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「暗い奴」と言われ続けた僕が常々「人の憂いを大切にしたい」と思う理由

若い頃、神経症的な症状が出て塞ぎ込むことが多かった。

そのときに言われて嫌だったのが「暗い奴」という言葉だ。

いろいろな理由があって落ち込んでいるときに「暗い奴」と言われ続けるのは本当に辛い。

「暗い」というのは状態だ。

そのような状態に陥った理由や背景がある。

そこに目を向けず、状態のみを切り取って言葉にして伝えてくる人がとにかく苦手だった。

内向的でも前向きな考えを持っている人はたくさんいるのだが、一面的な切り取り方しかできない人はとにかく状態のみにしかフォーカスしない。

にべもなく全て「暗い」のフォルダに入れられるのだ。

こういう人たちとは、今でも仲良くできないと感じているし、実際に仲良くなることもない。

よく僕のnoteに足を運んでくださるnoterさんが「かぜの帽子氏の記事の根っこにあるのは悲しみである」といったことを書いてくださったことがあった。

これを読んだときに救われた気持ちになった。

「伝わる人にはしっかりと伝わるんだ」と、じんわり内側から嬉しさがこみ上げてきた。

また以前、観察力に長けた人と仲良くなったことがあった。彼は「毛穴から漏れ出るあなたの悲しみに興味があったんです」と言ってくれた。

悲しみ憂いは、感情を抑圧する人が抱えやすいのではないかと感じている。

しかしそれらは表層にしか目が行かない人からすると「単なる暗い要素」にしか映らない。

明るい暗いの二元論は思考を停止させ、脳に負荷を与えない。

しばしば多くの人が二元論的なデジタルな考えを持つのは「深く考えたくない」という無意識の欲求に従っているからだろう。

悲しみや憂いは、やるせなさから生まれることが多い。

僕は相手の裏側を汲み取る感性を持っている人に救われてきた。

だからこそ、自分も憂いあふれる人を見るとその背景を想像するようにしている。

人間は表面の状態のみで判断できるほど単純ではない。

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