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「入籍」への違和感と「反婚」の可能性

2015年に日本で初めての同性パートナーシップ条例が渋谷区と世田谷区で施行されてから早5年、日本でも同性婚の合法化がいよいよ避けられない課題となってきた。権利の平等化の面で、堂々と「同性婚反対」と掲げる政治家も政党も減ってきた。少なくとも、ジェンダーに基づいて結婚が制限されている状況を問題意識として共有する人は徐々に増えている。しかし、結婚制度そのものを疑問視する声はそれほど多くない。

結婚そのものに反対、つまり「反婚」というスタンスがある。実践する人の目的は様々だが、多くは現行の結婚制度が差別意識の温床であることを問題視するものである。ロマンティックイデオロギー、結婚至上主義、トランス差別などとかかわる重要な問いかけとなりうる。

結婚制度は男女格差に大きく影響している。例えば、夫婦別姓の許されない日本では、結婚後のカップルはどちらかの姓に統一することが求められるが、現状として約9割が男性側の姓を選択している。また、女性は妊娠・出産の機会で離職を余儀なくされたり、その後の育児を担うべき存在とみなされ、家庭生活とキャリアの両立が難しい状況も未だにある。これらは、一般的に問題視されている、女性側に生じる結婚の不利益ではあるが、それとは別に、結婚に関する話題の中で私がいつもモヤモヤしていることがある。

「入籍」という言葉

日本における結婚制度となると、一般的な結婚の意味に、固有の家族観が加えられ、制度が孕む問題をより一層複雑にしている。例えばそれは、「結婚」の同義語として使われることの多い「入籍」という言葉によく表れる。

多くの人が「入籍」とか「籍を入れる」と言う時、それは結婚を指しているのだろうが、この言葉は戦前の日本における家制度の名残であり、現代では正式な婚姻関係を意味しない。かつての日本における「結婚」とは、一方がもう一方の戸籍に組み込まれる「入籍」と同義だった。とはいえ実際のところは、相手の戸籍に「入籍」するほとんどは女性であり、男性のケースは珍しかった。一方で、現代の「結婚」は、両者が属していたそれぞれの戸籍を離れ新たな夫婦の戸籍が作られることであり、戦前のような、女性が男性社会の媒介物として扱われてきた時代の制度とは本質的に異なる。「入籍=結婚」と広く認識されている現状は、制度的・文化的に女性にとって不利が多い日本の結婚制度を象徴する一つの例に過ぎず、この手の議論は言語の成り立ちにかかわる「そもそも論」として嫌煙されがちだ。しかし、我々は言語の枠組みで思想している。日常的に使用する言葉によって、規範を内面化している例は多々ある。

つまるところ、「入籍」問題の根底は、性役割分業以外にも、非嫡出子差別や、選択的夫婦別姓の否認、男性の育休取得率の低迷ともつながる、家父長制にある。現行の結婚制度は、家制度廃止後にもかかわらず根強く残る家父長制に依拠しつづけ、多様な生き方や家族の在り方が入り込む余地がない。

私ひとりが「反婚」をする意味はあるのか

「反婚」は、日本における既存の家族観をゆさぶる可能性を持っているかもしれない。2021年現在、「選択的な」別姓でさえ認められないこの国で、福祉の対象からあぶれた当事者たちだけが権利を主張し続けることは物理的にも精神的にも限界がある。ここで言う「当事者」とは、セクシャル・マイノリティだけを指すのではなく、女性一般や、ひとり親家庭、いわゆる婚外子、生まれ順や家柄に関する偏見や差別を受ける人など、画一的な家族観を押し付けられて傷つく全ての人の総称である。私自身は、ストレート(異性愛者)であり、現時点で結婚や家族にまつわる特別大きな問題に直面したことはない。そのため、私が差別や偏見に晒されてきた者の声を代弁することはできないし、ましてやするべきでもない。しかし、私も「ひとりの女性」という意味では結婚問題の当事者でもあり、自分の実践や姿勢を貫くことで、理不尽な境遇にある人たちと共に闘うことができるような気がしている。おこがましさは否めないが。

この姿勢をどこまで貫いていけるのか自信がなくなる時もある。いつか同世代の中で結婚が中心的話題となった時、私は共感するどころか内容を追うのに必死になるかもしれない。両親が抱く「娘の花嫁姿」への期待には答えられないし、親戚や地元の友達からは変わり者扱いされるのかもしれない。結婚することで得られる精神的・金銭的な安心感に心が揺らいでしまうこともきっとある。でも納得がいくまで「反婚」を実践していきたい。私にとって家族間とは、どのようなコミュニティで息をしていきたいか、という究極の問いであると思うから。


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