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思考の一回性

 朝、もしくは帰りの夜の電車の中で、手持ち無沙汰な時間を埋めるように、窓の外の流れていく風景をぼんやりと眺めながら、何かを考えるということがよくある。ここで「何か」と言ってその内容を特定しないのは、端的に言ってそれを覚えていないからである。断片的な言葉は記憶に残っている場合もあるが、その言葉をどのように紡ぎ、どのような論理で思考を展開していったか、ということは概して忘れてしまう。つまり、再現不可能、復元不可能な思考である。

 しかし、だからといって、その思考の意味が全く失われてしまうわけではないだろう。常に移動する家、人、山、川を見ながら、時にその眺めに思考を触発されたり、時にその眼前の風景の一切が意識から遮断され、純粋な思惟の世界にのめりこんでいたりもする。この内容を私はほとんど覚えていない。だがこの営みの意味はその内容、すなわち思考によって導き出された一定の結論のみにあるのではなくて、それが感覚される過程にも確かに存在しているのだ。とりとめもなく進行していく思考、次々に飛躍し、場合によってはいつの間にか全く別の話題にすり替わっていることもある思考を体験することは、私にある種の官能的な陶酔を覚えさせる。今までかかわりを持ってこなかったある複数の言葉が、この混沌とした思考のなかで偶然の邂逅を果たし、新しい意味の連合が生まれる。脳内の神経細胞が新しいネットワークを開拓していく。この新奇性こそが、私が私の言語に対して渇望するものである。人は誰でも、月並みな言葉、陳腐化した言葉、いわゆるクリシェを使いすぎることに嫌悪感を抱くものだ。私もその例外ではない。だから、私は「私だけの言葉」を渇望するのだ。それは「造語」だけにとどまらない。むしろ、既存の言葉をどのように組み合わせて新しい表現を生み出すか、ということに重点が置かれている。これは詩的言語にも似ている。詩においては、既存の語彙や文法を逸脱、もしくは過剰に省略するような形で、言語に新しい価値が与えられる。大げさな言い方をすれば、パロールがラングに楯突くのである(「飼い犬に手を噛まれる」という表現のほうがしっくりくるだろうか)。

 言語の新しい連合をつくることで新しい価値を生み出すという点において、私の思考は詩を書くことと似ているかもしれない。私が渇望しているものは、詩を読んだ時に感じる人間としての内奥を揺るがされているようなあの何とも言えない感覚と同型のものであろう。脳内に蓄積されたレキシコンの全ての見出しをひっくり返して渾然一体となった言葉のるつぼの中から、心にときめく言葉の組み合わせを見つけ出すのが私の思考であり、その過程が私の渇望する「私だけの言葉」を編んでいくことになるのだ。そしてそれこそが、この思考の意味である。

 少し話が横道に逸れた気もするので、本題に戻ろう。そもそもは、この思考は一回限りのもので、後になってその理路を丹念に追っていくというようなことはできないということであった。ひとことで言い表すならば、この思考は「刹那的」である。「儚い」と言ってもいいだろう。確かに存在していたのだが、今やもうそれを取り戻すことはできない。

 これを、唐突ではあるが、人間に喩えてみるとどうだろうか。思考は人であり、その儚さは人の儚さである。確かにその人は存在していたのだが、今はもう亡くなってしまったり、疎遠になってしまったりしていて、もはやその実存を私の目の前に回復することはできない。でも、私たちはその人のことを完全に忘れ去ってしまったのではない。彼(女)が残した言葉は、完全な形ではないにせよ、今なお記憶のなかに色褪せず保たれている。その、いわば「彼(女)の破片」が、その人の存在を示し続けているのだ。これと同じことが、先ほどの思考の話にも言えるだろう。私は最初の方で「思考の具体的な輪郭は失われても、その断片的な記憶は残っている」というようなことを書いたが、この「断片的な記憶」が、まさに「思考の破片」なのである。その破片を手に取り、いろいろな角度から眺めることによって、私は、あの時の私の考えていたことを漠然とではあるが想起することができるのだ。この破片の中には、もちろん当時の私が見つけ出した「私だけの言葉」も含まれていることだろう。何らかの痕跡によって、ありし日の輝きに思いを馳せることができる。その輝きは、人の場合ではかけがえのない思い出であり、思考の場合では豊饒な連想の混沌であろう。

 この一歩間違えば単なる連想ゲームと化してしまいそうな、ある意味で無節操な思惟の中で、私は連綿として途切れることのない自我を再発見し、驚嘆する。私は死ぬまで私であり続ける。私の持つ自我は、ある日突然誰かと入れ替わってしまうなどということは起こり得ず、いつまで経っても私から離れようとしない。私の実存と不可分な連続体として自我があることは、あまりにも自明すぎて、意識にのぼることはめったにない。しかし、このノンストップな思考の流れを自ら作り出していくという能動的な営みの中で、私は連続体としての自我を、「連続体としての思考の類型」として理解することができる。思考が連続するとき、自我も連続しているのだ。そして、いくら抗おうとしても遡れない不可逆的な流れ(これを「時間」と呼ぶこともある)を発見し、声にならない嘆きを漏らす。

    思考の一回性とは遡行不可な過去の一回性であり、時間的文脈に裏打ちされ固有の意味を与えられた自我の一回性である。

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