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人工知能に仕事を奪われるかも知れないという恐怖という仕事

AI、そして高度化されたロボットによって多くの職業が代替されてしまい、多くの人が失業してしまうという将来の不安がよく取り沙汰されます。実際にそうなるのか、あるいはそのような事態にはならないのか私には分かりません。これまでの人類の歴史の中で新たなテクノロジーが文化を変え、仕事を奪い、新たな仕事を作ってきたことは幾度もありました。産業革命期のラッダイト運動のような反対も幾度もありました。

本当に仕事がなくなるとしたらおそらく止めようがないでしょう。どこかの国や組織が止めようとしても、別の国や組織がテクノロジーを発展させ続けて、いつかはその地点に到達します。そしてそのメリットによって商品やサービスの質や量、あるいは価格で有利な立場に立ち、テクノロジーを拒んだ国や組織はそれに追随するか敗れるしかありません。その結果、テクノロジーは全体に広がります。

AIがこれまでの歴史と異なるのは、奪われる仕事が単純労働、肉体労働といったものではなく、いわゆる知的産業や高度な技術が必要な職業かも知れないことです。特に、機械では代替できないと思われている仕事がターゲットになるはずです。なぜなら、そういった仕事は専門性が高く、高給であるはずで、雇っている側にすれば機械に代替させることで人件費を大きく削減できるからです。となると、頭脳労働や、取得難易度が高い資格が必要な職業がAI&ロボットに奪われます。

それこそ、「AIがこれらの仕事を奪う!」と煽っているような人の仕事が真っ先に奪われるのではないでしょうか。もちろん、そういった仕事がそもそも未来まで残っていない可能性もありますが。

人間は学び反省し次に生かすという頭脳で他の動物との決定的な差異を作り出して進化してきました。しかし、AIによってその地位を奪われるかも知れない、というのが脅威と見なされています。人工知能は失敗から学びさらに高度に正確な判断を行う、という作業を休みなく、寿命もなく続けることが出来ます。この点で人間がかなうわけがありません。

しかし、その一方で人類が発展してきたのは、まさにこの想像した恐怖によるものでもあります。

「明日食べるものが採れなかったらどうしよう」という恐怖が、農業あるいは狩猟などで得た食べ物を乾燥させたりして保存し、余剰食糧を生み出しました。その余剰分が冨となり社会が発展しました。その過程の中で、火や暦や移動のための車輪などが生まれました。

AIに仕事を奪われるかも知れない、という恐怖がまた新たに人類を発展させるのかも知れません。ソクラテスや孔子以来、二千数百年にわたって、生産活動をせずに「人間とは何か」を考え続けるのは哲学者だけの仕事でした。

AIやロボットが仕事を代替し、その一方でベーシックインカムや社会保障で生き続けることが出来るのなら、人類全てが哲学者のように考える時代になるでしょう。もちろん、その考えるという作業もAIの方がはるかに質・量・速度も上回るでしょう。

しかし、人工知能に恐怖心を持たせることは出来るのでしょうか?

「こうなるかも知れない」
「そうなったら大変だ」
「ああならないようにしよう」

といった恐怖心を原動力にしたブレイクスルーをAIが生み出せないとしたら、人類の役割はここにあるのかも知れません。AIに仕事を奪われた人が、AIに恐怖を教え込むというのは皮肉としかいいようがありませんが。

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