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ドラマ『前科者 -新米保護司・阿川佳代-』の感想

『前科者 -新米保護司・阿川佳代-』をアマゾンプライムで最終話まで観ました。私の感想を端的に言うなら、「支えたい相手との距離感に葛藤する物語」。

特に印象的だった点は二つあります。どちらも最終話、物語の終盤。ホテルで佳代、みどり、多実子の三人が対峙するシーンです。

一つは、保護司の立場を取る佳代に、多実子が感情を露わにするところです。強い怒りの感じられる言葉を多実子が佳代に向けます。その合間で、「私のことだって、助けられなかったじゃないですか」と、怒りとは異なる表情が現れる部分で私は自然と感情移入されました。

あの感情は・・・? 疑問に感じて、思い当たったのは心理学の「愛着」でした。

「愛着」は、「個体がある危機的状況に接した時、または、そうした危機を予知して恐れや不安の情動が強く喚起された時、特定の他の個体への接近を通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする傾性」などと定義されます(Bowlby、1969/1982)。一回聞いただけではちょっとなに言ってるか分かりません。なので誤解を恐れず簡単に言うなら、「困った時に特定の人に頼ろうとすること」です。
(厳密には、その人の「愛着スタイル」によって頼る相手が特定ではなかったり、そもそも頼ろうとしなかったりもしますが、長くなるので割愛します)

そのように、人が困った時に頼ろうとする相手は「愛着対象」と呼ばれます。多実子が佳代に強い怒りを伴う感情を向けたのは、多実子にとって佳代が深い信頼を寄せる「愛着対象」だったからではないか?、と私は考えました。

佳代は多実子の「愛着対象」として深い信頼関係を結んでいたのか? この点から二人の関係を見てみます。

Aさんの中でBさんが「愛着対象」として機能しているほど、AさんはBさんに対し「愛着対象」として深い信頼を寄せていると考えられています(ただし別の説もあるみたいです)。「愛着対象」の機能は四つあり、「近接性の維持」、「安全な隠れ家」、「分離不安」、「安全基地」と呼ばれます(Hazan & Zeifman、1994)。ちょっと難しいので具体例で見てみましょう。

たとえば、初回面接の時、佳代は多実子に「薬物依存と一人で戦わないでくださいね。辛い時はいつでもすぐ連絡してください」と伝えていますね。それから後、多実子は薬物依存に陥った過去を佳代に話し、佳代の言葉に応じる形で「辛かった」と心情を打ち明ける。これは「安全な隠れ家」として、動揺した時や落ち込んだ時、話を聞いてもらったり頼ったりする機能を佳代が果たしていると言えそうです。

次に、多実子が興味を示した保育士について、佳代が調べて資料を準備する点。この行動は、新しいことに挑戦する時に励ましてくれたり、必要な時に助けてくれる「安全基地」を担っていると解釈できるかもしれません。

それから、レストランで佳代とみどりが談笑しているところを偶然見つけた多実子は、「私の佳代さん取るなよ」とひとりで苛立ちます。彼女のこの感情は、その人と離れたくない、離れている時に寂しいと思う「分離不安」から派生した怒りと言えるでしょうか。

最後に、多実子に接触して来た売人の男を佳代が追い返した後、感謝した多実子は御礼を持って佳代の家に行く。この行動は、その人と近くにいたい、一緒に過ごしたいと思う「近接性の維持」と受け取れるかもしれません。「愛着」の視点から離れても、佳代の行動は他にも、多実子との信頼を結ぶのに寄与したと思われるものが多く見受けられます。

しかし、多実子が佳代に深い信頼を寄せていたにもかかわらず、薬物所持が発覚した時、佳代は多実子に対して保護司の立場から話をする。執行猶予の取消。覚せい剤取締法違反の新たな罪状の示唆。「先生、それってどういう目線で言ってるんですか?」と訊く多実子に、佳代は「保護司としての目線です」と応じる。

佳代の言動は、保護司としては当然のものです。だが、多実子にとってはそうでない。彼女は、保護観察対象者の自分に付けられたただの保護司として佳代をもう見ていなかったのでしょう。

怒りは他の感情の二次的な感情と言われます。多実子が佳代に向けて露わにした激情は、元となっている感情の深さを物語っているのかもしれません。信頼した相手との間にあった強い絆が引き裂かれる痛切。それが、保護観察対象者と保護司の域に留まらない、より普遍的な心理──たとえば仏教の八苦に挙げられる愛別離苦のように──であったから、自分はそこに感情移入できたのかもしれません。

印象的だったもう一つは、その後のシーンの佳代の表情や声です。多実子をカモにしていた売人の男を警察にしょっぴかせたみどりが、多実子を逃がそうとする。そこからの佳代の表情や声のトーンの繊細な移り変わりから伺える、彼女の心の動きが私は魅力的に感じられました。

みどりが「あんた逃げなよ」と多実子に言う。その時の佳代の表情は、端的に言えば驚きかもしれませんが、一言では済ませられない心情を感じさせます。保護司の佳代には、みどりの提案は思いがけないものだったでしょう。しばしば保護司の職務範囲を超えて前科者に寄り添い過ぎる佳代でも、そこまでの発想はなかったのかもしれません。

あるいは提案に対してだけでなく、それをみどりがしたことへの驚き。保護観察対象者であったみどりが再び法を犯すことが、もちろん佳代には受け入れられない。保護司である自分の立場と相反する提案を親しくしていたみどりがしたことも、佳代には予想できない行為だったのではないでしょうか。

それから、みどりは準備した逃走用の車へ多実子を誘う。「待って、そんなのダメ」。止めようとする佳代。発言自体はやはり保護司として当然だと思います。しかし、声のトーンは更生に携わる者のそれではない。他の場面でときおり見受けられる無機質さや、あるいはみどりの行動をジャッジするような厳格さはそこに感じられません。

みどりは「あたしの育ち知ってんだろ? もうヤなんだよこういう人見てんの」と佳代に言い返し、「それにこの人被害者だろ? 助けたいんだろこの子のこと」と続けます。それを聞いて佳代は黙り、目を伏せ俯いてしまう。同時に、多実子はみどりの言葉を無言で聞く。

三人の心情が交錯する、最高の場面に私は感じました。表面に現れたみどりの言葉を介して、無言の佳代や多実子、三人の心が動き、それを代弁するような音楽が胸に響きます。

そして、みどりが「このまま行きな、荷物あとで送るから」と多実子を促す。そこで佳代は顔を上げ、「やめて、覚醒剤の所持者を逃がすのは、犯罪の幇助です」と心を決める。

みどりや多実子との会話の中で、佳代の発言自体は保護司の立場で一貫したものです。しかし、そこに現れる表情や言葉のトーンは、大きくも繊細に揺らぎ移ろっていく。近似する旋律が繰り返されながら和音の遷移に趣を変えて鳴るように、佳代という人物に陰影を加え葛藤のハーモニーを奏でる。

なぜ人は他者との距離感に葛藤するのか? それは、相手が自分にとって重要だからではないでしょうか。

重要じゃない相手に対してなら、人はそれほど距離感に思い悩むことはないと思います。仮に人が誰に対しても相手との距離感に葛藤するなら、ネット上などでこれほど誹謗や中傷が起きることもないのではないでしょうか。著名人の不倫や不祥事は断罪され、政治では対立する者同士が互いを罵り合う。自らの正義の元に他者に悪のレッテルを張り、相手を裁く。もし自分が困った時、その人が自分を助け、支えてくれるような相手だったら、そんなことはないかもしれない。

「ホントだ、あんた(多実子)の言った通りだ、住んでる世界が違うねうちらとあんた(佳代)」。必要ならば、みどりを警察に通報することも辞さない佳代にみどりは言います。しかし、多実子が二人の間に入り、自分を「警察に連れて行ってください」と佳代に頼む。一度は断った佳代だが、「最後のお願い」と言われ、多実子の願いを聞き入れる。その結果、保護観察官から保護司としての信頼を佳代は損なってしまいますが、彼女は自分を頼ってくれた多実子に応えました。

そしてラストシーン。そこで保護司と保護観察対象者の境を超えて佳代とみどりが示したように、立場の違いや距離感に葛藤しながらもそれぞれが互いに歩み寄る。人生の苦難や挫折に陥った時、そこからやり直すための支えとなり、同じ希望を見てくれる人がどんな人にも必ずいる。そんな温かい世界に、少しでも近づいていけるといいですね。

それではよいお年を♡


引用文献
 Bowlby, J. (1969/1982). Attachment and Loss, Vol.1. Attachment, Second Edition. London: Pimlico.
 Hazan, C., & Zeifman, D. (1994). Sex and the psychological tether. In K. Bartholomew & D. Perlman (Ed.), Advances in personal relationships, Vol.5. Attachment processes in adulthood (pp.151-178). London: Kingsley.

(原著は確認できてません思いっきり孫引きですごめんなさいっ!)

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