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まるでイソップの「すっぱいブドウ」?負けを認めるのが怖かった20代の頃

「自分があいつに負けているわけがない」

何の根拠もなく、そんなことを思い続けていた20代。

僕の人生で二度と戻りたくないほど苦しかったのが、高校生の頃と20代半ば頃までの実家にいた期間だ。

特に20代の頃はどんな生き方をするかが定まらず、バイトに時間を費やした。

専門学校の同期がテレビに出たり、有名なIT企業に採用された際、一瞬悔しさがあったものの、「あいつはあいつ、自分は自分」と言い聞かせていた。

このときの僕は、自分の感情を見つめずに置き換えていた。

「悔しい」「彼に比べて自分はみじめだ」というのが本音だったのに、「人は人だから何が起ころうと認めない」と否認をしていたのだ。

イソップ童話に「すっぱいブドウ」という話がある。

キツネは頭上に生ったブドウが食べたくて食べたくしてしかたがない。必死にとろうとすると届かない。しかたなくあきらめるのだが、最後に「あんな酸っぱいブドウなんかいらないよ」と捨て台詞を吐く。

まるでドラえもんのスネ夫が言いそうな台詞だが、これが防衛機制の合理化だ。

満たされなかった欲求に対して、理屈をつけて自分を納得させるのが合理化。

思えば20代の頃の僕は、合理化に明け暮れていた。

自分が何も行動をしておらず、進み出せていないことに焦りを感じていたが、それを認めたくなかったのだ。

前に進み出すためには、自分のダメなところを受容することが必要だ。

しかしこれがかなり苦しい。

直視したくない面を直視するのは、心理的に負担がかかる。

あんまり勝ち負けで判断するのは好きではない。

ただし自分ができていないことを、しっかり認めた方が前進できる。

今振り返りと、実家暮らしで親のすねをかじりながらバイト暮らしをしていた僕は、社会へ出てバリバリやっている同世代にとんでもなく引き離されていた。

そしてそれを認めるのが怖くてしかたなかった。

ひとり暮らしを始めてから、自分も道が定まったのだが、そこで僕は初めて行動している人の凄さを知る。

ゴールを定めて積み重ねるとは、こういうことなのかと。

毎日noteへ赤裸々な気持ちを綴っているのだが、これは自己理解と自己受容につながっている。

noteで自身の劣等感や恥をさらすのは、曝露療法的な面がある。

noteは治安がよく安全なことがわかっているので、安心して曝露できる。

そしてつながっているnoterの方に読んでいただくことで、「こんな自分の面を晒しても大丈夫なんだ」と安心を重ねる。

実はこれを日々続けることで、心がかなり楽になった。

自分の大嫌いな面から目をそむけることは、自己受容を避けることだ。

自分の負の面を受容するのには勇気とエネルギーがいる。

しかし苦しみもがきながらでも受容することで、自分という存在を前よりも好きになり、内側から活力が生まれるのもまた確かなのだ。


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