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フィリップさんとオリンピア号について

先週の金曜日、会社のモーションデザイナー、許さんに連れられて新宿の『浪漫房』へ飲みに行った。

僕の所属する会社のスタッフには海外出身の方が数人いる。許さんもその一人で、韓国出身。韓国語はもちろんのこと、日本語、英語を堪能に喋るトリリンガルだ。(許さんは本当に日本語が上手で、話していると、海外の人であることを忘れてしまうくらいだ)

考えてみると、会社の人と飲みに行くのは今年に入ってから、初めてのことであった。それはもう楽しみで、妻にもあらかじめ「金曜日は飲みに行くからね」と伝え、その日が来るのを、ゆびおりかぞえて待っていた。

当日は許さんのほかに、会社の広報を担当しているカオリさん、カオリさんと許さんの共通の友達「フィリップ」が来るとのことだった。

その話を聞いて僕はヘドモドした。フィリップはもちろん海外の方。カオリさんもカナダに留学経験のあるバイリンガル、それに許さん。
こりゃ宴席に英語が飛び交うぞ、と。

浪漫房は、新宿の大塚家具がある商店街にあった。作りは意外と凝っていて、
外壁には魚のマンボウの絵が書いてあった。シャレのつもりだろう。
階段を下って店内に入ると、中は意外と広く、天井も高い。ホールの真ん中にはステンドグラス調の、大きなシャンゼリアが吊るしてあって、そこから溢れるウイスキー色の調光は、店内を柔らかく、温めるように照らしていた。

フィリップは後で遅れて来るということだったので、三人で席に着いた。僕達の席は、ホールの奥にあって、中々店員さんが捕まらない。許さんが大きな声で店員さんを呼んでくれて、僕たちはようやくビールにありつけた。

ビールを飲みながら、頭のなかで「my name is wataru urakawa...hi!でいいかな...あれ、nice to meet youがさきだっけ?」なんてことを一人ブツブツ考えていると「お待たせー」という声が入り口の方から聞こえる。

振り返ると、長身でスラッとしていて、頭のちょうどてっぺんで髪を結んだ、やさしそうな白人男性が、笑顔で立っている。フィリップだった。

「お待たせー、ごめんなさーい。はじめましてーフィリップですー」

フィリップも日本語が流暢だった。ところどころイントネーションに癖はあるものの、柔らかくて飲み込みやすい彼の優しい日本語が、僕の緊張を一気にほぐしてくれた。

「フィリップさん、とっても日本語が上手ですね」

「いいえー、わたし、あんまり日本語しゃべれない。上手くないね」

「いやぁうまいよ、僕なんか英語全然喋れないもん。あ、フィリップさんは母国語、英語?」

「ちがいます、わたしドイツ出身です」

ドイツ!この言葉を聞いて、僕の心は沸き立った。僕はドイツの文化、特に文学や音楽(クラシック)が大好きでたまらないのだ!ドイツ文学といえば、もちろんカフカ。僕は、彼の小説『変身』を読んだ時から、ずっと熱狂的なファンで、フィリップがドイツ出身ということを聞いて、喜びを抑えられずにはいられなかった。

「ね、フィリップはカフカとか読むかね?」

「カフカ、もちろんです。カフカはドイツでは一番有名な小説家だよ!」

フィリップはとてもインテリジェンスで、僕なんかより小説、音楽、演劇に造詣が深く、僕の知らないことや、僕が知っていたと思っていたことを丁寧に、わかりやすく説明してくれた。
また村上春樹さんはドイツでも大人気だということや、なぜ彼が受け入れられるのかなど、僕の知りたかったことを、体現的に教えてくれた。

フィリップは、東工大で天体物理学を研究している学者さんだった。天体の引力や惑星の成り立ちなどを物理学の観点から紐解くという、とても壮大で、ロマンチックな生業をもった魅力的な男性だった。

「フィリップ、僕もすごく星が好きなんだよ。最近子供のために、少し田舎の方に引っ越したんだ。そしたらさ、少し星が見えるんだ。オリオン座のベルトが見えるんだよ」

「いいですね!僕の生まれたフランクフルトでもあまり星は見えないですが、東京はもっとみえない。まっくらです。」

「そうだねぇ、でも少し田舎に行けば東京でも星がみえるんだよ」

「そうなんですか!」

「うん、青梅とか、八王子。中央線の奥に行くと見えるよ」

「それは良いことを聞きました。でももったいないです。私来週にはドイツに帰るんです」

「え!そうなの?それはさびしいなぁ、もっと早く出会っていればよかったねぇ」

そう僕が笑って言うと、フィリップも優しく笑いながら、そうですね、さびしいです。本当です、といった。でも、これは始まりだから、またいつか会おうと約束をした。「今度はフランクフルトで」という冒険的な制約も付け加えて。

フィリップとの飲み会から帰ると、奥さんも子供も、リビングのソファの上でひし餅のように重なって、眠っていた。テレビも電気もつけっぱなし、めずらしいなぁと思って、テレビを見ると、そこでは平昌オリンピックの開会式が中継されている。「子供にみせたかったのかな」と思った。

キッチンのポットの中ですっかり冷たくなったコーヒーをカップに注いで、温め直し、少し牛乳を入れて飲んだ。
飲みながら、僕もソファの端に座って、テレビの中の開会式を眺め、フィリップとの話を思い出していた。

僕たちは、地球に乗っかる同じ乗組員なんだ。またいつか会えるさ。

オリンピックの開会式の風景と、フィリップの教えてくれたことが、
僕の中で混ざりあって、まろやかになっていく。

英語を話せるようになったら、どれだけ素晴らしいのだろうとも、
僕は思った。






もしサポートいただけたら、こどものおむつ代にさせていただきます。はやくトイレトレーニングもさせなきゃなのですが...