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土に還らぬ鳩への挽歌

 長い階段を下りる。ホームに人は少ない。3分後の準急を待つ。
 ふと、線路に灰色の何かが落ちているのに気がついた。嫌な予感がしたが、すぐに電車が来たので、乗って、向こう側のドアからそれを見下ろした。やっぱり、鳩の死骸だった。

 珍しくないことなのだろう。でも、脳の中で飛びまわり歩きまわる鳩と、目の前で静かに横たわる鳩だったものとの隔たりが、否応もなく意識されて、しばらく目を離せなかった。


 ここで、ひとつの疑問がうまれる。この鳩は、これからどこへ向かうのだろうか、という疑問が。

 現実的に考えれば、線路の上で死んだ鳩は、電車の通行の妨げになるモノとして排除されるだろう。明日になれば、そこである一羽の鳩の生が終わりを迎えたことには誰も気づかない。

 だが、もしその介入がなければ、鳩はどうなるだろうか。線路にはバラストとよばれる石が敷き詰められている。だから、その上で死んだとしても、土の上で死んだときと同じようにはいかない。端的に言えば、鳩は土に還らない。

 鳩は、死ぬために線路を訪れたのではない。たぶん、ホームに無数に落ちているお菓子なんかのくずをついばみにきたのだろう。直接の死因はわからないが、内臓が飛び出したりはしていなかったから、轢き殺されたのではないことは確かだ。架線に触れて感電したか、電車と接触したか。いずれにせよ、鳩を殺したのは、ほかでもない私たち人間だ。人間の都合によって作り変えられた環境の中で、鳩は殺され、線路の上で冷たくなった。

 本来ならば、つまり、人間がこれほどまでに世界を「ヒト製の道具」で染め上げ、ありったけの地面をアスファルトやコンクリートで覆いつくしていなければ、鳩はいかなる死に方であっても、土に還っていただろう。人工被覆は、その上で放置される死の存在を計算に入れて作られてはいない。人里離れた、「車が通るためだけの道路」でトラックに轢殺された猫は、土に還るよりも前に、カラスか何かに食い荒らされるだろう。

 ここでは、実際に土に還るかどうかは問題ではない。「土に還ることができるかどうか」、その可能性が問題なのだ。私たちの便利な暮らしは、着実にその可能性を生き物たちから奪っている。文明に覆われた自然。自然と隔絶された生物。ここには、いかなる循環も発生しない。残るのは、人間の人間による人間のための世界と、不毛の人工被覆の上で空しく息絶える「彼ら」だけである。

 悲観的すぎるだろうか。自然はまだ、文明に覆いつくされてはいないだろうか。でも、僕たちが自然を奇妙なまでにありがたがり始めたのは、自分自身の手で自らを人工的環境に疎外したからではないのか? 「自然は守るべき尊いもの」という感覚は、破壊されてきた自然の亡骸を見てはじめてうまれるものではなかったか? 僕たちが足跡のつかない「大地」に慣れたのはいつごろからだったか? 技術とその産物がひしめきあう世界では、自然の姿はどこにも見当たらない。自然が「どこにもない場所」になる日はそう遠くないのだろうか。

 鳩は死んだ。覆しようのない事実である。いまや地球の支配者となった人間に課せられるのは、この死をいかにして自然の循環の部分に位置づけるか、である。絶え間ない拡大に耐えられるほど、この惑星は広くないことが明白になったこの現在において、どうやって人間は、今まで通用してきた世界との交渉方法を変えるのか。


 これは、土に還らぬ鳩への挽歌である。そして、自らの世界に閉じこもる人間への警鐘である。


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