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生きるリズムは働くリズム「非正規雇用こそ高収入に設定しなければいけないワケ」

今まで自分の認識が追いついていなかったのか、それともマスコミに「そう見せられていた」せいなのか。今回のパラリンピックを観ていて、「ひえー障害者スポーツって、健常者よりもずっとクールでシステマティックな世界なんだなあ」と目からウロコだった。

というかスポーツに限らず、とかく健常者の世界って「気合」とか「努力」とか「根性」で、すべてのことがなんとかなる・・・と思われている。
けれど気合いで目は見えるようにはならないし、失った四肢を生えさせることはできない。

パラスポーツは、できないところからの出発。だからこそクラス分けをしたり、個人の力が平等になるようにあらゆる改良、工夫を重ねる。それって、むしろ健常人の世界よりもずっと理性的で合理的に出来ていて、その方法論をもっと学ぶべきなんじゃないだろうか。

というのは、私には、ずっと努力してきたのに、それこそウン十年も格闘してきたのに、永遠に身につきそうにないことがあるからだ。でこれ、たぶん、きっと、おそらく、永遠に馴染まないかもしれない。最近、そんなふうに、わり切り始めたことがあるので、それについて考えてみた。

私が不可能なこと――
それは「長く勤めること」です、ハイ。
同じ職場、というか、同じ時間に出退勤し続けていると、なぜかタマシイ削れるんです。


・・・

両親にさんざん言われたんですよ、
「毎日同じ生活するなんて、考えなくていいんだから一番楽でしょうが?」って。

同じ時間に起き、ルーティンをこなし、同じ時間に帰ること・・・
これが一番「ラク」なのか・・・へえ。
すいません、むしろだんだんキツくなっていっているんですけど。
自分でもわからない。どこが「キツイ」のか。

生活習慣に努力が足りないのだと思ったし、同じようにやり続けていればいつか馴染んで楽になる、と期待した。実際そのとおりに「頑張って」やってた。(頑張ってるってこと自体、もうすでに違う気もするが)

なので私は5年以上、同じ職場にいたことがない。
その5年も、半年ごとに10日ほどの休暇(契約上、強制的に取らされる)が挟まれている。
業務としては、たしかに長くいればいるほどわかるようになる。やりやすくもなる。それはそう。
けれど、その「同じリズム」にだんだんと脅迫的な怖さ、逃げられなさを感じてくる。
だから時折、突発的に家に帰りたくなってしまう。で、テキトーな理由をつけて午後休を取る。そんなイレギュラーをしでかす日の帰り道には、決まって空を見上げてしまう。
解放感!

「ただ毎日同じことをすればいいんだってば!」

何度いわれても、できない。
同じが無理。ずっとが無理。
できても数年、我慢に限界がくる。
ごめん、あとは勘弁して。
一度休ませてほしい、ひとりでたっぷり寝たいのだ。

最近、縁があって、短期の仕事を重ねた。
国勢調査、大学入試、イベント・・・短くて数日、長くて1か月半の短期雇用。いやもう、忙しくて目がまわりそうだったけど、楽しかった。で、お仕事終了の日はいつも、疾走感と、充実感と解放感でいっぱいになった。

んで、気づいた。
その両親イチオシのオススメポイントが、つまりただ毎日一定のリズムとやらに「保つ」ことこそが、至難の業の人なのはもうどうにもならんし、そういうタイプがいる、ということに。

体調とか、気分とか、そんな「今日一日働くための基礎的モチベーション」を、毎日一定の平均値にチューニングするエネルギーが、私にはエグいくらいキツかったのだ。
そしてそれは終わりが見えない。
ここまでくると、もう仕事よりも「一定を保つ戦い」になってくる。なんて本末転倒なんだ。そしてこれ、いつまで続ければいいのだろう?
決まってる。退職までだ。
考えただけで目眩がしそうだ。
ダメだ、やれる気がしねえ・・・

でも短期なら、楽しくできるのだ。
だって「終わりが見える」から、その間はむしろ200パーセントやる。
それはもう「保つ」というよりも「疾走する」。
保つくらいなら駆け抜けさせてくれってわけだ。
そして走り終えたら、次の仕事まで規則正しく生活することから解放される「バカンス」がやってくる。だからそれまでは、すべてを棚上げにしたっていい。やりたいことは、雇用期間が終わってから、晴れ晴れと済ますから。

というか、一番のやりたいことは「一定期間、ひとりになる」ということかもしれない。休息をしながら、今度は次の仕事に向け体力・気力を温存する。そんなスタイルが、実は私の理想だ。

人間のクロノタイプ(体内時計)に「朝型」と「夜型」があるように(この朝型、夜型というのはもう決まっていて、無理に変えてもいいことないという研究もある)、労働のリズムにも型(タイプ)がある。いい悪いは別にして、やっぱり絶対、労働にもあるんじゃないかなと思うのだ(大事なことだからしつこく繰り返しました)。

毎日を積み重ねる「マラソンタイプ」、
短期でガッと稼ぎたい「短距離走タイプ」。
で、これはもう労働スタイルとか、ワークライフバランスとか、そういう以前のものであって、体内時計的な、本能的な「サイクル」、「リズム」なのじゃないかとふんでいる。

この短距離走的な職業、世の中にまったくないわけじゃなく、一定数ある。
要はマラソンタイプを農耕型、短距離走タイプを狩猟型とか、別の名前で呼んだりするとわかりやすいかもしれない(なら最初からそう呼べ)。
たとえば遊牧民や漁師は短距離走タイプだ。
あとは芸能関係やイベント関係とか。定住せず、ハレとケの境界がはっきりしている。

で、問題なのは、これまで「サラリーマン」という種類の人間というのは、全員が「マラソンタイプ」!これ一択だったことだ。
ほかに「変わった奴」がいてはダメなのだ。
もしそんな人がいたら、「どうせ好きでやってるフリーター」
そんなふうに、吐き捨てられたような呼び方をされてきたはずだ。

たしかに、日本の終身雇用が一般的だったころは(今もその考え方の名残はあるが)、数十年の積み重ねを耐え抜く持久力が、必要とされた。たとえ100メートルを10本、インターバルをはさんで全力で走れる人がいようとも、サラリーマン界隈では評価されない。何十年もかかるマラソンを、一定のペースで走れる人が重宝されてきたのだ。それができない人は「社会人として未熟」「我慢のできない人」「ハンパもの」というレッテルが、「はいザンネーン!」と言わんばかりに、バーンと貼られる。

でもそこ、なんか違うなあと思って。
サラリーマンにも狩猟型はいる。
で、ちゃんとそこ生かして狩猟させてもらいたいたいと。
だってこれ、けっこうな「スキル」なんじゃないかって思うからだ。
現場で、一時的にそれが功を奏するなら、これも圧倒的な「適応スキル」なんじゃないか。
誰でもすんなりできるわけじゃない。(したくもないかもしれないけど)


短期雇用というのは、つまり繁忙期だからだ。
ということは「だんだんと同僚や職場に慣れて~」とか言っていられない場合であるということ、最初からトップギアでいけ、ってことだ。
せいぜい半日で現場の雰囲気に慣れて、今日知りあったばかりの人といいかんじに距離を縮め、言われたことを要領をつかんでとりかかる。なんなら、会社の全体的な雰囲気や、正社員やクライアント同士の人間関係をかぎ分けるが、しれっと気づいていないふりもできる。そして、なるべく巻き込まれない。そんな単独行動の人たち。

おそらく、こういう人は擬態がうまい。
けど、それが長く続かない人なんだと思う(笑)一定期間はネコかぶってやるけど、短期間だけ。
でもちゃんと、擬態も自分だし、擬態を外した自分も、自分なのだ。

そしてそういう人は、働いたのと同じ時間だけ、ひとりになりたい。むしろ、より良くひとりになるために、擬態を頑張るのだ。

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ずっと昔、人間は狩猟や採集をして、その日暮らしをしていた。やがて農耕が広がり、人々は定住し、長いスパンでじっくりと毎日を積み重ねるようになった。そして人々は、狩猟から農耕へと、労働を進化させて・・・

まだ、います!!

勝手に「絶滅」させないでくれ。
減りはしたが、生きてるって。
けっこうな数、生存してるって。
その方がモチベーション高く仕事する人間が。
だからこれはこれで、うまく生き残らせてくれないかな。
瞬発力はありますから(でも短いです)。

そういえば、ネコは1日のうち半分は寝ているという。雨が降ればなおさらだ。
でもそれって、ネコがもともと「狩猟動物」で、狩りをしない時や天候が悪い日など、休めるときにはきちんと休んでおく、という習性があるからだそう。
しからば、こういう「短距離走型」の人も、そうなのではないだろうか。

ネコ型ワーカー。

こういう、特に「理由」などなくても、体内リズムとして「同じ職場に長くいたくない」と考える人って、意外に多いと思う。こういうサブ、というか、サラリーマンの「亜種」扱いみたいな「臨時職員」または「派遣さん」の中には、短距離を理想とする民がいる。
いや、家事や子育てに支障がなければ長く働きたいと思っている人もいる。でも状況がそれどころでないとか、転勤族だからしかたなく短期で働いている、って人もいるけれど。「ネコ」な人も、けっこういる。おおっぴらに言うと「社会不適合者」と呼ばれそうだからあえて言わないけれども。

でも、そういう力をただの「亜種」扱いするのって、もったいないんじゃないかと思うのだ。

私のまわりにも、たとえ言葉は交わさなくても、お互い窮屈そうに日々をこなしているなと、ねぎらいつつ、廊下ですれ違うとただ会釈をするだけだった、ひそかな「同士」達がたくさんいた。そして、なんというか、「非正規」の問題って、こういうどうにもならない「リズム」を認知することに、問題を解くカギがあったりしないだろうか。

言いたいのは、もうちょっと長距離走の人と短距離走の人とで、うまく組み合わさって、社会がまわっていけばいいのになと思うんだが、ということ。
どっちが優れているとか、劣ってる、怠けてるとかではなく、どちらのリズムでも「ちゃんと食っていける」ようにならんかなと、思うのである。

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