見出し画像

徳川家康さま☘️をたどる#40☘️伊賀越え

初筆 2023年 6月 24日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは
実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。

スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#40
⬇️
https://stand.fm/episodes/64979ed646b9be7b04f50bd4

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 織田信長さまは、既存の概念を完全否定する方ではなく、むしろ信長さまに従う大名領国統治方法はお任せだった。

  • 信長さまが徹底的に潰したのは、経済的に邪魔をする勢力のみ

  • 織田・徳川同盟は当初は対等同盟だったが1582年・天正3年、本能寺の変の頃は家康さまはご一門衆ではあるが、実質織田家家臣状態だった。

  • 本能寺の変勃発時、家康さまは供回りのみをつき従えて堺見物から再上洛する途中。

前回はこちら
⬇️

3 家康さまの3大危機

しょっちゅう大ピンチを引いてくる家康さま🤣
「徳川家康の3大危機」という事項があり
文字通り、徳川家康さまが実際にご経験なさった
大ピンチベスト3とでもいうもので

  • 三河一向一揆

  • 三方ヶ原の戦い

  • そして今回語る伊賀越え

です。

三河一向一揆は自治宗教勢力に押されて
徳川家家臣までが徳川家在留と一向宗側とに
別れて、徳川家はピンチでしたが、
ダイレクトに家康さまの命がピンチというわけではない。

三方ヶ原の戦いは、戦闘中、家康さまは
間一髪、忠臣夏目広次さまの身代わり、
あるいは本多忠勝さま・榊原康政さまの奮迅の働きで
浜松に生還できました。
命かながらの大ピンチなのですが、
戦闘中ならそんなこともあります💦

ところが伊賀越えというのは

  • 自領統治でミスをしてるわけではない(三河一向一揆時のように)

  • 自分の見積もりが甘いわけではない(三方ヶ原時、家康さま失策は、徳川軍が信玄さまに仕掛けるのが早かった説のとき)

  • 周りの状況が抜き差しならず追い詰められていたわけでもない(三方ヶ原の戦で、信玄さまは家康さまから信玄さまに戦を仕掛けないと領国統治さえできなくなるような面目失墜となる状況に追い込まれ、負ける戦をするしかなかった説)

以上のように、家康さまにミスはなく、
信長さまがいきなり明智惟任光秀さまに
急襲・討たれたせいでいきなりピンチになったのです。

本能寺の変で信長さまがご落命してなぜピンチなのかというと
家康さまは実質、信長さまのご家臣であるだけなら
本能寺の変の実行犯、明智光秀さまとは横並びの間柄ですが、
そもそもは織田・徳川同盟の間柄から派生した
従属関係であり、お亡くなりになったご嫡男・信康さまに
信長さま五女の徳姫さまが嫁いでいた関係から
家康さまは信長さまのご一門衆でもあります。

信長さまのご一門衆がたいした兵も持たずに
堺見物に来ていたら、京都を制圧した明智光秀さまは
家康さまを亡き者にしておこうと考えるのは至極当然。

4 伊賀越え

信長さま逝く、の情報を、堺を出立し上洛途上で聞いた
家康さまは、資料によっては、そのまま上洛し
徳川家にゆかりのある知恩院に逃げ込み自害する、と
主張したが本多忠勝さまなど家臣に諌められた、とあります、
しかし三河物語にはこの件り掲載ありません。

家康さまは最終的に、京を経由せず、
つまり明智軍と遭遇しそうなコースは通らずに、
まっすぐ伊勢湾に向かおうとお考えになりました。
いやご譜代衆がお考えになったのかな😂

自国への帰途、明智軍に遭遇すれば確実に
制圧されてしまいます。しかし、まっすぐ伊勢湾に
向かうのも危険なコースだったのです。
戦が起これば、敗戦した兵が敗走します。
その敗走兵を狙い土着民が金品や大将首の褒美目当てに
襲いかかってくるのです。落武者狩りです。
伊賀越コースはそういった土着の兵力が数多いるコース、
そこを供回り衆を連れているのみで、土地勘もない道を
伊勢湾まで無事にかけぬけようという選択。
明智軍に遭遇するよりはまだ生きて自国へ帰れる
確率が少しだけ高いのかも、程度の選択でした。

では実際の家康さま伊賀越えコースを見ましょう。
なお三河物語に具体的なコースは記述されていません。
伊賀越え詳細に関する一次史料自体少なく、また
一次史料とされているものも、家康さまとともに
伊賀越した家臣の言い伝えをまとめただけのものです。

  • 1582年・天正10年6月2日堺から上洛途上、河内国飯盛山付近で京都から来た茶屋四郎二郎さまから信長さま・信忠さまご落命を聞く。

  • まず河内国四條畷から京都府京田辺市興戸の木津川の渡しへ向かう。

  • その付近で家康さまをご信頼なさらずに距離を置いて自国領に向かっていた穴山梅雪さまが落武者狩りに遭い絶命。

  • 山城国宇治田原で甲賀衆出身の山口甚介さまの宇治田原城に宿泊。

  • 6月3日は、南近江路を近江国信楽に向かう

  • 近江国甲賀小川で、甲賀衆多羅尾光俊さま(宇治田原山口甚介さまの父)の小川城または近隣の妙福寺(現存せず)に宿泊。なお多羅尾光俊さまは家康さま伊賀越え道中の警護にあたったとのこと。

  • 6月4日は伊賀国を横断、この際、伊賀衆にも警護され、神山、桜峠、円柱、柘植町(三重県伊賀市)を通過

  • 加太越では地元の一揆衆に襲われるが甲賀衆山口定数らが一揆衆を追払い、伊勢国白子浜に到着、こののち海路

  • 伊勢湾横断し三河国大浜(愛知県碧南市)に到着。三河物語には知多の常滑・大野に到着とあり。

これが現在、いちばん支持されている家康さまの伊賀越えコースです。
甲賀も伊賀も通過しているのに、家康さまの関西脱出が
伊賀越えと呼ばれている理由は、織田信長さまは生前、
伊賀衆を冷遇していて、伊賀衆は織田家ご一門衆に反感を持っていて
話してきたコースでは伊賀国の通過がもっとも危険だったからです。
ただ家康さまは信長さまが伊賀衆を弾圧していたときに
家康さまを頼って落ち延びてきた伊賀衆に対して
手厚く受け入れたという記述が三河物語にあります。
引用します。

家康はこのこと(信長さまご落命)を堺でお聞きになり
もはや京都へ行くことはならず、伊賀国を通って引きあげた。
信長はかつて伊賀国を攻め取った折に、国の者を皆殺しにし、
他国へ逃げた者もだ。しかし、三河に落ちて家康を頼んだ人々を
家康はひとりも殺さず、お世話をなさった。
伊賀国に討ちもらされていた伊賀衆は、そのときのことを
ありがたく思っていて「こんなときにこそご恩をお返ししなくては」
と家康をお送りした。

5 もし家康さまご一行が討たれていたら

家康さま、とにもかくにも、明智軍の追進あるいは
落武者狩りの襲撃も、うまくかわし、付き従う重臣たち
ともども無事に岡崎へ帰還なさいました。

付き従っていた家臣は

  • 酒井忠次さま

  • 石川数正さま

  • 本多忠勝さま

  • 榊原康政さま

  • 井伊直政さま

  • その他、重臣、全員で34名

でした。

もし家康さまと共周りの重臣たちが討たれていたら
徳川家は大ピンチというか日本の歴史は変わっていたと思います。
有力家臣の大久保忠世さまや平岩親吉さまなど
自国にいらっしゃいましたし
また次男秀康さま、三男秀忠さまはご誕生なさってましたが
それぞれ8歳と3歳、
それだけでは三河・遠江・駿河を統治し、
徳川軍を指揮し、近隣の国々との外交をもやっていく、
それは、人手不足ですし、跡目争いも勃発していたかも。
そんなになったとしたら、相模北条氏あたりが
徳川家をつぶしにかかったかもです。

よかったね、家康さま😂

7 感謝する家康さま

三河物語によると、伊賀衆を分け隔てなく
周囲の目も気にせず、落ち延びてきた時は
大切に扱った家康さまだったからこその伊賀越えの成功
だったかと思います。

また伊勢の白子浜から三河まで伊勢湾を行く船を
家康さまご一行のために手配したのは
伊勢商人の角屋七郎二郎秀持さまでした。
その秀持さま、後年の1600年・慶長5年9月10日
家康さまより「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、
 いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」
とお言葉をいただき、廻船自由の特権を与えられたとのことです。

こういう日頃から感謝の念をお持ちになる家康さまです。
しかし考えてみて、自分の後ろ盾となってくれてた
信長さまは今はないのだよっ❗️💦

7 次回

なんとか自国に生還できた家康さまとご重臣方。
甲斐国・信濃国はまだ織田家による統治を始めたばかり
土着の国衆が織田家から派遣された新領主に反発するは必定❗️

家康さまが賜った駿河国も、本能寺騒ぎで亡くなった
穴山梅雪さまの領国が隣り合わせ、だいじょうぶか❓

いやそもそも織田家ご一門衆としてどう動くの❓

相変わらずやることだらけの家康さまっ😂


ここから先は

23字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?