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愛情皆無の否定的な「言葉の呪い」で苦しむ繊細さんに向けて

こちらはリアライフカウンセラー・藤本シゲユキさんの動画。

「自我を取り戻して自分らしく生きる方法」

動画の中で「肯定してくれる人に目を向ける」と語っておられます。

20代の頃、自己肯定感が天保山より低かった僕(関西限定の例えで、すみません、笑)。

今回は「その昔、呪いのような言葉をたくさん受けて苦しみました」という話を書きます。

20代半ばから「食べていけるための武器がほしい」と文章を教わるカルチャースクールへ通っていました。

呪いの言葉の洗礼

1つ目の教室の先生は、自己愛タイプで、価値観が全くあいませんでした。

その先生は20代後半から成果を出された人で、「30代になるまでに結果が出せなかった人間には一切、未来はない。それは俺の人生が物語っている。俺のようになりたかったら、お前ら死ぬ気でやれ!」とよく言っておられました。

当時の教室には、僕同様にまだ人生の方向性を決められず迷っている人が多く通われていたため、室内はピーンと張り詰めた空気になり、多くの人の顔がこわばりました。

四十路の今ならわかるのですが、精神が弱っていたり、自己肯定感が下がっている状態の人に持論の押し付けって一切不要なんですね。

こういう言葉を平気で吐くこと自体、相手が全く見えていないんだと思います。

自己陶酔的な言葉に依存していること自体が、肥大した自己愛ゆえそもそも他者に関心がなく、心のベクトルが自分にばかり向き、自意識が過剰な状態になっている証左です。

ご本人は「俺は愛情深いから、あえてお前らを罵るし厳しく鍛えてやってるんだ」というスタンスですが、どう見ても他者愛のある方には映りませんでした。

こちらの教室は共同体であるような感覚が一切なく、個人主義者の集まりで、お互いを罵り合ったり下げようとする言動が非常に多かったため、僕の心は擦り減り、やがて通わなくなりました。

祝いの言葉が生んだ好循環

2つ目のカルチャースクールは、一転して良い人ばかり。普段の会話で笑顔があふれ、良い意味でみんな緊張していないんです。

全員がリラックスできる空間は温かみがあり、自然と人が通いたくなります。

スクールは講師の方のキャラクターに合う人が自然と集まるようになるため、あくの強いエゴイスト、ナルシストタイプが仕切っていると、そういった人達が自然と集まりますし、人格者が仕切っていると思慮深い人が集まります。

以前、投稿した「自己肯定感の礎になっている言葉」という記事。

「あなたは自分の感覚を信じ続けてくださいね。そうすれば、絶対に大丈夫です。何の心配もいりませんよ」

という言葉を僕に掛けてくれたのは、2つ目のカルチャースクールの先生でした。

今は年賀状のやりとりくらいで、それほど頻繁にコミュニケーションをとっているわけではありません。

自己肯定感が低く生き方を模索していた僕にとって、この先生との出会いは今でも宝物になっています。

1つ目のスクールの先生は、すごい実績を残されている方なのですが、強烈な劣等感と反骨心、負けず嫌いを武器にのし上がっていったタイプ。

交流分析の人生の基本的ポジションに例えると、完全に「I am OK , You are not OK.」。「自己肯定・他者否定」の姿勢を貫いておられました。

実績はすごいのですが、戦国時代に生きている武将のように彼は戦いを好みました。
「お前らどんどん争え。論破し合って強い奴だけ生き残れ。世の中はそれくらいシビアなんだ。うちには負け犬はいらない」みたいなことを、平気で口にする方でした。

「一部の選ばれし者が頑張って経済を回し、その他大勢を支えてやっている」というのが持論で、「俺は特別な存在なんだ」というぬぼれを隠しません。

拙著で記した「歪んだ自己愛」「誇大的な自己愛」を持つ人特有の傲慢さがありました。

僕はこの方に師事している間、たくさんの言葉の呪いを受けて傷ついていました。

相手を思って発する言葉と、自己都合で口にする言葉の違いは、かなりあるのでしょう。

ネガティブな呪いを受け取った僕の心は悲鳴を上げ始めました。

その状態の僕に、愛情あふれる言葉をかけてくれたのが2つ目の先生。

この方は、いつもにこにこされており、優しいオーラが自然と漂っているんですね。本当に仏様のような方でした。

1つ目のスクールの先生が「結果を出したヤツだけに価値がある。俺のお気に入りになれるよう振る舞え」という条件つきのストロークをするタイプ(「条件つきのストロークは、教育的にもよくない」と、されています)

2つ目のスクールの先生は、無条件のストロークをくださるタイプ。

こちらの先生は、最初に緊張しながら教室へ来られた方に
「楽しみながら、あなたの長所を生かしてくださいね。もし自分に向いていない、もし楽しくないと思ったら、文章を書くのをやめてもOK。他の道が見つかったら、そちらへ進んだくださいね。あなたの選択を応援します」とお声がけをしておられました。

最初の教室で呪いの言葉のシャワーを浴びた僕ですが、次の教室では祝いの言葉のシャワーを浴びた感覚があります。

興味深いのは、呪いワードで人の恐怖を煽りコントロールしようとした1つ目のスクールからは華々しい功績をあげた人がほぼ出なかったものの、2つ目のスクールからは、その道で食べていける人がわんさか出た点です。

わかりやすいほどに人材の育成、輩出に違いが出ました。

活力を奪う言葉をかけられた人達は陰鬱な表情になり行動力をなくしたのに対し、活力を与える言葉をかけられた人達は自発的に楽しく躍動し始めたわけですから、当然といえば当然です。

ありがたいことに、僕の人生が好転し始めたのは2つ目のスクールに通い始めてから。

スクール内には「こうすれば、より良い人生を送れる」という模範がたくさんあり、若き僕が持っていた社会や人間への不信はやがて取り払われ、色々なものを信頼できるようになっていったのです。

「世の中って敵だけじゃなくて、味方がこんなにいるんだ」という安心感を覚えました。

不信を信頼に変えてくれるのは、愛情あるストロークをくださる人達なんです。


「祝い」は「呪い」を駆逐する

2つ目のスクールの方は、上手く結果を出した人が、仲間に「こうすることで自分は上手くいった」という情報を共有するため、好循環が生まれていたんですね。

こちらのスクールには、利他の精神を持つ方がたくさん通われていましたし、人格的にも磨かれ精神が成熟した方が多かったように記憶しています。

個人的には「恐怖や不安を煽る呪いの言葉よりも、言われた方が自信を持ちやすい祝いの言葉の方が、人を後押しできるのでは?」と感じています。

呪いと祝いは漢字の右側が同じですが、意味は真逆

人間はネガティブなストロークを受け取りやすい生き物。

よって不安や恐怖を煽って人をコントロールしようとする人間は、ずっと存在し続けるでしょう。

恐怖や不安は脊髄反射のようなものなので、相手を思い通りにしたいと考える人にとって、これらを煽るのは有効な手段なのです。

無条件のストロークを言語化すると、「そこにあなたがいるだけで嬉しい。ありがとう」というものになるでしょう。

存在していることへの無条件の肯定です。

親子間の会話で言えば「生まれてきてくれて、ありがとう」「生んでくれてありがとう」というものですね。

「祝い」

めでたいできごとに対して、言葉や物を贈ってよろこびの気持ちを表わすこと。

goo辞書

今となってはどちらの先生にも感謝できますが、僕がいつも模範にしているのは、2つ目のスクールの先生です。

人生には憧れの教師と反面教師の双方がいた方が、深い学びを得られる気がしています。


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