。


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