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紅桜、一人待つ身の寂しさに

 町美峠の紅桜は葉桜になることなく年中花吹雪を降らせ続ける。

 春の頃を過ぎ、夏の日が照らしても、秋の風に吹かれても、冬の雪に晒されても、花が尽きることも木が枯れることもない。その巨大な桜がいつから立っているのか、いつから咲いているのか、短い定命のドブヶ丘の住民たちで覚えているものは少ない。

◆◆◆

「それじゃあ」
「あっ」
 おずおずと別れの言葉を口にして町見峠の麓へと振り返ったソウスケの袖を、ユミはとっさにつかんだ。

「どうした」
 ソウスケが振り向き、はらはらと降りしきる桜の花に眩しそうに顔をしかめた。その声にうんざりした様子はない。むしろどこかほっとしているようにさえ聞こえた。ユミは安堵のため息をついてから、慌てて言葉を探した。

 ソウスケは沈黙の間さえいとおしむように、微笑んだままユミの言葉を待った。

「お弁当持った?」
 ようやく出てきた質問は随分間抜けなものに思えた。掘っ立て小屋から出るときにお弁当を渡したのはユミ自身なのに。けれどもソウスケはわざわざ背負った破れかけのずだ袋をのぞき込んで確認した。

「うん、大丈夫だよ」
「そう」
「落ち着いたら食べるよ」
「そうして。箱はどこかで捨ててもいいから」
「ううん、取っておく。持って、帰る」
「そう」

 見つめあう静けさに耐え切れず、ユミは目をそらす。音もなく桜が散っていく。その色は薄く色づいた桃色。

「ユミ」
 突然ぬくもりを感じた。顔を上げる。ソウスケが包み込むように抱きしめている。

「一緒に行こう」
 少しだけ、湿ったような、懇願のような声。ユミは笑みを作って答える。
「駄目だよ。通行料はソウスケの分しかないでしょ」
「そうだけど」

 ユミは息を強く吸った。ソウスケの匂いが肺を満たす。その匂いを記憶に刻み付ける。ぐっと力を入れてソウスケを突き放す。顔は伏せたまま。

「二人じゃ、警備隊の関所抜けられないよ」
 ユミは峠の下を見やった。荒々しいバリケードの前にマス(釘バットの釘の頭を落として削ったもの)やドブ鉈を携えた男たちがだらしなく立ちふさがっている。ドブヶ丘私設警備隊だ。ドブヶ丘と外界を繋ぐ道に関所を設け通行料をとっている。警備隊とは名ばかりの愚連隊に逆らえるほどの力は二人にはない。 
 通行料は決して安い額ではない。ユミとソウスケが数年にわたり毎日ドブさらいを続けてようやく一人分。二人の数年の労働の成果がしまい込まれたソウスケの懐をユミは優しくたたいた。

「ソウスケがちゃんと抜けて、外で稼いで、迎えに来て」
「うん」

 ソウスケはうつむいたまま答える。
「かならず、迎えに来るから」
「うん、待っているから」
 ちゃんと気丈な声を作れただろうか? 震えてしまった気がする。自覚してしまった感情に視界がにじみ始める。

「もう、行って。私、待ってるから。ここで」
「わかった、もう行く。絶対に、絶対に帰ってくるから」

 二人の声はもう隠しようもなく涙が混じり始めていた。それを互いに隠すようにそっぽを向く。ソウスケは強く振り返ると、峠を下り始めた。
 ユミは滲む視界で小さくなっていく背中を見送った。
 舞い散る桜の中、ユミはいつまでもその背中を見つめていた。
 いつまでも、いつまでも

◆◆◆

「そんなんだったと思うけど」
 薄汚れたジャージを着た女はそう言って語り終えると、勢いよく目の前のコップに注がれた液体を飲み干した。濁った茶色の液体はこの店で出されている比較的混ぜ物の少ない方のアルコールだ。

「はあ」
 向かいの席に座った男が気のない相槌を返し、胡乱げな目を向けた。ラビット建設親方のジョージ衣笠だ。町見峠の工事が難航していることを愚痴っていると、この女性が話しかけてきたのだ。相談に乗ろうとの口車にのせられ酒を奢った衣笠に女性が語ったのは男女の別れの話だった。
「どっかの製薬会社の実験とか生物汚染とか聞いたけど」
「あー、それもありそうだよね」
 女性は衣笠の言葉を否定せずに続ける。ここドブヶ丘ではどんな奇妙なことも起こりうるのだ。
「でも私の知ってる限り、それからだよ。あの桜が散り続けるようになったのは」
「いつ頃の話だよ? 初めて聞いたぞ、そんな話」
「あれ? そう? 結構有名な話だったと思うけど」
 女性はうつろな目で虚空を見つめながら首を傾げた。
「いつ頃だろ、結構最近じゃないかな。二、三年前とか」
「そんな馬鹿な。私設警備隊の関所がなくなったのがそんぐらいだろ」
「あー、そうなの? じゃあ、二、三十年かな? 六十、七十。あれ? 二百、三百?」
 あやふやに際限なく増えていく数字に衣笠はため息をついて、通りかかった隻腕の店員に追加の酒を注文した。
「飲めるサケ、一本すね。ちょい待っててください」
「ああ、ありがとう」
「別にあんたの分じゃないよ」
「まあまあ、で、何に困ってるんだっけ?」
「さっきも言っただろ……」
 もう何度目かの説明になる。うんざりしながらも衣笠は答える。
「あの桜、倒れねえんだよ、どうやっても。チェーンソーの刃も通らないし、根っこ掘り返しても動かねえ。部下たちも気が滅入っちまって、頭がおかしくなる。おかげで工事がちっとも進みやしねえ」
「じゃあ、ほっときゃいいじゃないの」
「そういうわけにもいかないんだよ。鳴兼の旦那があそこに館建てたいって言っててよ。前金ももらっちまったし、なんとかしないと」
「ああ、そりゃあ、大変だねえ」
 女性はどうでもよさそうに相槌を打つと衣笠の前に置かれていたグラスを飲み干した。納期の遅れを思い出して頭を抱えた衣笠はそれに気が付かない。紅桜の頑丈さだけが工事の難航の理由ではない。
「それに……」
 衣笠は桜の異様な姿を思い出して言葉に詰まった。よみがえる風景に身を震わせる。
「色か?」
「ああ、あれじゃあまるで……」
「血みたいだって?」

 衣笠は黙ってうなずいた
 その花びらは桜というにはあまりにも紅く、まき散らされる花びらを見ていると正気が失われるようだった。実際に少なくない数の作業員が精神に異常をきたしている。それが工事の進行が遅れている最大の理由のだった。
「で、どうするの?」
「どうしようもねえだろ。今度発破かけてみるけど……」
「やめときなやめときな、金がもったいないよ」
「ンなこと言ったって……」
 女性はグラスに残った酒の雫を舐めながら少し考えてから言った。
「鳴琴のガキか。その桜倒したらいくらか金引っ張れる?」
「そりゃあ、工事が進むなら、なんとかするけどよ」
「お、言ったねえ」
「なんとかできるのかよ」
「そりゃあ、もちろん」

 酒を持ってきた店長から酒瓶を勝手に受け取って女性はにやりと笑った。
「私、実はちょっと女神をやっていてね」

◆◆◆

 町見峠は熱気に包まれていた。
 日頃は閑散としている作町見峠を今日は人で埋め尽くされている。作業員ではない。襤褸をまとった住民たちだ。彼らは明るい光を目に宿し、桜を背に設えられた簡素な仮設のバンド台を見つめている。
 赤い花弁を吹き散らす桜もバンド台を前に置かれると、どことなく舞台装置のようにも見える。観客たちが狂気に呑まれないのはそのためだろうか。いや、それとも熱狂の予感がかえって彼らを正気につなぎとめているのだろうか。
「安請け合いしちまったかな」
 ステージの上手の仮設足場の上で衣笠はぼやいた。もう一度手すりに取り付けた投光器の配線を指さし確認する。光源の周りを筒状に加工した鉄板で覆い、急造のピンスポットとして転用している

「なんに使うんだ? こんなの」
 質屋から引き出したばかりの品をを担ぎながら衣笠は尋ねた。フリルの大量に着いた服と、安全ピンと歯車を組み合わせたようなつなぎ、やけにシンプルな白のワンピース、それから赤い稲妻のような形をしたギターだ。
「ライブに決まってるでしょう」
 女神は当然のことのようにわけのわからないことを言った。
「ライブ?」
「そう、ちょっとあの桜倒すのには今の神力じゃ無理だからさ。ちょっと信心稼がないと」
「信心? ライブ?」
 聞きなれない言葉に衣笠は戸惑って尋ねる。
「そう、信心を稼ぐにはライブが一番。なんか昔話にもあったでしょ、歌って踊っればみんなハッピー」
「しらねぇよ、てか、そんなに金はねえぞ、おれも」
 質屋から楽器と衣装を引き出しているような女神がライブをできるだけの資金を持っているとは思えない。鳴兼の旦那も効果のはっきりしない作戦へは金を出さないだろう。
「ありもんでいいんだよ。ありもんで」
「バンドメンバーいるのかよ?」
「まあ、それはこっちでなんとかするよ。それより、スタッフの方だな、問題は。まともなの集めると結構かかるんだ」
 それを聞いて納得する。この町でまともな人間を集めるのは相当に難しい。まともな人間でスタッフができる人間を集めるとなるとほとんど不可能だろう。衣笠も現場の人間の扱いには日々頭を悩ませている。
「あー、なんか暇そうな作業員とかでよければ声かけてみるが」
「いいの? とりあえずピン要員さえいてくれれば何とかなると思うんだけど」
「まあ、最悪。俺がやるよ」
「そりゃいいや」
 そう笑いあった時には何とかなると思っていた。

 なんとかはならなかった。バンドメンバーの名前を聞いた若いやつらはみな、客として見たいと懇願した。設営までは手伝うが、本番中は客席にいさせてくれと。結局捕まえられたのは責任感の強い現場監督が一人。
 もう一つのピンスポットは衣笠が照明を操作しながら動かすことになった。
 ステージを照らすを照明や、仮設の舞台、今衣笠が乗っている仮設足場も工事現場で使用している資材を流用したものだ。
「旦那にばれたら怒られるのかな」
 衣笠はきりきりと刺し込むように痛み始めた胃に手をやり、対面の仮設舞台に目をやる。同じように仮設舞台に腰かけて投光器をいじっている現場監督と目が合った。突然任された大役に緊張した面持ちでやはり胃を抑えている。同情と共感のため息をついて時計に目をやる。
『それじゃあ始めるよ』
 手すりに括り付けた無線機から女神の声が聞こえた。
 資金不足により無線は衣笠と女神の分しかない。現場監督に手を振って合図する。青ざめた顔がうなずくのを見て、衣笠も投光器を構える。

 桜の陰から人影が勢いよく飛び出した。一人、二人。衣笠と現場監督は懸命に二人を追う。ドラムとベースを構えたところでふらふらと揺れる光の円が二人に追いついた。光の中に演奏者の顔が現れる。先日女神と衣笠が飲んでいた酒場の店長と店員だった。
 二人は感触を確かめるように、一つ、二つ音を軽く出した。観客の期待が高まっていくのが仮設舞台の上からでもわかる。
「いっくぜー!」
 スピーカーから女神の声が響いた。観客が一斉に歓喜の声を上げる。
 桜の陰からもう二つ人影が飛び出る。ピンスポットの光の円がぎこちなく二人をとらえる。衣笠が片手で舞台照明のスイッチをひねる。一斉に舞台が明るくなり、二人の人影の顔が見えた。一人は白のワンピースに身を包んだ女神、もう一人はやけにフリルの着いた服を着た少女だった。二人の正体をみとめて観客はひと際大きな歓声を上げた。
 衣笠は少女に見覚えがあった。衣笠だけではなくこの町の住民ならばほとんどが見覚えがあるはずだった。半年ほど前町中を席巻したアイドル、お馬ヶ時お宮だ。町中が異様なほどに熱狂して、ラジオというラジオから彼女の歌が流れ、いたるところにポスターが貼られていた。
 いつの間にかブームは終焉し落ち着いていったが、今なお町の住人の記憶には彼女の歌が刻み込まれている。
 ドラムがリズムを刻み一曲目が始まった。『ダイコクダイナマイト』過激な歌詞とアップテンポなロックの曲調のノリのいい曲だ。非常に流行った曲で、一時期はドブヶ丘ラジオのリクエスト曲がすべてこの曲だったこともある。曲がわかった客は雄たけびを上げ、合いの手を入れ始めた。
「すげえな」
 流行に疎い衣笠でさえ聞いたことがある曲だ。けれどもスピーカーから聞こえるのとはまったく違う。お宮の生の歌声は直接に魂を揺さぶるような迫力に満ちていた。

「今日は来てくれてありがとう」
 一曲目が終わったところで、お宮がマイクで語りかけた。観客は拍手と歓声で答える。
「知ってる人もいると思うけど、今日はうちのギターの女神さんからお願いがありまーす」
 お宮の声にギターを置いてボトルから何かを飲んでいた女神に視線が集まる。女神は慌ててボトルを置いた。
「ああ、そうそう。ありがと。ちょっと今日はみんなの力借りたくってさ。つっても、そんな難しことじゃねえ。この桜ぶっ倒すのにみんなに応援してほしいんだけど。どうかな?」
「えー」
 女神の問いかけに観客からわざとらしく息の合ったブーイングが聞こえた。
「うるせー、野郎ども! 要はこっちがぶち上げるからてめえらもついてこいいてことだ! わかったか!」
 女神も少しわざとらしいほどに怒った表情を作りマイクに怒鳴る。
「つうわけで、次はこの曲だ!」
 ドラムを先頭に今度はえらくかわいらしいイントロが奏でられる。観客の間から笑い声が上がる。『ユメミ心地パウダー』。今度はうって変わってふわふわとしたかわいらしい曲だ。衣笠も町ゆく子供たちが口々に歌っていたのを覚えている。観客たちの熱狂が緩んで笑みが浮かぶのが見える。
 衣笠は自分の口元もいつの間にか緩んでいるのに気が付いた。ステージ上を動き回り跳ね回るお宮と女神をなんとか追いかけられている。ちらりと対面を見る。現場監督も少し緊張をほどいた顔で投光器を操作しているのが見えた。衣笠は口角を上げたまま、リズムに身を任せた。

「ダイコクダイナマイトでしたー!」
 五曲目が終わる。熱狂は最高潮に達していた。。
「よーし、じゃあそろそろ行くかー!」
「おー!」
 女神の掛け声に、観客も気合のこもった歓声を返した。女神はギターを置くと降りやまない紅桜の下に立った。
 天高く右手を掲げる。その手は心持ち輝いているように見える。
「行くぜ」
 観客たちの見守る中、その手が振り下ろされる。
 バギャーン!
 すさまじい衝突音。まばゆい光が会場を走る。衣笠は思わず目をかばった。
 閃光が収まる。視界が戻る。
 そこには赤い花を散らす桜が悠然と立っていた。
「いってえ!」
 衣笠は回復した視界の中で女神が右腕を抑えているのを見た。
「どうしたー!?」
 お宮が叫んだ。ざわざわとした動揺の声が観客の間から上がる。
「この木、かってぇ!」
 女神の叫びに動揺の声は笑いに変わった。「言ったじゃねえか」と衣笠は足場の上でつぶやいた。
「これは、あれかな? 応援が足りないのかな?」
「そんなところだよ」
 女神の答えにお宮はにやりと笑ってマイクに向かって叫んだ。
「みんなー! 女神さん、ちょっとだけ応援が足りないみたい」
「「えー!」」
「ごめんごめん。だからみんなもう一回応援してみて、せーのっ! メ・ガ・ミ!」
「「メ・ガ・ミ!」」
 お宮に続いて会場の観客たちは声をそろえて叫んだ。
「なんだってー? もう一回! メ・ガ・ミ! 」
 息を整える女神の隣で、お宮は耳に手を当てた。
「「「メ・ガ・ミ!」」」
 もう一度、観客たちの声。今度はさっきまでよりも大きい。
「そんなんじゃ全然聞こえないぞー! せーのっ!」

「「「「メ・ガ・ミ!」」」」


声援はさらに大きくなった。
「よーし」
 女神が叫ぶ。
 いつの間にかその手の中には赤い稲妻を思わせるギターが握られていた。ギターはまばゆいばかりに輝いている。
 そろり、とギターを八双に担ぐ。
 会場は水を打ったように静まり返った。衣笠はそっと舞台の照明を少し落とした。ギターの輝きに女神と桜だけが浮かび上がる。
 暗闇の中、赤い花びらをまき散らす桜とそれに対峙する白い女神。その光景はここがドブヶ丘であることを一時忘れるほどの美しかった。
 女神が一つ、深く呼吸をした。
 目をつむり、開く。目の前の桜をキッと見据える。
 ギターがひときわ明るく輝く。女神の全身に力が籠められ、引き絞られる。
 桜はなにも言わずそびえたっている。
 観客はその光景の神聖さに息をひそめる。

「ま、まってくれ!」
 荘厳な沈黙の中、男の声が会場に響いた。
 客席の後方だ。衣笠はとっさに投光器をそちらに向けた。群衆が割れ、一人の男が照らし出される。
 老人だった。ひどく薄汚れぼろぼろの格好をしている。服装ばかりではない、その顔には長年にわたり打ちのめされ、苦難を舐め、疲弊した痕が刻みこまれていた。
 老人は責め立てるような群衆の目を一身に受け、言葉を失ってうろたえていた。
「えーっと、どうしたの? 君は」
 お宮が舞台上から、やはり戸惑ったように、しかし優しい口調で問いかける。
「あの、つまり……その…」
 老人はなにかを言おうとして、けれども言葉にならずに、もごもごと口の中で何かの音を発するばかりだ。その様子を見てお宮は考えるように頭をかいた。
「なにか話があるなら、とりあえず上がってきなよ」
 その言葉に観客は二つに割れ、老人の前にステージへ続く道ができた。老人はしばしの間逡巡して、それから意を決したように一歩前に足を踏み出した。

「そのー、みなさん」
 マイクを渡された老人はつっかえながら、一つずつ言葉を紡いだ。
「ほんとうに、この桜、切らないといけないんですかね?」
「切らないと、工事できないんだから、仕方ないでしょ」
 お宮が答える。
「でも、工事ったって、お屋敷を建てるってだけなんでしょ? なにもここじゃなくたっていいじゃないですか」
「じゃあ、ほかの場所、君が提供できるの?」
「それは……」
 お宮の質問は冷酷にも聞こえる。しかし、ここドブヶ丘で思いを通したいのならばなにかしらの力が必要なのだ。財力なり、武力なり、魅力なり。群衆の目にさらされ、弱々しく立ちすくむ老人はどんな力も持っているようには見えない。それは彼自身がよくわかっているのだろう。沈黙がその自覚を物語っていた。
「それじゃあ、いいかな」
 老人が黙り込んだのを見て、お宮は輝くギターを構えたままの女神にうなずいて見せた。目を細めるとギターを下ろして言った。
「本当にいいんだね」
「ええ」
女神の問いかけに、老人は観念したように答えた。
「ふーん」
女神は気のない風に老人に目線をやる。
「あんたが言いたいのはそんなことなのかい?」
「…………」
「まあいけどね、私にはあんたが言いたいのはそんなことじゃなくて、言いたい相手も私らじゃない、そんな風に見えたからさ」
 老人はうつむいたまま答えない。
「まあ、あんたがいいなら、いいさ」
 そういうとギターを構え、桜に向き直った。ギターが再び輝きを取り戻す。神聖な沈黙が会場を満たした。
「ま、まってくれ」
 再び、老人の声が響いた。弱々しく、けれども芯の座った声。
「あのね」
 お宮が何か言いかけるのを女神は目で止めた。
「そうだ、俺は……」
 老人は一歩、一歩ゆっくりと舞台の奥へと足を踏み出した。
 花吹き散らす紅桜の方へと。
 誰もそれを止めない。観客もバンドメンバーもなぜだかその歩みを制止することなく、ただ見守っていた。
「すまなかった」
 老人の独白が静まり返った会場に染み入るように聞こえる。
「戻るべきだった。わかっていたんだ。でも、戻れなかった。駄目だったんだ。俺はドブの匂いが染みついているんだ。働いても働いても何も手に入らなくて……」
 次第に老人の声には涙が混じり始めた。なにかに……いや、誰かに話しかけるように。
「お前を迎えに行かないとって、必死に働いたのに。結局どうにもならなかったんだ……約束、したのに」
 紅桜のふもとにたどり着く。そっと老人の傷だらけの手が桜の木に触れた。心なしか桜吹雪の勢いが増した。
「すまない……すまなかった。戻れば、お前は許してくれると思っていた。でも、戻れなかったんだ。俺は……」
 老人は涙に言葉を詰まらせた。
「俺は怖かったんだ。許されないことが、お前にがっかりされることが……それとも……」
 罪を告白するように、老人は言葉をつづけた。
「お前が待っていないことが」
 すまなかったもう一度そう言うと老人は桜の木に手を回しそっと抱きしめた。

 その時、観客は見た。舞い散る紅色の花びらが女を形作ったのを。
 不思議とよく見えるその顔は、けれども判別のつかない表情をしていた。
 悲しみと怒りと疲れと、それから安堵の入り混じったような表情。

 メキメキと音が響いた。ゆっくりと紅桜の幹が倒れていく。
「倒れるぞー!」
 とっさに衣笠は仮設足場から叫んでいた。間に合わない。泥のように減速した時間の中で、桜は勢いを増し舞台を客席に向けて倒れていく。観客たちが逃げようとする。密集した観客たちは容易には逃げられない。
 その刹那、女神がギターを頭の上に平行に両手で構えているのが見えた。

 轟音が響いた。砂埃が上がる。仮設足場の揺れが収まり衣笠が目を開くと、観客たちが薄い光に包まれているのが見えた。
「ふぅーっ!」
 舞台上で女神が額の汗をぬぐっている。女神がとっさに集めた人力で観客に障壁を張ったのだ。そのかいがあってかどうやら観客にけが人が出ていないようだ。
「お爺さん!」
 お宮が桜に駆け寄った。ぐしゃぐしゃになった仮設舞台の上、巨大な桜の倒木におしつぶれて、ちらりと赤いものが見えた。
 桜の花びらではない。
 とっさに衣笠は仮設足場から駆け下りた。現場監督も降りてくるのが横目に見える。
 桜に近づき、持ち上げようとして、やめた。
 桜の木の下で老人は血を流し、こと切れていた。
「お爺さん……」
 その顔に後悔はなく、安堵と幸福に満たされた表情だった。
 

 いつの間にか紅の花吹雪は止んでいた。
 宙を舞っていた最後の花びらの一片が、ひらりと、老人の流した血だまりの中に音もなく落ちた。


【おしまい】

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