アーティストとして認められる社会環境について

いよいよ3番目の自立の条件についてお話します。
1番目と2番目を可能にさせる社会環境についてです。

江戸も中期を過ぎると町人たちの経済活動が盛んになり、
100万人の人口を抱える世界でも屈指の大都市になりました。
信長や秀吉による経済的インフラの改革が、
徳川の時代に実を結び鎖国によって熟成した文化が育ちます。
この文化はそれまでに無かった町人たちによる文化です。

武士階級に支えられた
メインカルチャーの狩野派や琳派はかつての勢いを失い、
町人たちが求めるサブカルチャーが主となったのです。

豊かになった社会には豊かにした人たちの文化の華が咲く、
これは世界共通の事象ですね。

サブカルチャーを担う浮世絵師はたちは木版の出版物をメディアにして、
多様な表現しかも幕府を揶揄するものまで制作しました。
北斎もオランダの紙を使って描いた風俗画を、
禁制でありながらカピタンに渡しています。

カピタン(商館長)とは、江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者のことです。

ちなみに、長崎出島の医官だったシーボルトも、浮世絵の他に工芸品など日本の美術品を多く持ち帰りました。

ところが天保年間に全国的な凶作が起こり、
幕府は贅沢や奢侈をことごとく禁じ、
歌舞伎や相撲なども制限するようになりました。
当然浮世絵にも規制がおよび、
過剰な表現をした絵師が奉行所に連行されることもありました。

北斎も刊行予定だった多くのものが延期になり、
表現に関しても内心穏やかでなかったと思います。
それでかもしれませんが逃れるように、
嘗て知り合った豪商「高井鴻山」の住む北信濃の小布施を訪ねました。

小布施は今の長野県、千曲川東岸に広がる豊かな場所です。

日本海側と江戸と京都を結ぶ物流の拠点であり、
教養ある豪商がひしめく小都市で、
安土桃山時代の堺のような幕府の目が届きにくいところでした。

晩年の北斎は高井鴻山らにささえられ、
多くの肉筆画(一点物)を残しています。

江戸から小布施へと自立した表現を可能にする社会環境を選び
90年の生涯を制作の意欲を失わず過ごしました。

これら3つの自立が実現できてこそ、
北斎は日本初の近代的なアーティストになったのです。

しかしアーティストとして認められるには、作品を評価した人たちの存在を忘れてはなりません。

次回は彼等に目を向けます。

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