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安倍晋三「元」総理大臣の国葬費用を支える私のブルシットジョブ

苦しい仕事と、給与と、税金

私のお金を返してほしい。

私が、
同じミスばっかり繰り返して泣きながら電車に揺られた夜とか、
隣で上司が社長に叱責うけてるのを聞かされて息が苦しくなった時間とか、
「ちょっと、お客さん来たから、お水とコップお願い!」と言われて呼吸が止まりそうになった瞬間とか、いつまでたってもなくならない紙資料と、ハンコとか、「SDGs」だの「LGBT」だの呪文のように唱えて、「そういうもの」を一括りにする暴力と、偽善と、加害と…。
そんな環境で働く私。誰しも、苦しい時も悲しい時も仕事をしている。もちろん、楽しくて仕方のない仕事もあるかもしれないが、待遇が良く、環境にも恵まれた職につける人は、一握りの「才能」と「能力」を待ち合わせた、ヒエラルキーの上の方にいる人たち。

時として吐き気を催す職場での時間と人間関係と環境の総括が、毎月25日にわたしの手元にやってくる「お金」。そこから、税金という名目で、ただでさえわずかな給与の手取り額を減らす、社会保障の仕組みがある。給与が不快な時間との等価交換なら、税金は国家に属する私たちが公共のために支払う当然の義務、そしてセーフティーネット。だから、日々のブルシットジョブも、しぶしぶ飲み込んできた。しかし、いよいよ許せない。

私のたいせつなお金が、いち政治家の行いを美化するために使われる。しかも数々の功罪ときた。国葬と聞いて、心臓が止まるかと思った。仮にも、「元」総理大臣の国葬である。メディアは、しきりに「戦後は、吉田茂元総以後初めて」と、国葬の意味を強調するが、今回はそれとは訳が違う。

国民の、国会の、問いかけに答えてください

彼は、小さなマスクを配ったくらいで、説明責任を放棄しつづけた人。この国の不透明性は挙げたらキリがないが、「使途不明金」の行方や、彼らが間接的に関与した人殺しの真相は明らかにならないまま。そして半数以上が不参加な政治が「民主主義」と呼ばれはじめた、これら諸々のおかしさは、ものの見事に闇に葬られ、代わりに遺体なき神格化された「魂」が葬られるらしい。その国葬の財源は、実は、わたしとあなたのお金。

とにかく、返してほしい。ここぞとばかりに執着している。もはや、金なぞどうでも良いのかもしれない。本当に返してほしいのは、回答。大人なら誰しも求められる説明責任。「記憶にございません」「検討します」「お答えできかねます」で、しゃあしゃあと生きながらえている公人と、それを許す大衆の存在とは。「政治的無関心」とは何ですか?投票、政治参加しない人たちの背景にあるものは単なる「無関心」とは言い難い。民意の半分が反映されない政治システムのおかしさは、「政治的無関心」とこじつけたところで、消えて無くならない。向き合わなければならない事実でしょう。

そして、やっぱり、どこにいったのかわからないお金の行方を答えてほしい。来る秋には国家予算という名目で、負債が追加される。せいぜい警備なり供花なりに消えていくであろう私のちっぽけな血税と、稼げど稼げど埋まらない賃金・教育・文化資本の格差と、歯車のように働き続けても一向に上がらない国民の幸福度とGDPと、そんな私たちの人生の意味とは?諸々の問いに答えてもらっていない。ブチギレ

タブーと政治的無関心というイデオロギー

政治的で宗教的で阪神タイガース的なものはタブーだから語っちゃだめ、と幼少期から刷り込まれた国民を、上手に利用し、ごまかし、その無関心につけこみ、負債を膨らませ、きれいに崇め立てられる「元」総理大臣。死後しばらくは、「特定の宗教団体絡みの事件」として政治家の癒着について言及を避けていたメディア各社。国民の追及さえなければ、せいぜい週刊誌や新聞赤旗が取り上げていたくらいだろう。そして、本来個人を悼むというのは極めて内面的な行為のはずが、それらを国家から強要されるということの倫理的なおかしさについても、一体いつになったら公に議論される日がくるのだろうか。この国のジャーナリズムには、足並みを揃え、忖度することが必要とされているようだ。

夜眠れなくなるほどの、この怒りのエネルギーが、より良い社会づくりに向きますように。

国葬の論点は、下記によくまとめられていたので参考に。
https://webronza.asahi.com/national/articles/2022071600003.html?fbclid=IwAR02i8jXttufCAVHbcK65MrdfV2S_tEdPHwT7v6NEwHwW1JomyRrF3pgNaA&page=1

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