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徳川家康さま☘️をたどる#75☘️大坂冬の陣その2・秀吉さまに学んだ家康さまの勝ち方

初筆 2024年 3月 1日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 75
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 方広寺大仏鐘銘一件ののちに家康さまが #豊臣秀頼さまに臣従を求めた理由は、大坂方が浪人の召し抱えを始めたこと、家康さまご自身が寿命を感じていたこと

  • 家康さま、 #大坂冬の陣 直前には、豊臣家存続は国替意外にないと考えていた、国替に応じないならそのときは豊臣家を滅ぼすと

  •  #大坂城 は徳川勢によって蟻の這い出る隙もなく囲まれた。しかしその布陣にはかつての徳川家臣団は次世代になっていた。また、有力外様大名も重要拠点を任され、幕府から一定の信頼を得ていた

  • 大坂冬の陣にはのちの #大政参与 、となる #松平忠明 さま・ #井伊直孝 さまも参加していた

⬇️前回はこちら❗️

3 大坂冬の陣の大坂方

1614年・慶長19年の方広寺大仏鐘銘一件以後
大坂方・豊臣家は浪人召し抱えを始めて
あからさまに徳川家・幕府との戦の準備を
始めていました。
また徳川方諸将の大坂蔵屋敷から
兵糧を摂取するという行いや、
秀吉さまが蓄財した金銀を使って
武器を買い求めたり、大坂城の修築をしたり
していました。

そして大坂方は大名諸将に大坂城に入るよう
書状を送りましたが、大坂城に入る大名は
誰1人いませんでした。
大坂方・秀頼さまあるいはその側近衆も
この時点で大坂方に付く者は
忠義で大坂城に入るのではなく、
金銀や出世目当てであって、
また実戦で軍を指揮した家臣もいなくなっていて、
軍を編成しても統制を取りきれない、ということに
気づくべきでした。

徳川家臣団だけでなく、豊臣家の内部も
家臣は次世代に交代していて、
戦の何たるか、リアルタイムで人を使うを何たるか、
を肌に沁みて知ってる者が大坂城の豊臣家臣団には
いなくなっていたのです。

大坂城に入った有力浪人諸将の

は、客分であって、大坂方は浪人統制権を
彼らには与えなかったのです。

徳川勢のほうが家康さまを筆頭に
戦国を生き抜いてきた家臣団や外様の諸将が
圧倒的に生き残っていて、
大坂の陣は家康さまが指揮を失敗しなければ
徳川勢の勝ちであることは
それぞれの陣営の人員を冷静に見れば
あらかじめわかっていたこととも言えるのです💦

4 豊臣方の参謀と取った作戦


豊臣方の参謀は基本的に #大野治長 さまでした。
治長さまは考えの至らぬ武将として描かれることが
多いですが、それは江戸時代に入ってからの
歴史読本の創作であり、真田信繁さまに
かなりの兵力を預けて、大坂城南側に出城 #真田丸
築かせる許可を与えたことからも
決して愚鈍ではありませんでした。

しかし、真田丸プラン以前、豊臣方は
戦の作戦について2つの意見に分かれていました。

  • 大野治長さまを中心とする籠城派は難攻不落の大坂城に籠城・長期戦に持ち込み、徳川勢を疲弊させ、有利な講和条件を導こうというもの

  • 真田信繁さまや後藤基次さま・毛利勝永さまを中心とする討って出て機内を制圧・徳川軍を迎え撃ち足止めしている間に、西国大名を味方につけ、上手くいかなかったら改めて籠城という2段構えの作戦

結果、大野治長さまの籠城作戦を取ることになり、
出城・真田丸を築くプランは籠城戦の一環として
行われました。

籠城のために、豊臣方は真田丸建築以外には、

  • 淀川の堤防を破壊して大坂一帯。水没させ大坂城にまったく近づけないようにしようとしましたが、この小作戦は #本多忠政さま #稲葉正成 さまらに阻止されました。

  • 大坂城近辺に籠城の守りとしての砦をいくつか築きましたが、冬の陣の緒戦ですべて徳川勢に突発されました

5 冬の陣の前哨戦

大坂方が築いた砦それぞれで前哨戦がありました。

  • 木津川口砦・1614年・慶長19年11月19日、現在の心斎橋あたり。陥落。これにより大坂方は大坂城と大坂湾を結ぶ水上補給路が遮断され、長期籠城戦はできなくなった

  • 鴫野(しぎの)・今福砦・11月26日。大坂城の北東側。陥落。

  • 博労淵(ばくろうぶち)砦・11月29日。現在の西長堀駅付近。陥落

  • 野田・福島砦・11月29日。現在同名の地。豊臣方現場放棄。

しかし、これらの砦はすべて陥落あるいは
豊臣方の現場放棄で、さらに他の砦も放棄、
豊臣方は完全に大坂城籠城となりました。

6 真田丸の攻防と徳川勢諸将の世代交代の現状

大坂城に入った有力浪人諸将うち真田信繁さまは
元信州上田は #真田昌幸 さまのご次男で
兄の #真田信之 さまは徳川方に与していました。
信之さまは徳川四天王のお1人 #本多忠勝 さまの
娘さんを嫁にもらっていたという事情により、
関ヶ原の戦のころから徳川方の諸将でした。

そんな事情により、兄弟で徳川方・豊臣方に
分かれて戦うことになった真田信繁さまは
大坂城で防備が若干手薄な南側に出城・真田丸を築き、
徳川方を待ち構えました。

1614年・慶長19年12月に入り、
徳川勢は大坂城南側から少しずつ
大坂城との距離を狭めていきました。
家康さまは、真田丸に対面している #前田利常 さまに
塹壕掘り・土塁構築などの防備の準備のみし
真田丸を攻めかからないように指示を出していました。

ところが真田勢は真田丸より撃ち出し
前田勢の防備準備妨害の攻撃を始め、
前田勢は撃ち出していた真田勢に攻めかかりますが、
真田勢は既に真田丸に退却していました。

さらに真田勢は真田丸から前田勢を銃撃などにより
挑発、前田勢はその挑発に乗ってしまい、
真田丸に突撃開始して、真田信繁さま指揮の
真田丸からの一斉射撃に大被害を出し、
生き残っている者も退却できない状態に陥りました。
これらの動きは前田利常さま配下の将たちが
独断で行ってしまったことで、前田利常さまは
将たちの行動にお怒りになると同時に、
兵を安全に退却させようとしました。

さらに前田勢の攻撃を知った
#井伊直孝 さま #松平忠直 さまの軍勢も
真田丸の隣の八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛け
豊臣勢はここでも徳川勢に損害を与えました。

これらの報告を聞いた家康さまは
退却を命じましたが、前田勢・井伊勢・松平忠直勢は
家康さまが防備のために各隊に配っておいた
竹束や鉄楯を持たずに攻めかかってたため退却は難航。

退却完了後、家康さまは
前田利常さま・井伊直孝さま・松平忠直さまの
軽率な行動を叱責し、竹束・鉄楯を必ず使用するよう
厳命した。

この真田丸の戦闘で大坂方が有利に展開できたのは、
および八丁目口・谷町口の戦闘は
真田信繁さまやその他、大坂方の担当諸将が
戦略に長けていたということもありますが、
やはり徳川勢の現場担当は

  • 前田利常さま・20歳

  • 井伊直孝さま・24歳

  • 松平忠直さま・24歳

と、ほぼ初陣に近いような世代が担当していて、
事前の家康さまの命令である、決して攻めかかるな、を
無視してしまったり、配下にその命令を行き渡らせる
ことができなかったりした世代交代した武将が
現場指揮をしていたことに、徳川勢が損害を出した
原因があると考えられます。

若い指揮官であった、利常さま・直孝さま・忠直さまは
想定外のことや家康さまの厳命の理由や
それを守らないときどういう事態が待ち受けているのか
そういったことに対する想像力が不足、
これは経験不足に起因することでした。

7 家康さまの勝ち方

家康さまは1614年・慶長19年12月3日・4日の
真田丸の攻防ののちに
大坂方を主に心理戦て締め付けていきました。
時系列をもって上げていきます。

  • 12月4日、 #徳川秀忠 さまは、家康さまが大坂方と和議を行う方向で考えていると知り、総攻撃を提案するが、家康さまは「敵を侮らずに戦わずに(損害を最小限に抑えて)勝つことを考えよ」と秀忠さまを諭します。ちなみに秀忠さまは不満を露わにしたとのこと

  • 12月6日、家康さまは各隊に塹壕の構築・前進を命じます

  • 12月9日、以前より命じていた大坂城の北側の淀川を流れを尼崎に流す工事が完了して、川が徒士で渡れるようになった。さらに天然の掘の大和川も堰き止めた。これによって徳川勢は大坂城北側へ接近することができるようになり、家康さまは諸隊に、毎夜3度、鬨の声を上げ鉄砲を撃ちかけ、大坂方の不眠を誘いました。

  • 大坂城南側の徳川方塹壕も前進し南側からの大砲射撃が始まった。

  • 12月10日には降伏を促す矢文を大坂城へ

  • 12月11日には甲斐・佐渡の金山銀山で働く鉱夫を動員し、大坂城南側よりトンネルを掘り始めた

  • 12月11日には大坂城内の #織田有楽斎 さま・ #大野治長 さまから家康さまに「両御所様御出馬の上、何之色目もござなく、御馬を入れらる儀なされがたきの由」つまり、家康さま・秀忠さまが戦果もなく撤兵はない(ので秀頼さまに意見を申してみる)という文が届く

  • 12月13日、家康さま命で船場の堀の埋め立て。また方広寺における徳川方大工の棟梁・ #中井正清 さまに作らせた大坂城攻略用の梯子を諸将に配布

  • 12月15日、織田有楽斎さま・大野治長さまより和議案として「淀の方さまが江戸に向かうこと・召し抱え浪人への給地の保証」を提案。家康さまは「浪人に何の功労ありや」と却下

  • 12月16日、和議案を却下する意味の大砲砲撃開始。大坂城の北側から奥御殿に、南側から表御殿御対面所(千畳敷)に、和議締結まで撃ち込み続けた。

  • 12月17日、朝廷からの勅使が家康さまに停戦を調停してくるも家康さまはしばらく勅使に会わずに、「禁中の扱いはご無用」とはねつけた

  • 豊臣方は近づいてくる徳川勢に火縄銃で対応、成果を出すときもあったが、徳川勢の塹壕が充実してくるとまったく効果が出なくなった

  • 大坂方は「兵糧・弾薬不足」「深夜の鬨の声・射撃による兵の疲弊」だったところに「本丸への大砲砲弾で淀の方の侍女8名がお亡くなり」になる凄惨な様子を目の当たりにした淀の方さまは徳川方条件を飲んでも和議締結することを決意。12月16日

このように家康さまは徳川勢の被害を最小限に抑えて
淀の方さまに和議をする決意をさせました。

家康さまは小牧長久手の戦のときに
緒戦では軍事的に勝利していながらも、
秀吉さまは織田信雄さまを攻めたてることで
形式的な大将の織田信雄さまとの和議に持ち込み、
結果、家康さまは政治的に負けることになりました💦

そのときの秀吉さまの姿勢に学んだことを
実践したかのような、つまり意思決定権のある
淀の方さまの気持ちを、心理戦や大砲射撃による恐怖
で動かした、家康さま大坂冬の陣での指揮でした。

8 次回

淀の方さまは和議決意を受け
交渉は12月18日より始まりました。
交渉は本多正純さま立会いで、交渉人は
徳川方は阿茶の局さま、豊臣方は淀の方妹の常高院さま

家康さまはどのような条件を提示するのか❓❗️
大坂方は果たしてそれを飲むのかー❓❗️


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