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溶け込む感覚を知るのです。

私はあまりYouTube を見る機会は多くないのですが、数少ない視聴機会の中では「ストリートでのジャズセッションの動画」とかは、わりと良く見る方なのです。

そんな中でも、Jacob Koller さんのストリートセッションものは「お気に入り」でして、ジャズの名曲に限らず、ポップスやアニソンのジャズアレンジとか、その場の雰囲気で楽しそうに演奏しているのを流していることがよくあるのです。

そもそもにおいて「オープンスペースでのジャズセッション」ですからね、キッチリと聴く…と言うよりは、料理とかしながら流しておくのにちょうどよかったりするのです。

埋め込んだコレ…「On the Sunny Side of the Street」は、2021~2022年秋冬シーズンのNHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」では、物語のカギとなる楽曲でもありました。

YouTube のキャプションの中で Jacob さんは「日本は街の色んな場所でスタンダードなジャズを流していることが多くて、ジャズファンではなくてもジャズに耳馴染みがある人が多い(意訳)」と話しています。
うん、それはその通り。
日本以外の国の事情はよく知らないけれど、テレビCMとかでもジャズを使うのは良くある…と思います。

そう言う私は Ron Carter 氏の、1985年のこのCMが忘れられないのです。

何かしら、どこかしら…で、ジャズは日本の生活の一部に溶けているのでしょう。

ところで…。

「日本は無宗教か?」を扱ったこのポスト、とても興味深いなぁ…と私は思ったのですよ。
私は建前上「仏教徒」と思っていますが、それは特定のお寺と実家の間に「菩提寺」と「檀家」の関係があるからです。
その一方で、年始には神社へ初詣に行き、クリスマスにはケーキを食べるのです。
日本神道の神様と合わせて仏様を拝む…は日本的な神仏習合の思想風習としてその歴史は古く、多宗教の融合の素地は中世日本から脈々と受け継がれてきた感覚なのかもしれません。
結果として「コレ」と決めず、何でも受け入れるように見える為に「無宗教」に見えるのだろう…と。

引用したポストにある通り、

「根本には神道があるけど同時に何でも神様だと思ってるし生活や防疫の知恵と同化してるから分かりづらいだけだよ」

…は、とても良く日本人的宗教観を表しているように思います。
つまり、私たちの生活の根本には無意識下の日本神道的な思想があり、その教えによる「粗末にしない」は、(神道的な教えであるかは一旦を横に置いても)生活の知恵と同化して「教え」として存在しているよなぁ…と。

先程のツイートは以下のように続きます。

その価値観の根底には「自分たちのプラスになるものは積極的に受け入れて融合する」感覚があったとすれば、八百万(やおよろずの)神様が存在する日本神道がベースになるという説明は、一理ある…と思います。

だからね、新しいものを受け入れていくのに大きな抵抗がない…私が子どもの頃にはなかったハロウィンのイベントは、すっかり日本に定着してきていたりするワケで。

ただし、この「受け入れる」がスムーズに進むにはひとつ大きな条件があるのだろうと思うのですよ。
それは「私たちの生活にプラスオンしても支障がない」…が見通せる必要があるということ。

何処ぞの宗教や文化が「私の生活エリア」に入って来て、私の生活環境の見通しが悪くなる不安には、とても敏感に拒否反応を示すのだと思うのです。

数年前、私は「前年並みで恙無い」と言うことの重要性と絡めて自分の「強情さ」を記事にしたことがあります。
この記事自体は「意見を聞き合意することの重要性」と、AS"D"の私の「意見を聞かずに突っ走りがち」な経験についてのハナシなのですが、「前年並みで恙無い」ことに込められた「私の生活エリアの安定」は、それを崩すものに対すしては強力な抵抗力が働く…という前提があるワケです。

「私の生活エリアの安定」は、隣の誰かが「日本的な宗教観」とは違う何かを信仰していて、それが仮に「私の生活」に危害を加えないとしても、価値観の違う隣人に対する同一エリアの棲み分けに一抹の不安を感じる…みたいなものでしょうか。

冒頭に触れたジャズのハナシ…ですが。
ジャズという音楽分野を好む/好まないは個人の問題ですから、よく聞いて知識もある人もいれば、テレビCMで流れる程度ならわかる人もいるのは当然です。
ポイントは耳から入ってくるジャズの調べは日本の生活に溶け込んでいて、多くの日本人は、よく知らないけれど「コレはジャズミュージックだよね」って分かる程度には理解があるのでしょうね。

宗教観に関しても、キリスト教はよく知らないけれど、聖書という聖典があって、その教えによる祭事があるワケね。
大体にして仏教の年中行事だって、本当のところよく分かってない…盆暮正月にお彼岸、日本では主流の仏式の葬儀に出席するくらいの人が多いだろうと思うし。

何れにしても、それが「私の生活エリア」に溶けていて、よく知らない違う価値観と混ざり合わずに生活エリアを共有している…ワケではないのでしょう。
和風での生活に「インクルーシブ」が上手く馴染んでいかないのは、この価値観が混ざり合う点での引っ掛かりがあるから…と思うのです。

この「溶け込む」感覚の存在を理解しところで、さて…。
その「溶け込む」方向に新たな価値観を溶かすのか、「棲み分ける」感覚の価値観を新たに説くのか、という点が議題になっていくのかもしれない…と、私は思うのです。

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