入管法改正に思う、政治とは何か

立憲民主党が先日の入管法改正法案の可決を巡って、活動家云々と色々物議を醸しそうなことも言っていたようです。

記事が産経新聞のものであることを差し引いて考えないといけませんが、結局何のために修正案を出してきたのか分からない、ということは、政府与党側だけではなくて、修正案を出した当の立憲民主党側の実務担当者にとっても無力感を覚える出来事だったであろうことは想像に難くありません。

理想と現実は常に対立するものですし、理想を捨てた組織に未来はありませんが、だからといって現実を無視して理想だけを追求しても何も実益はもたらされません。

それが分かっているからこそ、修正案を出す側の人は100%にはほど遠いものだと分かっていても、少しでも悲惨な入管の現状から一歩でもマシになることを思っていたのでしょうけれど、結局は修正が反映されない改正案となってしまいました。

活動家上がりの政治家や活動家そのものが、この世の諸悪の根源だと言うつもりはありません。活動家出身で総理大臣まで上り詰めた菅直人が有名ですが、彼の師匠筋に当たる市川房枝は戦前に女性の地位向上に努め、婦人参政権の実現に尽力しました。

賛否あるでしょうが、婦人参政権のために戦時中の翼賛体制にも協力したこともあり、それが理由に公職追放の憂き目にも遭いましたが、活動家であってもあくまで実利を目指した政治的行動も取っていたことは間違いありません。

その実例から見た場合、今回の入管法改正を巡る、いわゆる「活動家」の人たちの行動は、多分、政治的実利の獲得よりも、自分たちの主張と支持層へのアピールが重要だったのでしょう。もちろん、主張するのは勝手ですし、理想を追うのは結構ですが、修正案が実現していた場合に救われたであろう人たちが、今後も救われない立場に置かれることについては、どうとも思わないのでしょうか。

自分たちの主張が100%通らないのは相手が悪い、という理屈では、誰も説得できません。

政治とは何か、と考えれば、とどのつまりは調整であり妥協です。100人いれば100通りの意見があり、それを調整して妥協点を見つけないと社会は成立しません。そのための行動が政治であり、それを行うのが政治家です。

その点から見れば、活動家100%の人は政治家とは言えません。

先述の婦人参政権に関して言えば、実現したのは戦後であり、GHQの強制力合ってのことでしたが、普通選挙については最初の選挙が行われた1890年以来、少しずつ対象者が増えていき35年掛かって実現しました。

入管法改正についても、今日は100%実現しなくても、少しずつでも改正し続けていこうという思考にはならなかったのが残念でなりません。だから選挙で勝てないんだよ、とまで言ってしまうと悪口になってしまいますかね。

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