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徳川家康さま☘️をたどる#69☘️大御所時代の諸外国との国交

初筆 2024年 1月 19日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 69
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 孫娘千姫さまを豊臣家に嫁がせていた家康さまは1610年・慶長15年くらいまでは、豊臣家の措置を様子見。

  • 家康さまは豊臣家の大老として政務を執りつつ、豊臣家の資産を削いでいった。一例は貿易港や金山銀山の徳川家による掌握。

  • 家康さまは日本の和平を望む見地から、家康さま自らが天下を仕切る必要ありと感じていた。

  • 家康さまは後陽成天皇との確執の中で朝廷をも掌握❗️

⬇️前回はこちら❗️

3 東南アジア諸国と家康さま

1605年・慶長10年〜1610年・慶長15年あたり、
家康さまはしばしば東南アジアの諸国に親書を送り
国交そして貿易をなさいました。

国交を持った主な国々は以下で、

  • 安南国(あんなんこく・ベトナム中北部)

  • 柬埔寨(カンボジア)

  • 占城(ちゃんぱ・ベトナム南部)

  • 大泥(たいに・パタニ・現在のタイ、パッタニー県)

  • 暹羅(シャム・現在のタイあらかた)

  • 田弾(たたん・でんだん・インドシナ半島にあったと言われている)

家康さま花押の入った各国と国交書簡が残っています。その書簡によると、内容はどの国に向けもだいたい同じで、

  • 家康さまからの進物は、メイドインジャパンのハイクオリティな武器兵器、たとえば鎧・薙刀・刀・鉄砲・馬など

  • それぞれの国において、日本人が違法行為や悪辣な商売をしたときには、それぞれの国の国法に基づき処分してよいと、家康さまは諸国に伝えた

  • 先方から送られる進物は日本ではとれない原材料系または加工品、たとえば、象牙・蝋燭・孔雀・お香・虎の皮などでした。

  • 国によっては家康さまは塩硝、すなわち、鉄砲の火薬を強く求めた。

  • そして家康さまが各国に1番強く求めたのは #奇楠香 (きなんこう)だった❗️

安南国から木楠香が届いたときは、家康さま最高の謝辞とさらに武具・兵器を送っています🤣💦

木楠香とは伽羅(きゃら)の異名で
香木・香料の1つで、沈香(じんこう)と呼ばれる
香木から採取した最上質のものが木楠香・伽羅と
呼ばれています。

1605年・慶長10年〜1610年・慶長15年ごろ
家康さまは特に香木コレクションに
どっぷりハマっていました💦
香木を得るために、既に述べたように兵器を多く輸出し
さらには銅も多く輸出し、安南国では
貿易港で貨幣を「ドン」と呼ぶことにまで
なっていました。

家康さまは自らお香の調合を記した
#香之覚 という書物を書き残し、現在でも
徳川美術館には多くの香木が大切に保管されていルー
とのことです。

木楠香は鎮静作用だけでなく強壮作用も併せ持ち、
子作りが大好きな家康さまは🤣
健康オタクがさらに発展して、
そちらの効果を狙ったとしか思えませんっ🤣🤣🤚

その後、東南アジア諸国から木楠香輸入の
可能性が低くなっていくと、家康さまは
東南アジアとの外交を縮小していったとのことです🤣💦

4 西洋諸外国国交の経緯とヨーロッパの状況

家康さまが東南アジア諸国と国交を持ち、
交易を積極的に行なっていた
1605年・慶長10年〜1610年・慶長15年あたり、
ヨーロッパからやってくる諸外国の使者とは
家康さまは慎重に引見していたようです。

織田信長さま・羽柴秀吉さまがご存命のころから
スペイン人・ポルトガル人 、いわゆる #南蛮人
日本に来航していました。
彼らの中には宣教師がいて、
日本にてキリスト教(あくまで自分たちの)布教から
庶民の人心を把握し、日本の社会に入り込み
あわよくば日本を植民地にせよ、という、
本国政権の命を受けての来航でした。

また、 #羽柴秀吉 さまはそういった状況を
把握していて警戒しつつ、
交易のために目をつむっていましたが、
長崎にて日本人が奴隷として、
スペイン・ポルトガル人に船舶で
輸出されるのを目の当たりにし、
#バテレン追放令 を発布しました。

その後、やはり貿易のために、秀吉さまは
バテレン追放令を自らがうやむやにしてしまいました。
スペイン・ポルトガルの宣教師は相変わらず
日本全国に散らばっている状態でした。

家康さまも豊臣政権の重鎮であったころから
スペイン・ポルトガルとの経緯はすべて
把握なさっていました。

1605年・慶長10年〜1610年・慶長15年ころ
家康さまがご対応なさったヨーロッパの諸外国は

  • スペイン

  • ポルトガル

  • イギリス

  • オランダ

でした。
ちなみに1588年・天正16年には
大西洋沖のアルマダ海戦が勃発し、
スペインの無敵艦隊がイギリスの海軍に敗れた、
その背景としては
イギリス・オランダ🆚スペイン・ポルトガル、という
国際的な敵対関係があった、などの
事実もアタマの片隅に入れておくと
話がわかりやすいかもです😉🤚

家康さまはヨーロッパ人諸外国は警戒しつつも
公益に関しては後世の #徳川秀忠 さま・ #徳川家光 さま
の海外政策と比較して、実に積極的でした。

5 スペインと家康さま

1605年・慶長10年の時点で
スペインとの国交・交易は
スペイン領 #ルソン (現フィリピン)
および、スペイン本国にて命じられた
その地の総督とのやり取りでした。

基本ラインは

  • 貿易は輸入輸出とも積極的に行うことを合意。

  • ルソンの日本人悪党については、家康さまからは成敗してよい、またルソン総督からは日本に強制送還する、という合意

  • スペイン船黒船について家康さまは、関東の湊に着港でよいが、天候次第でどの湊に入るのも許可。

  • ルソン総督はキリスト教宣教師の保護を求めたが、1608年・慶長13年まで家康さまは基本シカト💦

でした。

1609年・慶長14年10月、ルソン臨時総督ビベロさま
を乗せたスペイン船が、ルソンから #ノビスパン
(ノビスパンとはヌエバ・イスパニア、英語では
 ニュースペイン、メキシコのことです)
に向かう途中、上総国(千葉県)沖合で遭難、
駿府にたどりついたビベロさまは

  • 宣教師の保護と布教の許可

  • 海賊であるオランダ人の追放

  • ルソンからの来航船の厚遇

を求めましたが、家康さまシカト🤣💦
家康さまは、ビベロさまご一行に
日本製の黒船を与えて、そこに、
京都の商人も乗せてノビスパンに向かわせた
そうです。

1611年・慶長16年、ノビスパン総督の使者
#ビスカイノ さまが浦賀に来航、
ビベロさまご一行の遭難救助とノビスパンへの送還の
礼を述べました。
しかしビスカイノさまの真の目的は
ヨーロッパで迷信的に信じられていた
金銀の島を捜索しにやってきたのであることが、
家康さま付きのイギリス人 #ウィリアムアダムス  
によって報告されていて、家康さまは引見を許さず、
ビスカイノさまは結局 #伊達政宗 さまの
欧州使節団 乗船の船でノビスパンに帰りました。

1612年・慶長17年、ノビスパン総督への
返書の中で家康さまは

  • 日本でのキリスト教布教の禁止

  • 貿易に限定した往来のみを認める

  • 遭難船の対処は行う

ことを明確にしました。

このようにキリスト教布教に関しては
強気で禁止を通達できるのは、
日本は戦国時代が終わったばかりで、
諸大名いずれも直ちに戦闘できる
状態を保っていて、当時の日本の軍事力は
世界に類を見ない強力なものだったのです。
その最高峰が徳川家臣団でした🥰🤚

6 ポルトガルと家康さま

1609年・慶長14年、家康さま意向で
有馬晴信さまが占城(チャンパ)平家向かわせた
朱印船が途上のポルトガル領マカオで
日本人船員と現地人がこじれて、
ポルトガル領マカオの総司令官ペッソアさまの命で
多くの日本人が成敗されました💦

その後ペッソアさまは長崎に来航
マカオでのその事件の申開きのため
駿府に向かう意向を認められず、
貿易内容の幕府とのこじれもあり、
家康さまはポルトガルと国交を断絶、
家康さまはペッソアさまの処分を有馬晴信さまに
任せます。

晴信さまはポルトガル船にペッソアさまの
身柄引渡しを要求しますが、ポルトガル船は
出航準備を始めたため、晴信さまは
ポルトガル船・グラッサ号を攻めかかり
グラッサ号は攻撃に耐えかねて、
自ら撃沈しました。グラッサ号爆沈事件です💦
これによりポルトガル国交はしばらく断絶しました。

7 イギリス・オランダと家康さま

イギリス・オランダとは良好な関係を
続けていた家康さまでした。
これは

お2人の力が大きかったです。

お2人とも、1600年・慶長5年
関ヶ原の戦の半年前、豊後国に漂着した
オランダ船 #リーフデ号 の乗組員でした。

家康さまは豊臣政権五大老首座として
ウィリアムアダムスさま・ヤンヨーステンさまを引見
しました。

リーフデ号漂着を知ったスペイン・ポルトガルの人々は
リーフデ号は海賊船であると家康さまに吹き込んで
いましたが、家康さまはまずは話を聞く方🥰🤚
ウィリアムアダムスさま・ヤンヨーステンさまの
ヨーロッパの国勢状況を包み隠さず話す態度を
気に入り、家康さまはお2人、また他の乗組員を
日本にて役立てるようにお考えになりました。

江戸幕府が誕生し、家康さまが大御所になるころには
オランダ・イギリスとも国交を持っていて、
家康さまが出した朱印状の内容は

  • 年々の渡航往来をすること

  • 日本での商売認可・商館設置を認める

  • いずれの湊へも着岸を認める朱印状を出す

  • 船荷のチェックは行う

  • 押し売り・狼藉の禁止

などでした。

8 家康さまが警戒したものは何だったか

これまで話してきてわかる通り、
家康さまは海外や海外の特産物に興味津々で、また、
貿易による収入もお考えでした。

当初はノビスパン(スペイン領メキシコ)との
貿易に力を注ごうとなさいましたが、
スペインはどうしても宣教師保護とキリスト教布教の
許可を求めるため、断念し、
イギリス・オランダとの通商に傾いていきました。

9 次回

1611年・慶長16年、家康さまは久しぶりに上洛❗️
表向きの目的は #後陽成天皇 のご譲位と
#後水尾天皇 ご即位の礼のためでした。

そして、裏目的は成長しているであろう
#豊臣秀頼 さまとの引見でした❗️
秀頼さまと会って家康さま何を思うーー❓❓




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