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この状況は私たちに何を問うているのか(「夜と霧」) | きのう、なに読んだ?

緊急事態宣言が出るのか出ないのかヤキモキしていた2020年3月末から4月上旬にかけて、「夜と霧」を読んだ。

ちゃんと読むのは初めてだ。これまで、本書の内容についてきく機会は数多くあったが、何となく手にとらずにいた。新型コロナウイルスの影響で外出を自粛するようになり、初めて自分ごととして読もうという心構えができたのだろう。

本書の前半では、収容所の過酷な様子、収容された人々が身体的・精神的に追い込まれていく様子が、冷静に描写されている。私はワシントンDCで大学院に通っていた1996-97年、ホロコースト記念博物館に何度か足を運んだ。読みながら、博物館で見た展示や動画を思い出していた。

ただ、そうした描写よりも、そのような過酷な状況にあってなお、人間的に成長した人々に関する著者の考察の方が、印象に残った。

1.マインドセット

位置: 1,465
このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす苛酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごくふつうのありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。

上記引用の前半にある「こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考える」人は「硬直マインドセット」、後半の「死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっした」人は「しなやかマインドセット」の極限の事例かな、と考えた。マインドセットついて、詳しくは、以下を。

位置: 1,476
強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」  けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。

2. 回想ごっこ(文脈の置き換え)

位置: 1,498
来る日も来る日も、そして時々刻々、思考のすべてを挙げてこんな問いにさいなまれねばならないというむごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこで、わたしはトリックを弄した。突然、わたしは 晧 々 と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には坐り心地のいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される……このトリックのおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。

未来の、理想を達成した状態をリアルなシーンのように思い浮かべ、そこから現在を見る。未来の自分が現在を回想するところを想像する「回想ごっこ」だ。そうすると現在の苦しみの「意味」が、全く異なるものとして立ち上がってくる。

バックキャスティング (backcasting)という概念がある。都市計画、水道・エネルギー、SDGsなど環境の持続可能性の領域で、未来の理想型を想定し、そこから逆算して必要な計画や施策を策定する手法、とされる。私も、事業計画を作るときに同じようなアプローチを取る。蛇足だが、backcastingは、forecasting(予想、予報)の対語をイメージしたネーミングだと、私は考えている。

「夜と霧」で著者のフランクルが用いた「トリック」は、理想の未来時点から現在を見るという点で、バックキャスティングと似ている。一方、両者には大きな違いがある。バックキャスティングは、理想の未来を実現するために「これから何をするかを洗い出す」ために行う。一方、フランクルの「トリック」は、「現在起きていることの意味づけを変える」効果を目指している。現在の文脈を、理想の未来の文脈に置き換えることで、一つひとつの事象の意味づけを変えるのだ。

文脈の置き換えという点で、似た手法に「ヒーローごっこ」がある。自分が難しい状況にあるとき、自分の理想のヒーローだったらどう行動するかをイメージする。そして、そのヒーローになったつもりで自分の行動を見直していく。

3. 「悩み」から「問い」へ

位置: 1,506
スピノザは『エチカ』のなかでこう言っていなかっただろうか。「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)

昔、職場の若手が「新入社員の頃は悩んでばかりだったが、最近はそうでもない」と教えてくれた。詳しくきくと、今は解決に向けてまず一歩踏み出し、動けるようになったと言っていた。私は、それは「悩み」「モヤモヤ」を「問い」に変換できたということかな、と解釈している。

私たちは無意識のうちに常に自分に質問をしている。それで、その質問をされると答えたくなっちゃう。「どうしてあの人は嫌味を言うのか?」と無意識に質問すると、悶々とする。それが「どんな時にあの人は嫌味を言うのか?」という質問になると、悶々とせず観察モードになる。

つまり自分に問う質問をちょっと変えると、発想が変わるのだ。答えの出ない「悩み」を脱して、一歩踏み出せる緒が掴める。

この辺りのことは、次の本で学んだ。

4. 生きることは、私たちに何を問うているのか

位置: 1,363
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に 左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだ。

言い換えると、おおかたの被収容者は「自分の生きる目的」を問うていた。その目的は、収容所の外にある。だから、解放されるまで生き延びないと、そもそも生きる意味がない。それまで生き延びないのなら、今の苦しみを耐える意味はない。そう考えていた。

しかし、著者の考えは、違う。

位置: 1,558
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない

位置: 1,561
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

位置: 1,564
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

著者がここで語っていることは、「あなたの人生の意味」という本の主題そのものだ。

「あなたの人生の意味」では、「人には“Adam I”と“Adam II”の2つの面がある」という人間観を基礎においている。Adam I は「私は人生で何を成すべきか」を問う。それに対し、Adam II は「人生は私に何を問うているのか。この状況は私に何を求めているのか」を問う。Adam Iとは「社会的成功を目指す私たち」、一方のAdam IIは「人徳を磨き、善き人であろうとする私たち」のことだ。「大きな私」と「小さな私」と言っても良い。この2つは対立概念ではなく、補完関係にある。「Adam I が花開くには、Adam II を涵養し、Iの土台とすることが必要だ」からだ。

Adam I の論理は、努力をすれば報われる、練習を重ねれば上達する、だから自分を信じて自分の価値を高めよう、という功利的な論理だ。一方のAdam II の論理は真逆。成功の先には「奢り」という失敗が待ち構えている。失敗の先には「謙虚さ」という人生の果実がある。まず自分を捨てなければ、“本当の自分”には出会えないーー。

以下のnoteに、私の「あなたの人生の意味」の感想を書いている。

「夜と霧」著者のフランクルは、収容所がから解放された後、ロゴセラピーという心理療法を創設した。「人生の意味」を見出すことで苦しい状態からの回復を目指すものだ。

「夜と霧」の英語版のタイトルは、 "Man's Search for Meaning" だ。

新型コロナウイルスの感染リスクにより、外出を自粛し、離れて暮らす家族や友人と会えず、先の見えない不安を抱える今の状況は、私たちに何を問い、何を求めているのか。「この状況は変化のチャンス」という論調をよく見るが、それは働き方やビジネスチャンスといったのような功利的な領域、あるいは政策のあり方のような社会の仕組みの領域を扱っているように思える。そうした領域はもちろん大事だ。それに加え、私たちが自分の倫理的な礎 (moral core) を探求し人間としての崇高さに一歩でも近づくことを、この状況は求めていると考え、自分に問いたい。

これまでの世界は、「私は人生で何をなすべきか」を問う、功利的なAdam I の価値観に偏重していた。もしかしたら、コロナウイルスによって、世界を支配する価値観が Adam I から 、「人生は私に何を問うているのか」を探求するAdam II へとバランスを変えるのかもしれない。

今日は、以上です。ごきげんよう。



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