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女の子の朝帰りを描いた曲『残ってる』を聴くたび思い出す、あの子のこと。

女たらしのクズが、吉澤嘉代子の『残ってる』なんて聴いていいんだろうか。怒られるかもしれない。あれは訳ありな朝帰りをする女の子の虚しさを歌った曲。追い出してる側の男どもは入ってこないで、男子禁制! ……みたいな方は、この先読まないでください。たぶん発狂すると思います。


あの曲を初めて聴いたのは2年前の、それこそ夏の終わりみたいな秋の始まりみたいな季節だった。YouTubeのコメント欄にはすでにたくさんの女性からの共感の声が集まっていて、それを遠くから「すごいな…」と思って眺めていた。それぞれに事情が違うけれど、それぞれに朝帰りをした経験があって、それぞれの男を思い出しながら、コメント欄に心情を吐露する女の子たち。

その中に、あの女の子も混じっているような気がした。


あの『残ってる』の歌詞みたいに、僕が早朝に家を追い出してしまった女の子。

今でも『残ってる』を聴くたびに、彼女のことを思い出す。


ーー


僕が自分のやりたかった仕事を本当にやれるようになったのはつい最近のことで、それまではお金にもならないやりたくない仕事をやっていた。やりたい仕事のために、やりたくない仕事をやるのは果たして正しいんだろうか。あのころ僕はただただ精神をすり減らしていた。

女性の多い職場で、僕の働いていた店舗には男性が僕しかいなかった。年増の女性店長に嫌味を言われる日々。ストレスの捌け口にされていたんだと思う。

その日は僕といっしょにシフトに入っていた女の子が、観に行かないといけない映画があるので、という我が儘な理由でサボった。その子は映画監督志望で映画の学校にも通っていた。

そうして、別の店舗からヘルプとして呼ばれてやってきたのが彼女だった。


垂れ目で、色白で、話す限りとても賢く、アートに詳しい女の子だった。にこにこしていて、えくぼがあって、柔らかそうな皮膚の女の子。年は僕より2個くらい下だったかな。


彼女は社交的で、初見のお客さんにも会計の際に臆することなく明るく話しかけた。客が少なくなったらふたりで話し、店が混んできたら協力して捌き、閉店間際にはすっかり仲良くなっていた。


「店で酒飲んだことある?」

「ないです。え……あるんですか?」


と言うので、閉店時間が来たらシャッターを下ろして、中でこっそりほろよいを飲んだ。建物にはコンビニも入っていて、そこでいろいろ買い込んできた。バレたらクビだったろうし、今でもバレたら呼び出されそう。

彼女には店長の悪口を聞いてもらった。子連れの客が来たら舌打ちする店長。赤ちゃんが泣くと死ぬほど嫌そうな顔をする店長。休憩60分のところを70分くらい取って戻るとため息を付く店長(それは僕が悪い)。

僕は将来の夢のこともちょろっと話した。ほろよいのアルコール分くらいの、ちょろっと。夢が実現しかけていること。その実現をうまく仕事に結びつけたいこと。


「すごい! 才能ですね」


何でも聞いてくれて、気持ちのいい反応をしてくれる彼女は、僕が求めていた異性だった。あのころ僕は自分に自信がなくて、自分のことや夢のことを無防備に褒めてくれる、優しい優しい女の子を求めていた。



シャッターの下りた店内で、僕たちはキスをした。


最初からそうするつもりだった。



後日、その子からごはんの誘いがあった。場所も覚えている。下町にある内装が一風変わっている中華に入った。彼女は写真が好きで、雑誌のライターもやりつつあるらしく、その話などを聞かせてもらった。

店を出て、ふたりで夜の路地を散歩していたらいきなり、路面電車に乗りませんか、と言われた。頭の中が「?」でいっぱいになったけど、楽しそうだったので、人生でほぼ初の路面電車に乗った。


ぶらり途中下車の旅。適当な場所で降りて、適当に散歩して、また乗ってを繰り返す。

そうして、小さな遊園地があるような停留所で降りて、緑道を歩いているときだった。


「付き合ってくれませんか?」


告白されるような気はしていた。僕がキスなんかをしてしまったからだ、とぼんやり思った。

僕には付き合えない理由があった。


「彼女いるんだよね」

「そうなんですね」


恋人がいるのに、キスしてきたんですか。最低ですね。平手打ちのひとつやふたつもらっても仕方ないのに、その子は見たまんまの優しい子で、僕を一切責めようとしなかった。気を遣い、変に明るい感じを互いに出し合って散歩を再開する。


「ここの遊園地行きたいです」

「え、開いてる?」


入ろうとしたら、もうとっくに閉園していた。



僕は恋人がいるのにキスをするような男だけれど、恋人は恋人として大切にしている。恋人のことを傷つけたくないし、恋人には僕だけを見ていてもらいたい。傲慢かもしれないけれど、僕なりの歪んだ誠実さだった。


また日にちも置かず、シャッターを下ろした店内でキスをした彼女が再びヘルプで呼ばれてうちの店舗に立つことになった。気まずかったけれど、彼女の方からいっしょに休憩に入りましょう、と誘ってくれた。

そうして、同じ建物に入っている喫茶店に入ったときに、彼女の方からはっきり言われてしまう。


「これからも、仕事仲間として、よろしくお願いします」


そういうことを、ちゃんと言葉にしてくれる女の子だった。彼女なりのけじめというかプライドだったんだと思う。僕が昼食代を奢ろうとしたら、向こうが先に伝票を取った。


取るに足らない、キスだけしたくらいの女の子だったはずが、自分よりもずっと優位に立っているような気がした。

彼女と同様に僕にもプライドがあった、くだらない意地だったのかもしれないけど。店長が先に上がって、また彼女とふたりで店を締めるというタイミングで僕はまた彼女にキスをした。身体も少し触った。彼女は抵抗しなかった。




「細貝さんの家行っていいですか?」


彼女からそんなLINEが届いたのは、その日の夜中だった。

「今から?」

「はい、会いたいです」

喫茶店で僕に対してけじめを付けたはずの彼女が、手のひらを返して僕に会いたがっている。僕は罪悪感に浸る一方で、優越感にも浸っていた。とことん彼女を利用したくなっていた。

「いいよ」

とLINEを返す。



最寄りの駅で待ち合わせて、部屋に連れ込んだら、すぐにベッドに押し倒した。シャンプーの匂いがした。浴びてきたらしい。それなのに裸になるのを恥ずかしがった。

し終わって、換気扇の下で煙草を吸っていたら、彼女から「やっぱりどうしても付き合いたいです」と言われたので「ごめん無理」と冷たく返した。

「彼女いなくても、たぶん同じ答えだった」

と、もっと冷たい言葉も返した。突き放さないと粘着される気がした。


部屋を真っ暗にして、ふたりでベッドに寝てしばらく経って、その子がわざと聞こえるように泣いているのがわかった。

彼女の存在が、鬱陶しくて仕方なかった。


「なんで泣いてんの?」


どうして、あのとき「ごめんね」の一言が言えなかったんだろう。


「ううん…」

「いや、ううんじゃなくて。自分で来たいって言って来てヤって泣くとかめんどくさいんだけど」

「ごめんなさい」


謝るべきは僕の方だったと思う。

けれども、仕事のせいにするつもりはないけど、あのときの僕は、お金にならないやりたくない仕事をしていて、夢と現実のギャップに悩んでいて、毎月の奨学金の返済が苦しくて、ちゃんと就職した同級生が高いボーナスとかもらってて、嫌な匂いのする店長から嫌味をたくさん言われてて、おかしくなりそうなくらい余裕がなくて、


「帰ってくんない?」


なんて言葉を吐いたのだった。


夏の終わりか秋の始まりがわからない季節の、
始発が走るか走らないくらいの、
薄ら寒くて青い時間に、


「わかった」


僕は彼女を強引に帰らせたのだった。


化粧の落ちた顔を見られたくないのか、僕の顔なんか見たくもないのか、荷物をまとめて玄関に立った彼女は終始俯いていて、僕はそんなつもりさらさらないのに、

「また路面電車乗りたいね」

と言った。

彼女もそんな未来ありえないとわかってるのに、

「乗りたいですね」

と言った。


アパートの玄関で彼女を見送る。背を向けた彼女は駅の方へ向かっていった。



改札はよそよそしい顔で

朝帰りを責められた気がした

私は夕べの服のままで

浮かれたワンピースが眩しい



した後の部屋って、どうしていつも、あんなむっとする匂いになるのか。まるでしちゃいけないことをしたみたいな気持ちになる。煙草の匂いで、部屋と気持ちを上書きしていく。


それから何日か経って、彼女から忘れられない、あのLINEが届く。


道端に落ちていたという、誰のかもわからない生理ナプキンの写真だった。

ナプキンには血がついていて、

「出勤途中こんなの落ちてました(笑)」

みたいなメッセージが添えられていた。


そんな写真を撮るような女の子じゃないし、ましてやそれを送り付けるとはどういう神経だろう。あるいはそんな下品な写真を送りつけて、僕をびびらせて優位に立とうとしたんだろうか。

フィクションだったら、「それから彼女からの連絡はなかった」ときれいにまとめるべきなのだろうけど、現実はきれいにはいかないし、よくわからないことばかりだ。

僕はそのLINEに返信しなかった。


それから間もなくして、僕は職場を辞めさせられることになる。彼女のほかにも、もうひとり実は手を出してしまった別店舗の女の子がいて、いろいろと騒がれてしまったのだ(今度書きます)。

女性がほとんどの職場で、そういう男を置いておくわけにはいかない、と店長に目を見ずに言われた。その通りだった。



まだあなたが残ってる

身体の奥に残ってる



吉澤嘉代子の『残ってる』を聴くたびに、僕は彼女のことを思い出す。

暗い部屋でわざと泣いていた、薄ら寒い朝に放り出された、後になって道端に落ちてた生理ナプキンの写真を送ってきた、そんな女の子。




コロナ禍になる前に、渋谷のポップアップイベントで彼女を見かけたことがあった。彼女はまだあの店で働いているようで、僕と目が合って向こうから先に話しかけてきた。

仕事が楽しそうだった。

あんなふうにひどい追い出し方をされて、ひどい朝帰りをさせられた彼女が、当たり前だけど、その過去を忘れて生きている。時効って奇跡。僕はその彼女の姿を見て救われてしまった、情けない生き物だった。

いつもありがとうございます。