『るろうに剣心』の総合的批評ー実写版映画るろうに剣心最終章(The Final/The Beginning)公開によせてー

2020年3月24日・30日のツイッターのスレッドを転載(修正加筆済み)

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 僕が日本史の大学院に上がった一つ(もしかすると最初)の契機はやはり『るろうに剣心』だった。最初神仏分離を研究しようとしたのも、その影響否めない。大学院上がる際、先生と相談した際、テーマを問われて探してた時、たまたま目に入ったのが『明治維新神仏分離史料』だった。未だも一つの歴史観としてありえるものかと思ったり。兵役延期した一つの理由もるろ剣のためだったが、恨めしいコロナで叶わず…。自分にとって感慨深すぎる作品。そういや人生ではじめて目にした漫画かもしれない。いとこの兄の家で見つけてすごく印象深かった(当時約5歳)

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 幕末維新期をその背景とする作品のなか、るろ剣の右に出るものはないと思っている。少なくとも僕にとっては。なぜか。これから述べていこう。

 暗い幼少期を経て幼い頃から「尊攘派」(長州)側で活躍した、汚し役ながら日に当たることのない、そのまま姿をくらまし、廃刀令のご時世にも剣客でありつづける陰の功労者(剣心)。物心ついた頃には既に世は明治となっている新世代ながら、依然としてもはや必要とされない剣術道場を営んでは、明治の落ちこぼれたちが起こした戦争に参戦し、無名のまま戦死した剣術の師範の一人っ子娘(薫)。彰義隊に参加し戦死した、逆側の人の没落士族の万引き孤児(弥彦)および同じ境遇で、「文明開化」の象徴の肉(鍋)屋で、借金と生計のため働く女の子(燕)ー今更考えれば、おそらく「三条」という名字は新潟の三条市にちなんでいるだろうが、公家の三条家を思い出せば、なんだか皮肉なものがあるー。民衆の生きやすい世を作るため、正式に新政府からも認められ、骨を折ってきたが、新政府にとって都合が悪いと判断されたら、報われないどころか見捨てられてたあげく、賊軍とされ、一網打尽の後、斬首・死刑に処された、自ら悪の字を背負い、政府に対して不満を持っていた赤報隊の最後の生き残り(左之助)、旧幕臣御庭番出身で明治で生きる道がなくなり、誇りも捨てざるを得なくなり、恨みばかりで金の亡者である武器密輸商人に用心棒として屈辱的な待遇で雇われた連中(蒼紫一味)・同じ経緯から料亭に転職を余儀なくされた連中(操一味)、剣心同様かつて尊攘派の汚れ役だったが、その功も認められず、確証も不確かな疑い(「野心」)で、裏切られ死にかけた人斬り(志々雄)以下その一味。

 その一味の面々も、ただでさえ苦難な人生を生きながら、あまつさえ娼妓解放令・マリアルス号事件でことさら生きづらくなった女性(駒形由美)、明治政府下の不平分子(佐渡島方治)、明治政府の神仏分離(廃仏毀釈)のせいで、大切な人々や生き甲斐、生き場を失ってしまった善良な(ハッシュタグつけるの忘れてた、これから最初につけよう)僧侶、幕府側で活動してて志々雄にやられ盲人となった琉球人(宇水)、富農の家で妾のもと庶子として生まれ散々虐待されたあげく、感情を失い腹違いの家族全員を斬殺した子供(瀬田宗次郎)、クロスドレッサーあるいはトランスジェンダー(鎌足)、「普通でない体」を持つ不二コンビなど。

 まさにマイノリティ満載。ここになんの意義があるか。単に現代的視点が入ったのに過ぎないではなく、実は歴史のなかにそういった人々はいっぱいいたはずだし、実際いたし、彼らの人生が明治政府の最初の10年間の歩みそのものを象徴するものであり、そういった大文字の歴史を、直接叙述せず、実際多かれ少なかれいそうなマイノリティの存在たちという個人を通じて歴史を表象している点、そして明治政府はまさにそういうマイノリティを切り捨てながら成り立っていたということを、上からでなく、上からの革命を下から照射している視点が、まさに秀逸であると思う。そして、そういった理不尽に対する批判的な観点もはっきりと表れている(主に剣心の目を通して)。単に作品としてではなく、歴史を描くものとしても、時代を考えれば、いや、今みても、かなり首肯できて、かつ新鮮なものである。ここ30年ほど、近世史研究では多様な身分の存在を浮き彫りにする「身分的周縁論」という一連の流れがお流行りだが、その言葉を借りれば、ある意味「明治時代の身分的周縁論」とも呼べるのではないかと。

 加えて、るろ剣という作品は、絶妙なバランスをとっている。幕府に同情的ではあるが、その構造自体のよさや悪さは判断しない。明治への移行は認めるものの、批判的である。肩を持たない。

 ちなみに、一見、剣心が師匠・比古清十郎のもとを離れ、尊攘派に与し現実に身を投じる前、比古清十郎の戒め、引き留め、そして再開した時の、新時代のため働いたが結局片方の側に傾いたしまったという言葉など、すぐさまは理解できないかもしれないが、実はこれこそ、当時を見るわれわれの然るべき「歴史認識」である。比古清十郎は作中最強のものとされながらも、決して前面に出ることはないのは、そういった「一歩下がった立場」から語らせるためであろう。

 結果論を抜きにして考えれば、決して、倒幕派・明治政府が正しい「正統」なわけではない。もしそうだとするならば、新選組や徳川政権などは、明らかに「朝敵(反乱分子)」をみなすべく、決して今の我々が「消費」してはならぬ、戦前の「皇国史観」のような「倫理道徳」の問題になってしまう。どちらにも大義名分や、理由はあるものだ。るろ剣はーたとえば後述する斎藤のセリフや、腐敗な明治の官吏ー下級官吏のみならず、当時山形有朋など今の我々にもなじみのある政府の高官たちによる不正事件はしょっちゅう起きていたー、剣心の新選組についての述懐、木戸孝允の剣心の使い方、御庭番衆の人物たち、志々雄の言い分など数えれば埒が明かないほどの装置を通して、それをよく相対化して、バランスを絶妙にとっている。

 ともあれ、話を戻す。そういった周縁たちは、ここにとまらない。結婚を目の前にして頑張って奔走するなかで剣心に暗殺される下級武士の部屋住み(清里明良)、同じく下級武士の娘で結婚直前に許嫁を亡くし、その恨みで密偵となるが逆に剣心に惚れてしまい、皮肉なことに殺されてしまう女性(雪代巴)とその弟(縁)。「朝敵」とされた会津戦争で家族をすべて失い、生計のために闇に屈さざるを得なかった藩医の娘(恵)、赤報隊出身で新政府に不満をいだき、テロを計画、のちには告発的新聞を創刊することとなる浮世絵(錦絵?)の画家(月岡津南)、明治の成金豪商と、剣術を学んではやむを得ずドイツに医学を学びに留学を行くその息子(由太郎)、尊攘派で、のち懺悔した刀工と、そんな父が嫌で平和を望んでやまない明治を生きる息子(新井父子)、腐敗した維新志士出身の官僚やその手下の力士やヤクザども、任侠的性格の農民(左之助の父)など。もはや枚挙にいとまがない。しかも、それぞれの職業も背景もすべてバラバラ。これはなかなか巧みに細工された装置と言わざるを得ない。さきも述べたが、こういった存在の登場によって、幕末を知るものと、幕末を知らない文明開化の世代のギャップとその継承・紐帯という示唆的なものを通して、明治の文明開化ひいては明治維新そのものが、一度考え直すべきものとして相対化される。

 最初は、ほとんど僕にも自覚がなかった。しかし、このような意識が強まっていくにつれて、それが僕を今の道(幕末維新史研究)に誘ったことも否めない。少しの過言が許されるのであれば、るろ剣なしで今の僕もいない。

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 もちろん、その細部をよく見れば、間違いだったり疑わしかったりするものがまったくないわけでもない。しかしそれは、創作物という点を鑑みれば十分許し得る範疇に余裕で入る。そして、こういった明治政府への批判的目線からその後日清戦争・日露戦争など明治政府が踏んでいく対外拡張路線を直接的に批判する言及もマンガに出てくるんだが、逆にそれに剣心が参戦するという設定を持つ星霜編は、断じてるろ剣の戸籍から除籍すべし。

 しかも、大局的な歴史観も、なかなか注目に値する箇所も多々ある。例えば、大久保利通の死ぬ前のセリフ(「旧時代を壊すことより新時代を築く方がはるかに難しい」)だとか、斎藤一のいう、我々は敗北者ではあるが、敗北者として一つの明治維新の舞台において役割を担っていたとの、このような歴史観は、あくまで私見に過ぎないのだが、とても立派なものであるかと。つまり、この作品には、まさにマクロ的政治史から、ミクロ的社会史までを貫く、一つの一貫した本質的洞察が潜んでいる。語られざる部分は人物で語られている。語るべきことはすべて語られている。

 るろ剣という作品の魅力、良さというものは、まさにそこにあるのではないかと、考える。もちろん、主人公たちはあくまでマクロの人たちではなくミクロかつ架空(しかし確かにありうる)の人たちである。

 決して、常に下からの、淘汰した民衆からの視点のみが正しいとは当然言えない。でも、そこらへんで良いバランスをとって、ミクロ的視点で歴史を客観化し、理想論とはいえ、マクロを目指すところがある。そこが素晴らしいというのだ。それをもっともよく表しているのが、剣心の「剣一本でもこの瞳に止まる人々くらいならなんとか守れるでござるよ」というセリフだと、個人的に勝手に思っている。

(ここからはしばらくるろ剣映画版3作目などのネタバレが多少含まれています。ご注意ください。飛ばしたい方は、同じくこのような引用の箱で区切っておくので、そこまで行ってください)

 なお、るろ剣の映画版は、僕は何がよかったかといえば、基本的にこのような構図をきちんと継承したうえで(尺的に各人物の背景は余儀なく省略されてはいるものの)、独自のエンディングを作りだしているところ。

 例のエンディングとそれへ至る過程は、どうやら好き嫌いがかなり分かれる模様だけれど、僕は大好きだな。原作京都編のそれよりも。つまり、原作にはない伊藤博文が登場し、殺害された部下の存在を隠したり、剣心らが乗り込んだ敵船に向かってなりふり構わずで砲撃を命じたことなど、原作登場人物たちの「周縁性」が削除されたかわりに、もっとはっきりとした形で、非情な明治政府の「切り捨て」の仕方をよく表しているかと。

 しかも、映画の最後のところで、志々雄を倒して陸に帰ってきた剣心らに向かって、伊藤が「緋村抜刀斎は死んだ!剣心・・・といったか?」「侍たちに敬礼!」というのは、もうたまんねぇ。

 そこには、色んな皮肉めいたことが込められており、すごい余韻を残すのである。まるで、今までの剣心や明治政府の過去を否定し、自分らのやったことをなかったことにする、いいわけをするかのようにも聞こえる一方、剣心の新たな出発を認める、同時に新たな明治への出発を宣言する装置でもある(武士の時代はもう過去に葬り去ったと)。明治政府の複雑な立場をよく表している言葉であり、登場人物たちの反応も秀逸。そしてそれは、またこれから述べることとつなぐこともできる。

(ここから下には、おそらくネタバレはないはずです)

「歴史」の枠から一旦離れて、一つの人間の群像を描くただの創作物として見つめるとき、またるろ剣という作品はどう見えてくるのかの話(後述するが、それがそもそも「歴史」の話とつながっているのだが)。

 るろ剣という作品は、人の過去と時間をめぐる話であるー以降述べていくが、だから「歴史」を背景としているところにも深さを感じるー。登場人物の「過去」を照射して背景をなすことにその意義があるが、その遠近法的集中店は、剣心という一点にしぼられる。それを象徴するのが、「誰にだって語りたくない過去の一つ二つあっておかしくないわ、あなただってそうでしょう?」(薫)というセリフである。

 剣心はその言葉に感化されるのである。まさに剣心は、自らのなかに(人斬りとしての)過去という怪物を秘めている存在だからであった。剣心を道場に引き留まらせたのはその時点だ。「新時代」を求めて進んでいると思いきや、実はもっとも時間的に前に進めていないのは、剣心自身であった。それが半分他意によるものだったとはいえ、内心的贖罪をいくらでもしたって、そこから離れることはできなかった。現代物理学では、場所によって、人によって、時間の流れはそれぞれすべて異なるらしい。そして宇宙単位でみると、「現在」という概念はありえないらしい(『時間は存在しない』)。剣心の時間は止まっている。

 ところが、剣心が見ている明治時代も、建前では「文明開化」を掲げながらも、実はまったく何一つ進んで(改善して)いないわけであった。剣心の旅や活躍は、贖罪も贖罪だが、「止まっている時間」へ自分の姿を重ね合わせ、それに抗おうとする必死の動きである。自分と同じことは絶対繰り返させないという断固たる意志。新井青空の息子を救ったこと。斎藤の挑発への反発や有働陣営とのこと、瀬田宗次郎との最後の決戦、志々雄一派との闘い、操との約束などがまさにその表れである。しかし、その止まった時計をわからない、進めうる存在たちが仲間にできたのだ。自分のなかの怪物というセリフだったり、「人斬り抜刀斎」と「緋村剣心」という、まるで二重人格であるかのような作中人物たちの言い方でそれがはっきりわかる。

 それは、まさに現代でいう、「トラウマ」という概念そのものである。人間はいかに過去に苦しみ、それでもいかに未来に向かっていかなければならないのか。その過去がどのようにおっかけてくるのか。そういったことを描いているわけである。それは、一見天翔龍閃の習得や、志々雄殲滅の時に解決されたかのように見えても(あるいはされたかに思いきや)、実はさらに深い根(巴)があって、作品の最後、縁を倒してやっと克服できることとなる。

 トラウマによる「フラッシュバック」は、もちろんトラウマを持たない人間はないにしても、まさに人における時間の停止や逆行を意味するらしい。過去の特定な時点の情景が、ふとしたとき襲ってきて、目の前にまさに現在のことのように現れる。剣心の過去というのはまさにそういったものであり、それはまた「遅発性」をもつものともいわれる。そして、「トラウマを負っていると自分で気づくことができた人は、他者のトラウマにきわめて寛大になるということです。これは実に難しいこと、らしい、です……」「しかし悪くすると、「自分がこんなに傷つけられたんだから誰かを傷つけてもいい」ということにもなるわけです」。剣心の優しさと、それに相反する志々雄の邪悪性は、まさにこういうことであろう(以上の引用句とトラウマ論は、佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』所収の「疵のなかで疵として見よ、疵を」による)。

 自分の素性を隠しながら、誰ともかかわらず、流浪人の生活の継続を「余儀なく」される。自分の過去は自分しか知らないし(縁の登場の前までは)、誰も入ってくることはできない。しかし、救われたいのである。だから人を救うという熱望があるのである。「好きだよ」という言葉が、裏を返せば、「好きだよと言ってほしい」という言葉に他ならないことと同じく。自分の醜悪な、かつ思い出したくない辛い過去(そういう意味でアニメの「追憶編」は実にアイロニックな題名である)。それを人に見せるわけにはいかない。語れない。

 しかしそれじゃ、本当に自分は出せない。当然人との付き合いもできるわけがない。知らんぷりしてでも、もっともやましいのは自分なのだから。流浪生活はそのためであっただろう。漱石の『こころ』の「先生」のように、自分が信用できないのならば、人が信用できるわけがない。

 そこで現れたのが、誰にだって語りたくない過去はあるという薫であった。文明開化時代の薫に出会って、やっと剣心の時計は動きはじめる。しかしもちろん、剣心はそこでしばらく留まると釘付けている。そんな自分は不確かなものなのだから。揺れまくるものであるから。いつ揺れて、いつまた昔の自分に戻ってしまうかもしれないのだから。実際、剣心はその後も何度も辛さと悔しさを噛みしめながらも、薫のもとを離れることとなる。

 その過去や時間を、歴史と呼ぶこともできよう。人と人がつながらないのは、その人どうしがそれぞれ違う過去ー内面の歴史ーを持つから。公約不能な固有のなにかがあるがため。剣心にとって過去(トラウマ)はそれであり、その過去はまさに明治という歴史と並行(平行)して展開されるのである。ここに「歴史もの」としてのるろ剣の意義がある。その時間の扱い方。疵の癒し方。るろ剣はまさにそれをめぐる物語であって、僕はかなりそういう剣心に、僕自身を重ね合わせてるろ剣というジャンルを愛するのである。

 実写版3作目の最後のセリフは、まさにそれを圧縮して見せる、少し味が薄いかもしれないが、しかし深い、素晴らしい装置である。そして、今回の実写版は当然見れていないし、当分見れないけれど、僭越ながら僕に大胆な憶測が許されるのであれば、最終章が、The final(終わり) - The beginning(はじまり)の順なのは、巴をめぐる過去を終え、再び剣心の時間が動き出した、という意味で、新しい出発として、「はじまり」なのかもしれない。見ていないからなんとも断言はできないんだが。

「未来はここから始まる」。ポスターのこの一言に尽きると思う。

 上述のトラウマ論のあとの内容には、実は磯前順一「どこにもいないあなたへ」(『喪失とノスタルジア』所収)を度々オマージュした部分があるが、ここで最後にその一部を引用し、長ったらしい文を終えることとしよう。

「時間を共にするとはいったいどのようなことなのでしょうか。心を重ね合わせることはどのようなかたちで可能になるものなのでしょうか。二人の結びつきが強ければ強いほど、いずれ訪れ来る別離は受け入れがたいものであり、辛いものとなることでしょう。そして、二度とは共有することのできなくなった時間を、それぞれの思いのなかにどのように位置づけていけばよいのでしょうか。人と人のあいだでの時間の共有と別離、そして時間が過去として閉じていくこと。あるいは時間と共同性をめぐる思い。それは、歴史と宗教をめぐる思考へとわたしたちを誘うものとなります。(…)

だれしもが体験している歴史的感覚ともいえるような日常的で一般的なかかわりの場から、個々人にとっての切実な問題として歴史を捉えてみたいのです。それは、濃密な関係をもつがゆえに訪れる別れのなかで、わたしたちが一人一人になりながらもなぜ生きていくのかという、共同性にいたる問いを、個々人の場から、できるかぎり普遍的に考えることへつながるのではないかと思うのです。(…)

やはり連綿とした時間が続いていると信じています。個人の命は尽きても、途切れることのない歴史という時間の束が、無数の個人の死を包みこむように滔々と流れているのだと、まるで皮膚感覚のごとき自明さをもって。ところが実際には、歴史という連続体の存在を裏づける証拠など、どこにも見つけだすことはできません。「歴史」そのものが言説としてわたしたちの観念のなかで想起されることで、はじめて存在可能になるものにすぎないのですから。そのような言説の皮膜の下では、わたしたちは瞬間的な時間の非連続的な重なり合いのもとで生きているのであり、「わたしたち」という均質な了解もけっして先験的なものではないのです。(…)

あなたから、「内面」というものがいかに個人的な感情の起伏に形どられたものか、他人には理解しがたい孤絶と固有の歴史を刻印されたものであるかを教わりました。それは内面などという言葉では容易に括りきれない複雑なものでした。わたしとあなたのあいだに横たわる超えることのできない壁。そこにはたがいにとって譲ることのできない何かかが潜んでいました。そのような共約不能な個人の体験から生じるものこそが、内面の固有性なのでしょう。(…)

江國香織という小説家は、わたしたちのなかに過去が亡霊のように住みつき、他人との新たな関係を築くことを萎えさせてしまうことを、諦めにも似た感情とともに描き出します。心の風景はその人ひとりしか似ないようのないものです。どれほど信頼しあっていても、相手が経てきた過去を完全に共有することはできません。だれも入り込めない自分の内面にはばまれて、どれほど密接であっても、恋人とのあいだにさえ隔たりが生じてしまう。一見、何気なく過ごしている日常生活のなかで、どれほどわたしたちが過去の思い出に浸されながら生きているか。いかに親しい間柄でも、孤絶した内なる世界は掘り崩すことができません。他人や社会に没入しきれない疎外の感情を喚起することで、今この場所にいる時間と、自分の内側を貫く過去からの時間、そのズレを露にしていくのです。この埋めがたいズレをもたらしているのが、それぞれの人間が抱える、他人とは完全に重ね合わせることのできない時間の蓄積、記憶ということになるのでしょう。(…)

過去はけっして戻りはしない。それもわかっている。それでも心は過去へと引き寄せられてしまう。すでに存在しない過去。文字どおり過ぎ去ってしまったもの。しかし、それでもわたしたちは過去へと漂いだし、現在から遊離してしまう。過去はわたしたちを待ち伏せ、突如襲ってくる。いまもわたしがあなたに思いを馳せてしまうように。自分のうちを流れる時間さえ扱いかねているわたしに、大文字の歴史などを語る資格が、あるいは批判をする権利があるはずがありません。(…)

この問題は、孤独とは何か、過去とは何かということを、わたしたちにあらためて問いかけるものとなります。過去にとらわれた感覚、過去に閉じ込められた感覚。わたしたちが生きる現実の共同性とは、このような相容れることのない過去を抱えた人間の共存する場なのでしょう。(…)

あなたがしばしば口にしていた「どこにも所属しきれない自分の居心地の悪さ」もまた、自己嫌悪感として片付けられるのではなく、きっと人と人を結びつける絆として受けとめられるべきものなのです。しかし、いくら孤独が苦しくとも、その相手が誰でもよいということにはなりません。わたしは「かけがえのないあなた」に対してのみ、自分を打ち明けたいのです。(…)

心に震えがくるような懐かしさ。宗教学者のミルチャ・エリアーデは、それを「ノスタルジア」と呼びます。そのような特別の存在に対してのみ、わたしたちは自分が体験してきた過去を、自分のすべてを曝け出してしまいたい気持に駆られるのです。自分を相手に理解してほしい。相手をくまなく理解したいという思いに満ち溢れるのです。現実の人間との関係においては、それはけっして叶わないものだと理屈ではわかっていても。(…)

たしかに、わたしたちは思っているほど明晰な存在ではなく、認めたくはない醜さや汚さも裡に抱えた存在なのです。しかし、他人に感じる心の震えとは、まさにこのような齟齬に戸惑う人間のあいだで共鳴しあい、引きおこされる感情なのです。だとすれば、夏目漱石が『こころ』のなかで述べた、「私は死ぬまえにたった一人でいいから、人を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか」という台詞も、他人に甘えることで孤独から逃れようとしたのではなく、人間がまぎれもなく独りであるという事実を認め合ったうえで、たがいを引き受けてくれる相手を求めての、ぎりぎりの言葉として受けとめられるべきではないでしょうか。以前、しばしば孤独死が取り沙汰されましたが、自分の死を見届ける人がそばにいることと、それを見届ける人がいない無残さは、やはり決定的に違うはずです。(…)

このような罪悪感や憎しみは、他人に分かちもってもらうにはあまりに荷が重いものです。話を打ち明けられた人は、自分が介入できるような立場にないことを覚って、望むと望まざるとに関係なく、立ち去っていくことでしょう。結局、人間はひとりでその感情に耐えて生きていかなければならないことはわかっています。しかし、それでもやはり、みずから命を絶たないかぎり、この憎悪や罪の感情を抱えたまま生きつづけていかなければならない事実にわたしは慄然としたのです。(…)

本質的には癒されることのない絶望に貫かれた人間関係、それがわたしたちの現実を支える確かさなのだという強い覚悟をそこには感じます。その歌声が、悲鳴のように聞こえながらも、屈服することのない力強い声として響くのは、そこに現実を生き抜いていこうとする強い意志、絶望感こそが現実を生きる糧なのだという信念があるからでしょう。結局のところ、生きることの戸惑いをもちつづけることが、人と人を結びつける唯一の絆になりうるものだと、わたしもまた考えています。このような共約不能性と表現行為の関係について、ヴァルター・ベンヤミンはつぎのように述べています。

「小説家は、自分を周囲から孤立させてきた。この孤独のうちにある個人こそ、小説の生まれる産屋なのである。もはや彼は自分の最大の関心事についてさえも、他人の範例となるような自己表現をすることができず、誰かから助言をもらうこともなければ、いかなる助言を与えることもできない。小説を書くとは、人間の生を表象することによって、共約不可能なものを極限にまで押し進めることにほかならない。満ち足りた生活のただなかで、その十全さを表象することで、小説は生きることの拭い去りがたい戸惑いを顕にするのだ。」(「物語作者」)(…)」

だいぶ長い引用でしたが、まあ、ここに尽きているのではないかと思いますね。これ以上言葉を加えても、ダサくなるだけでしょう。以上です。


付記。剣心がそっと薫のもとから離れたことは、当たり前のことだが、自分からは望んだことではなかろう。が、そうせざるを得なかった。引き留めてほしいという気持ちもあったろう。しかし、それよりも、恐ろしかったであろう。危険が及ぶよりも、これからまた人斬りとしての自分を語り、その姿を見せなければいけない(実際、思いの他いおりを助ける場面で見せてしまった)。そんな自分自身が恐ろしかったのだ。神様でもないんだから、何も知らない薫と友達が、それをみて、驚く。それを恐れて、人斬りとののしられるかもしれない。決して戻ってこない別離を告げられるかもしれない。その断絶が、当事者の剣心にとっては、いかにも高い壁に見えただろうか。だから、やすやすと自らはついてきて、とはいえないのである。残された人の気持ちもさることながら、残して去る人の気持ちも、実はbrutalなものである(さらにいえば、恵はそういう剣心とほぼ同じ境遇の人だから、主人公にはなれない。剣心とは深くつながれないのである)。罪悪感。昔の暗い過去。それはなかなか人に簡単に見せられるものではない。それが恐ろしかっただろう。しかし、それでも、人を救うのは、それから目をそらさずに、凝らしもせずに、だからなんだと。その手を、こちらからまた握ってくれる存在であろう。人は、人で病む。しかしまた人で治る。共に時間を重ね合わせてきた、心を重ね合わせてきた人によって。自分の信ずるものによって。なので、そもそも剣心と薫の最初の出会いから、剣心の救援は予定されていたのである。

「解離症者は一般に、さまざまなものを拒絶しながら生きている。(…)自分自身の起源に触れることを拒絶している(…)その場合は基本的な対人関係を拒絶していると見なしてよいだろう。自分がここにいるという実感が持てないのは、周囲世界との生き生きとした関わりを拒絶していると考えることもできる。すなわち、解離症者は、自分の来歴や家族を拒絶しながら、同時にそれらを希求するという二重性をもっているのである。(…)解離症者が拒絶している対象は、自分の来歴や身近な他者や本来は親しんでいるはずの周囲世界である。それらは、自分の存在を無条件に保証してくれる場所や人や状況ということになる。そのような対象としては、他者との情緒的交流、家庭、親、祖先、故郷、生物学的種というものを挙げることができる。これらは、自分にとってほかのものには交換不可能な対象であり、理想的には、この対象に触れた時に代えがたい安心感が得られ、根拠なく「自分がここにいてもいい」という実感が得られるようなものである。すなわち、自分の存在を根拠づけている対象なのである。(…)これらの概念に共通する、自分にとっては絶対的でほかに代えがたいファクターを、「ハイマート」と名づけよう。ハイマートとは、経験主体としての自分の存在を根拠づけているような、経験に内在するファクターということになる。通常の経験においてハイマートが意識されることはないが、あらゆる経験はハイマートというファクターを含んでいるがゆえに、その経験に対して、「たしかに自分の経験である」という親しみと自然さを感じることができ、それと同時に、その経験の主体である自分自身がここに存在していることも、自明のこととして保証されるのである。(…)ハイマートとは、経験の自然さを保証するファクターであると同時に、主体の存在を根拠づけるファクターでもある。通常は、経験の背後に隠れて機能しており、意識されることはない。心的外傷体験を持ち、自己の存在意義を見出せず、周囲世界への信頼も失われた解離症者では、このテーマが顕在化するのだろう。見方を変えれば、ハイマートは主体自身と世界に対する基本的信頼を基礎づけている。人生の危機的状況において、ハイマートのテーマが顕在化するとき、「信じる」という行為もまた前景化する。このことと宗教的営みとは、大きく関係しているにちがいない。(…)統合失調症や解離症で宗教体験と類似の症状を呈するということは、自己存在の危機的状況と宗教性が関連していることを示していると考えることができる。しかしながら、自己存在の危機的状況というのは、けっして特別な精神疾患の状況に限ったことではないはずである。日常生活のさまざまな場面において、私たちは危機に直面している。自己と世界への基本的信頼を基礎づけているハイマートは、基本的信頼が揺らいだとき、すなわちハイマートが欠如し、自己と世界への不信が生じたときに、はじめて認識される。よく考えてみると、私たちはつねに自己と世界とを十全に信頼して生きているということはない。私たちは生きている限り、さまざまな外傷的出来事に出会い、自己や世界への信頼のゆらぎを経験する。人は自我をもち内省する能力を得たことで、ハイマートの欠如、すなわち不信を自覚するようになったのだろう。人は人であるがゆえに、不信の自覚は必然であり、私たちはそのつどそれを乗り越えつつ生きている。瞬間瞬間不信を乗り越えるべく、私たちには「信じる」ための宗教が必要なのかもしれない。」(野間俊一「信じるということ~精神疾患にみる宗教性」『立命館大学人文科学研究所紀要』120、2019年)

付記2。個人的な追憶譚ではあるが。細やかなネタなので簡単に述べておく。飛天御剣流という剣術自体も我々に示唆することができる。とりわけ、研究という職業(生き方?)に従事しているものであれば、わりと少しは共感していただけると思う。つまり、本来、飛天御剣流の真の継承者は一人しかありえない。なぜならば、最後の奥義である天翔龍閃を拾得する時に、それを食らった師匠側は、必ず死ぬからである。研究とは、そういう意味で、「殺して、その屍を踏み越えてゆく」ことかもしれない。もちろん、単に一方的にかかって殺すのではない。その人に対する尊重。その人が死んだという悲しみと罪悪感。前代の人の犠牲のありがたさと重さ、師匠からの愛。そしてそれを通して、自分が新しく開けた道、得られた技。先行研究を尊重しながら、そこから学びながらー、新しいものを発見し、「克服」していくのである。

「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」(『臨済録』)

卒業式のときに、これを踏まえて後輩たちに、「俺を殺しにかかってこい」といったことがある。喜んで、殺されてさしあげる。俺も先輩や、師匠や、先行研究の研究者の方々などの先人・先達をそう踏み越えてきたのであろう。だから、殺される覚悟をちゃんと据えなければならないし、そもそもそれは嬉しいことである。俺より年長者で、めちゃくちゃ業績を積んでる人は、そこまで怖くない。だって、あの人が俺より長くやったから、当たり前。問題は、自分があのくらいになると、同じほどか、それ以上を成し遂げればいいだけのもの。しかし、後輩の方が俺よりうまくやってたら、それは恐るべしと。「下問を恥じず」(『論語』)。その場合、後輩たちにも当然学ばなければならない。だから殺されることは、いいことである。望むところである。殺し、殺され、殺し合う。しかし、尊重をしたうえで。それこそ、次から次へと、時代が進み、学問が進み、人間が発展する。つながる。そういった、何か、信仰のようなことではなかろうかと、僕は思っている。

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