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徳川家康さま☘️をたどる#74☘️大坂冬の陣その1・世代交代は江戸時代へとつながる

初筆 2024年 2月 24日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 74
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1612年・慶長17年、 #豊臣秀頼 さまと会見した家康さまは、豊臣家を処理する必要を感じ、その機会として、 #方広寺大仏鐘銘事件 の申し開きに駿府に下った、 #片桐且元 さま・ #大蔵卿局 さまを利用

  • 片桐且元さまは大坂方に、豊臣家存続するためには、秀頼さま国替または、秀頼さまか淀の方さまの江戸住まいのいずれかが提案するも、対徳川家強硬派より、且元さまは徳川家に寝返っていると疑われ襲撃未遂事件が起こった。

  • 片桐且元さまは大坂方を見限って大坂城を退出。取次役を追い出したことで、徳川幕府は大坂攻めの大義名分を得た。

  • 家康さまは大坂攻めを決意。大坂方は浪人衆含め9万人の軍勢。徳川幕府軍は20万人❗️大坂冬の陣が始まる❗️

⬇️前回はこちら❗️

3 家康さまが、方広寺大仏鐘銘一件ののちに徳川家への臣従を豊臣家に求めた原因は❓

方広寺大仏鐘銘一件という
事件が起こったタイミングで、
家康さまが豊臣家に対して徳川幕府への臣従を
求めたのは、なぜか❓

以下の情勢が理由になっていると考えられます。

  • 方広寺大仏鐘銘一件の少し前から、豊臣家は浪人の召し抱えを始めていて、戦国時代を生きてきた浪人が大坂城に続々と集結していた。これが世間に、豊臣家は武力で幕府転覆し政権を取り戻そうとしている、というウワサになっていて、天下泰平の大きな邪魔になりつつあった。

  • 家康さまはこれまで大病にはかかっていないものの、小さく体調を崩すことが増え始めていて、自身の寿命を感じていた。しかし2代目征夷大将軍の #徳川秀忠 さまが徳川幕府を率いて大きな戦を起こすこにはまだ危ない状態であった。なので、大坂と肩を構えるなら自分が生きている間に、という気持ちを家康さまは持っていた

家康さまは方広寺大仏鐘銘の件ののちに
豊臣家に対して徳川幕府への臣従を求めました。
表向きは、豊臣家家老の片桐且元さまが具体案を考え、豊臣家から徳川家へ自主的に臣従の意図を示すように、
そうすれば豊臣家は幕府に対して心証をよくし、
幕府も顔が立つ、
そこまで、家康さまはお考えになって、
片桐且元さまに豊臣家の行末を託しましたが
結果は、大坂での且元さま襲撃未遂から追放、
家康さまは大坂攻めの決意になってしまいました。

4 方広寺大仏鐘銘の一件のころは家康さまは豊臣家をどうするつもりだったのか

この時点で家康さまは豊臣家を
どうするつもりだったのかを考察しておきます。
これは片桐且元さまがお考えになった案とカブります。
しつこいようですが、記します。

  • 秀頼さまが国替に応じれば、とりあえず豊臣家存続。国替先は、大和(奈良県)・伊勢(三重県)などの案があった

  • 秀頼さまが江戸在住となれば、とりあえずそれでよし。

  • この2つの案は秀頼さまと大坂城を分離するための方策。大坂城は難攻不落の城のため、豊臣家の拠点にはしておきたくない。豊臣家と大坂城を分離してしまえば、後の事は秀忠さまが征夷大将軍の江戸幕府に任せられる

  • この2つの案に大坂方が応じないときは、戦を仕掛けて結果次第でその和議として、この2つの案を飲ませる。

  • この2つの案で和議が成立しないときは、止むを得ず豊臣家を滅ぼす、すなわち秀頼さまを討伐する。しかしこれは最後の手である。

家康さまの本心は、
大きな戦は関ヶ原で終わりにして、
できれば、もう戦を起こすことなく、
天下泰平の世の中を確立させたかったんだと思います。
豊臣家を滅ぼす戦を起こす気ならば、
もっと早い時期にたたみかけることもできたはず。
それをしなかったのですから。

また、家康さま個人が天下を治めるのではなくて、
江戸幕府という組織が天下を治めることが
天下泰平を長続きさせる最善策ともお考えでした。
その江戸幕府が泥を被らないように
大坂冬の陣は、家康さま個人が、大坂に仕掛ける戦
という認識を世間に広く示したのでしょう。

5 大坂城を取り囲む徳川勢

1614年・慶長19年11月10日、
将軍秀忠さまは伏見にご入城、
11月12日に二条城の家康さまと面会、
11月15日にお二方は京を出立しました。

家康さまは大和経由で、11月17日に
大坂・住吉に陣を張りました。
いっぽう秀忠さまは淀から大坂・平野に
陣を進めました。

この時点で徳川方、有力諸将の陣をざっくり
話しておきます。

  • 大坂城の南側、現在の中央区の南半分の地帯には、藤堂高虎さま・前田利光さま・松平忠直さま・井伊直孝さま・伊達政宗さま・榊原康勝さま

  • 大坂城の東側、現在の城東区あたりには、上杉景勝さま・佐竹義宣さま・酒井家次さま

  • 大坂城の西側、現在の御堂筋あたりには、鍋島勝茂さま・蜂須賀至鎮(よししげ)さま・山内忠義さま・浅野長晟さま・池田忠雄さま・森忠政さま・松平忠明さま

  • 大坂城の北側、現在の天満から天神橋筋あたりには、加藤明成さま・池田利隆さま・有馬豊氏さま・本多忠政さま・本多忠朝さま

小さな諸将軍勢を書くとタイヘンなことになるので
大きな勢力だけを記しました。

大坂冬の陣での徳川方諸将ラインナップが
関ヶ原の戦までと異なる点が2点あります。

  • 徳川四天王および三河家臣団は全体的に代替わりしていて、既にお亡くなりの #本多忠勝 さまの家からはご子息、 #本多忠政 さま・ #本多忠朝 さま、 #榊原康政 さまの家からは #榊原康勝 さま、 #井伊直政 さまの家からはご次男の #井伊直孝 さま、  #酒井忠次 さまのご嫡男・ #酒井家次 さまが陣を張りました。これらの徳川四天王2代目は東西南北各方面に配置されました。 #奥平信昌 さまのご子息で家康さまの外孫の #松平忠明 さまは諸事情により大軍勢を率いていました。また故人結城秀康さまの家からもご嫡男・ #松平忠直 さまが出兵していました。

  • 関ヶ原から時を経て、外様大名も徳川家に重用され始めています。関ヶ原の頃から譜代大名並みの扱いを受けていた #藤堂高虎 さまを始めとして、 #伊達政宗 さま・ #前田利光 さま(のちの #前田利常 さま)は家康さまからの信頼も厚く、家康さまの陣付近に配置され、 #池田利隆 さま・ #池田忠雄 さま・ #山内忠義 さま・ #浅野長晟 さまなども重要な拠点を任されています。三河家臣団が代替わりの最中のために、これら外様の諸将に重責を負わせる必要があったという徳川家の事情もありました。

外様大名という幕府の外側からの
意見をきっちり聞きつつ、重積を負わせていく、
こういった家康さまの外部とのお付き合いは、
1580年代後半、天正後期に、
家康さまが #豊臣秀吉 さまに臣従したころから
始めた、お付き合い、が実を結んでいます☺️
それは大御所政治からその先は3代家光さまも
伊達政宗さまの意見を求めたことからも、
初期の征夷大将軍の伝統となりました。

また、三河家臣団の世代交代は
江戸幕府にとって政治的な世代交代として
重要なことで、家康さまは大坂の陣を通して、
世代交代後の家臣団の役職配置をお考えに
なったに違いありません。

6 後の江戸幕府宿老となるお2人


秀忠さまから3代征夷大将軍徳川家光さま、
そして4代の徳川家綱さまの時代あたりまで
徳川家宿老として初期の江戸幕府を牽引する
お2人が大坂冬の陣に参加していました。

  • 松平忠明さま

  • 井伊直孝さま

です。
お2人はこの先、1632年・寛永9年
2代将軍秀忠さまがお亡くなりになるとき、
枕元に呼び出され、3代家光さまの後見を
委任されました。
後見というのは直接幕政に参加するのではなくて
いざという時や、将軍が迷うような時に
アドバイスをする役割で、いわゆる #大政参与
のちの幕府・ #大老 職の原型でした。
お2人について簡単に述べておきます。

松平忠明さまは、 #奥平信昌 さまのご嫡男、
ではなかったのですが、兄がお亡くなりになり
奥平家をお継ぎになりました。
そして松平姓を下賜賜り奥平系松平氏の祖
とのりました。

この松平姓は血縁的にも家康さまと繋がっていて
忠明さまは家康さまの娘の子供、つまり、外孫です。
また父親の奥平信昌さまは、あの長篠の戦のときに、
家康さまが見捨てず、武田勢から守り抜いた
長篠城の城主でした。
そのように徳川家と縁深いお家の忠明さまは、
ご本人が優秀だったこともあり、
大坂の陣の後に、臨時で摂津大坂藩の藩主を任され、
大坂の戦後復興と町割り、大坂行政・経済の確立を
任されています。

井伊直政さま没後、秀忠さま付き近習となり、
大坂の陣のころには伏見城番役を仰せつかっていた
井伊直孝さまは、井伊直政さまのご次男ですが、
いったんはご長男の #井伊直勝 さまが井伊家の
お継ぎになっていたのですが、直勝さまはご病弱で
また井伊家居城の彦根は西国に対する要の地であり、
家康さまの配慮により、
直孝さまが彦根井伊家3代目当主となります。

なお、直勝さまは井伊家分家として
上野安中藩3万石を興しました。
その際に、井伊谷時代からの家臣は
直勝さまに、旧武田家臣団は彦根の直孝さまに
つけられました。

直孝さまは、3代家光さまからも絶大なる信頼を得て、
1659年・万治2年、70歳で没するまで
戦国時代を知る最後の譜代大名重鎮として、
幕政の顧問を勤め上げ、領国は彦根30万石
譜代大名最大の家となりました。
そして、江戸幕府において、井伊家は、
6名の大政参与・大老を輩出する名家となりました。

7 次回

そのように江戸時代に重鎮や名家となる
徳川軍の諸将が蟻のはい出る隙もなく
大坂城を包囲した大坂冬の陣❗️

戦闘はどんな様子になるのかっ❓❗️
また気になるその終結はいかにっ❓❗️


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