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トラウマで優しくなる人もいれば、歪んで人を傷つける人もいる

先日、ある人とお話をする機会があった。

僕よりも年長の方だったのだが、とてもこちらのことを気遣ってくれているのが手に取るように伝わる。

話の流れで教えてくださったのだが、その方はヤングケアラーを経験されており、ハードな成育環境で幼少期を過ごしておられたそうだ。

そのような辛い経験を経て、今の優しいこの方がおられるのかと思ったら、涙が溢れそうになった。

僕が思春期の頃、家庭が荒れていた。兄は物に当たり破壊することでマグマのような怒りを発散していた。

そうしないと彼の精神の均衡が保たれなかったというのが理解できたのは、ようやく最近になってからである。

あれは面前DVの一種だったのだろう。

その結果、大声で怒鳴る人を目の当たりにしたり、大きな音を聞くと体が硬直する。

僕の猜疑心の強さは、成育環境と関係している。

なんとなくだが、自分が磨り減るくらい他者へ気を使う僕の性格も、この方はふんわり優しく受け止めてくれていた。

「怖がらなくても大丈夫」と言ってもらえるような感覚になった。

率先して面白い話をしたり、サービス精神あふれる人なのだが、奥底には悲しみがあるように映った。

言語化するのは困難だが、傷を抱えた者同士の、言葉にしなくても伝わる感覚がある。

振り返ると、これまで「深い悲しみから加害者に回る人間」よりも、「自身の悲しみを受容して愛情深く人に接することができる人」と仲良くさせてもらってきた。

「深い傷を抱えた結果優しくなる人」もいれば、加害者と同じように「誰かを傷つける側に回る人」もいる。

これはその人の持つ器、人間性、美学の違いなのだろうか。

人間関係で生まれた傷は、人によって癒される。

人を傷つける側に回ることは、さらに悲しみを増やすことでしかない。その行為自体が、なおさら悲しい。

抱えてしまったトラウマは、誰かを傷つけても癒されることはない。

なおさら傷が深くなるだけだ。

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