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徳川家康さま☘️をたどる#25☘️家康さま遠江を取る

初筆 2023年 3月 11日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#25
⬇️
https://stand.fm/episodes/640d0b0051581d9d968b8b0f

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著


2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

⚫︎ご嫡男、信康さまの御成婚は織田徳川同盟を
より堅固なものにした。しかし、そののち一悶着あるかも。

⚫︎家康さまは三河平定に注力しているころの京都事情、
13代室町将軍殺害された「永禄の政変」について

⚫︎織田信長さま、15代室町将軍を奉じて畿内を平定。
ただし、このころはまだ室町将軍ブランドに価値があり
室町将軍を戴かないと畿内を平定できなかった。
世間的にはまだまだ信長さまは室町将軍の与力扱いであったこと。

●そんな畿内状況下で家康さまは
信長さまとも室町将軍ともうまーく人付合いを
していった、あるいは、人付き合いを覚えていったであろうこと。

⬇️前回記事はこちら

3 尾張美濃・甲斐・三河そして駿河・遠江

前回は家康さまの、遠江(静岡県浜松市)侵攻前後の
畿内に注力する信長さまとの連携について話してきました。
今回は家康さまの東征の始まりについて話していきます。

まず基本なんですが、話題の中心地である
1568年前後の今川家領国を取り巻く国々は以下です。

  • 西側:三河・徳川家康さま

  • さらにその西:尾張・美濃・織田信長さま

  • 北側:甲斐・信濃・武田信玄さま

  • 東側:相模・北条氏

桶狭間の戦で今川義元さまがお亡くなりになったのち、
徐々に内覧状態になっていった駿河の今川家。
その当主、今川氏真さま、ちょっとゆっくりした方
だったのかなぁ。内乱をなかなか収められず、
甲斐の武田信玄さまが内乱解決に助力を申し出るも
氏真さまは拒絶。これけっこう歴史の分岐点なのかなと
おもいます。

んじゃぁ、と信玄さまは、織田信長さまと同盟❗️
この同盟の背景を語っておきます。

4 織田・武田同盟成立

武田信玄さま・織田信長さまは
それぞれ信濃(長野県西側)・東美濃(岐阜県東側)が
隣り合わせになっているんだけど、
両氏とも別の方向に向けて、つまり
武田信玄さまは、その北側の上杉謙信さまに向けて
また駿河の今川氏真さまに向けて、
織田信長さまは畿内に向けて注力する必要があり、
信玄さま・信長さまの境界で
小競り合いなどしている場合ではない、という
共通見解から織田・武田同盟が成立します。

だいたい1568年・永禄11年に成立した織田・武田同盟は
東美濃・西信濃の国分(領国境界線確定)と戦はしないという
内容以外に、駿河・遠江両国つまり今川家所領への
対応に対する申し合わせがあったということです。

だからー
今川氏真さん、武田氏の助力申し出があったときに
それを受けて動けばモンダイなかったかもしれないのにー
って、それは短期的モンダイなさで
実は後の史実をみてみてると、氏真さま、これでよかったのかとも
思えますが、それはまた後日談としますー

5 家康さま遠江侵攻

それはともかくとして
信玄さまが信長さまと同盟したことで
信玄さまと氏真さまは関係がさらに悪化します。
なぜなら、武田・織田同盟は、徳川同盟を含むことになります。
織田信長さま・徳川家康さまは兄弟扱いですから。
家康さま、ええええーーー、遠江に攻め入るの
急がんとあかんやんかー、と思ったかどうかは知らんけど
三河平定したばっかりやのにやること多すぎ💦とは
思わはった思いますわー

つまり、駿河・遠江には、
北から武田信玄さまが、西からは家康さまが
侵攻してくること確定したも同然だからです。

このときの家康さま・信玄さまの約定では
「川より西を家康さま、東を信玄さま」
が取る、という内容でしたが、この「川」というの
今回の記事でまたあとで出てきます。

1568年・永禄11年12月ころから
家康さまは、三河との境界スグあたりの
井伊谷(いいのや・現在の浜松市北区引佐町)に侵攻。
井伊谷はのちに江戸時代に有力幕臣となる井伊さんが
国衆だった土地で、のちに井伊直政さまが
徳川家の重臣となりますがそれもあとの話。

この侵攻を手引きしてくれたのが井伊谷3人衆の
近藤廉用(こんどうやすもち)さま、
菅沼忠久さま、鈴木重時さまでした。
その際に国衆としての井伊家はいったん滅亡。
井伊谷3人衆に先導されて家康さま
遠江国中(くになか・中心地)に入っていきます。

翌年1569年・永禄12年1月
遠江の国・犬井(現浜松市天竜区)の天野藤秀さま
高天神(現掛川市)の小笠原氏助さまを
味方に引き入れた家康さまは、
武田信玄さまに駿府を追われてしまった
今川氏真さまがこもる遠江・懸川城(かけがわ)を包囲。


6 川、ってどの川❓信玄さまとの摩擦

そんなとき、信玄さまの重臣・秋山虎繁さまが
遠江の家康さま手付かずエリアに攻め込んできます。
これ信玄さま・家康さまの同盟の約定違反かと思いきや、
その約定は「川の西は家康さま・川の東は信玄さま」
という「川切り」でしたが、東西の認識はOKだったのですが、
そもそも「川」って何川?って認識が
信玄さま、家康さまで違ってた

  • 信玄さま認識→川とは天竜川→自分のエリア拡大解釈

  • 家康さま認識→川とは大井川→フツーに考えて遠江・駿河境界

ということなんだけど、
うーん、
これは信玄さまはあわよくば、駿河と遠江の境界線を
なるべく西にして、あわよくば遠江の東側も取ってしまえ
という意図のある行動だったのでは?

そこに不信感をいだいた家康さま、信玄さまに対して猛抗議❗️
氏真さまを追い払ったのに、相模北条氏との衝突のせいで
なかなか駿河国を収められない信玄さま、
秋山虎繁さま軍勢を引かせました。

この一連の信玄さまの動き、歴史本などには
「徳川家康はこの武田信玄の動きに不審を募らせた」
などとありますが、実際のところ、
家康さまは根に持った、あるいは、気にいらん、
くらいの感じなんちゃうか思います。

7 家康さま遠江領国化

そして遠江国内の家康さま反勢力を攻略しつつ
家康さまは今川氏真さま、このころ氏真さまの後ろ盾
みたいな立場となっていた相模北条氏との和睦を成立させ、
1569年・永禄12年5月、今川氏真さまは遠江懸川城開城し、
氏真さまは相模北条氏のもとへ落ちていきました。
これをもって家康さまは遠江を領国化し、
家康さまは三河・遠江、二国を所領する戦国大名となりました。
これだけ所領がおっきくなんたんやから
もーええやん、という気持ちと、いやいやまだまだいけるで
いう気持ちと、家康さま、たぶん、ほっしーは
前者やったんちゃうかな、思うねんけどどないやろ。

そして、家康さまが氏真さまを生かせて北条氏の元へ送ったのは、
家康さま、昔、今川義元さまの元でいっしょに育った
氏真さまに対する思いがあったんだと思います。
今川氏真さまはその後、家康さまに庇護され、
なんだかんだで徳川家の中で役割を果たしていくことになります。
この当たり、過去の対立はそれはそれ、
人を活かしていく術を天然か後天的に身につけたのか
家康さまの器の大きさなのかも。

しかし❗️
信玄さまはこれまで話してきた
家康さまの遠江捌きが気にいらない。
いや、遠江すべてを家康さまが取ったのが気に入らない。
氏真さまを生かして相模北条氏に預けたのも気に入らない。
待っているのは、武田信玄さまとの衝突しなかいーーー💦

8 次回

信玄さまと衝突しつつあった家康さま、
しかしその前に信長さまが大きな戦の助力を求めてきた❗️
信長さまの北近江攻め、
その前後の畿内の様子や、浅井氏・朝倉氏の動向や
北近江攻めで信長さまが陥ったピンチは
家康さまをも直撃、それが「金ヶ崎の退き口」
そしてその後の姉川の戦❗️
東へ西へ大忙しの家康さまっ

次回もお楽しみにっ


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