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【改稿版】カレーの事情《1》「僕が記憶をなくした理由」

 鼻孔に香ばしい匂いが広がった。ターメリック、レッドチリ、クミン、コリアンダー。さまざまなスパイスが混ざり合った中に少しだけ香るトマトの匂い。これは我が家のカレーの匂いだ。今朝もカレーか。そう思いつつ、僕は重い瞼を開く。

 目の前には見慣れない天井の色があった。僕の家ではない。目を開けるまで家の自室で寝ているものとばかり思っていたのに。今いる場所を確認しようと慌てて起き上がる。途端、体の節々が鈍く痛み出した。同時に脳がふわっと浮かび上がる感覚に襲われる。瞬きするとその感覚も失われ、鼻の奥がツーンとこそばゆくなった。鼻の根元を抑えつつも、辺りを見回す。僕はベッドの上にいた。その周りを囲むように白いカーテンが掛けられている。状況から察するに病院だろうか? するとカーテンが開かれ、白衣を着た女性が現れた。

「よかった。目が覚めたのね」

 そう言ったのは、うちの学校の養護教諭・瀬古先生だった。ということは、ここは保健室か。瀬古先生はベッドの脇に立つと、僕の顔をまじまじと見てきた。

「やっぱりまだ腫れてるわね。ごめんね、痛かったでしょ?」

 瀬古先生は申し訳なさそうに言ってきた。だが、なぜ謝られているのかまったくわからない。

「覚えてない? その時にはもう意識がなかったのかしら?」

 瀬古先生の話していることがまったく理解できず、そのままキョトンとしていると、察したのか瀬古先生はまた話し始める。

「あなた保健室の前で倒れてたでしょ? 気付かなくって顔面蹴っちゃったのよ」
「はい?」

 思わず声が出てしまった。保健室の前で倒れてた? まったく身に覚えのないことを言われて、ただただひとりでに困惑する。僕は朝、自分の部屋のベッドで目を覚ますはずだったのに。何が起こっているというのだろう。

「大丈夫? 目眩がする?」

 瀬古先生が心配そうにこちらを覗き込んでいた。どうやら無意識に額に手を当てていたらしい。額から手を離し、瀬古先生に向き直った。

「俺に、何があったんでしょう?」
「訊きたいのはこっちの方よ」

 瀬古先生は困った様子で尋ね返してくる。もう一度、額に手を当てて考えてみる。頭の中を探ってみても、自分の足で保健室に向かった記憶などない。むしろ深夜眠りにつく少し前の記憶が際立って浮かんでくる。

「まだ体調よくないんでしょう? 休みなさい」

 瀬古先生は肩を優しく叩き、横になるように促す。顔を上げると、カーテンの隙間から時計が見えた。うちの学校は丸時計の中央にデジタル文字で日付が表示されるようになっている。

 現在、時刻は6時10分ちょっと前、中央の文字は2016.2.7と表示されていた。

 絶句した。

 僕が眠ったのは、2月6日の深夜だ。

 それはつまり、今までに起こった今日の記憶がすっぽり抜けているということだ。もしかしたら夢かもしれないと頬を思い切りつねってみたが、打身ができているらしく余計に痛みが増した。それがさらに現実だということを教えてくれる。もう一度目を瞑って考えた。だが、記憶の片鱗は一切見つけられない。

「ダメだ。全然思い出せない……」
「どうしたの?」
「今日一日の記憶が、ないんです」
「えっ!?」

 瀬古先生は驚き目を見開いて、それから眉をひそめて困惑して表情になる。

「本当に思い出せないの? 一部でも記憶に残っていることはない?」

 質問に応えることができず、僕は無言で首を横に振った。瀬古先生は僕の答えを受けると、考えるように顎に手を当ててベッドの周りを行き来し、また僕の脇に戻ってくる。

「こういうのは自然に思い出すのを待った方がいいのよ。下手に刺激を与えると脳に負担がかかるかもしれないから」
「でも、正直なんでこうなったのか思い出せないと不安です」
「そうだけど……」

 今度は頬に手を当てて瀬古先生はしばらく考え込んだ。だが、やがて決意したようにつぶやいて僕を見る。

「わかったわ。少しずつ思い出す練習をしてみましょう」

 そう言われて少しばかり気が楽になったように感じた。瀬古先生は「ただし、無理はしないように」と念を押してから、言葉を続ける。

「まずは、そうね……昨日のご飯は何食べた?」

 僕は記憶を探りつつ、おもむろに答える。

「朝は……カレーパン」
「うん」
「昼は……カレードリア」
「う、うん」
「夜は……カレーうどん」
「カレーばっかりじゃない! あなたそんなにカレー好きなの?」

 瀬古先生は呆れた様子で眉根を寄せて言う。

「いや、家はカレー作ったら一週間はずっと続くので。まあ、好きではありますけど」
「そんなに!? カレー好きにもほどがあるわよ」

 普通ではありえないと思っていたけれど、他人に言われるとなお異常なのだなと感じられる。そんなことになったきっかけはあるが、今は思い出したくないし、話したくもなかった。

 ふいにまた、鼻先にカレーの匂いが突き抜ける。その瞬間、何かが記憶に引っかかった。じわりと喉の奥でカレーの味が広がって、スパイスの余韻が舌を撫でる。その感覚だけで、思わず「あ」と声が出てしまった。

「何か思い出した?」
「なんか、そんなことを言われたような気がして。なんか、カレーなんちゃらって言われたような……」

 目を閉じて再び思い出そうとしたが、ぼんやりとしていて何も読み取れない。瀬古先生がこちらを見て答えを求めていたが、僕は首を横に振るしかできなかった。

「う~ん、じゃあ予想でもいいから今日の一限目の授業はなんだった?」
「月曜だから……体育、ですね」
「何をやったかしら?」
「ん~……金曜はバレーだったから、たぶんバレーですかね」

 歯切れの悪い返答に、瀬古先生は再び困ったような表情になる。自分でもはっきりと答えられないことにモヤモヤとした気持ちが募っていく。

 その時、コンコンと窓を叩く音が聞こえて見ると、同じクラスで友達の竹本が窓の外からこちらを見ていた。瀬古先生が窓に駆け寄り、鍵を開けてくれる。すると窓が開くと同時に、竹本はサッシに足をかけて軽々と窓を潜り抜け、中に入ってきた。

「ちょっと! ちゃんとドアから入りなさい!」

 瀬古先生が注意するが、竹本は「すんません」と反省の色もなく小さく頭を下げるだけだった。そしてベッドの脇に寄ってくると、眉一つ動かさずにつぶやいた。

「広、やっぱり平気じゃなかったのか」

 やっぱりとは何だろう? 何か知っているのだろうか?

「やっぱり、って?」
「体育ん時、バレーボール顔面に食らわしただろ」



 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に映像が浮かび上がってきた。

 場所は体育館。バレーコート半面の中央に竹本が立っていた。僕はコートの外からそれを見ていて、竹本は助走をつけて高くジャンプする。アキレス腱がぐっと張り、空中に飛び上がると身体が弓なりに反る。その様は、スローモーションのようにゆっくりとしていた。だが、手のひらがボールに触れ、スパイクをかました瞬間、それは目にもとまらぬスピードで一直線にこちらに向かってきた。バシンと、音が響く。



 そこで映像は途切れた。あまりの衝撃に心臓がバクバクと高鳴って、言葉が出てこない。心なしか顔面がジーンと痺れているような感覚がした。

「思い出した?」

 瀬古先生は身を乗り出して訊いてくる。

「ボールが顔面に来た瞬間だけは。あとは何も……」

 口にした通り、その瞬間以外はまだぼんやりともせず、白紙の中に急に現れた記憶にまだ戸惑いを隠せない。

「そう……でも、頭に強い衝撃を受けたとなると、それが原因かもしれないわね」

 瀬古先生が頬に手を置いて、納得したように頷く。視線を感じて振り向くと、竹本が目だけで状況の説明を求めていた。「何が?」と目が問いかけてくる。竹本は無愛想だけど根は優しい奴だ。記憶喪失の原因が自分のせいだと知ったら責任を感じてしまうだろう。

「いや、別に……」
「なんかあるなら言えよ」

 食い気味に放たれた凄みのある声に少したじろく。静かだけれど威圧的なまなざしで、竹本は僕をじーっと見ていた。さすがに、この圧には逆らえない。

「実は……今日一日の記憶がなくなったっぽくて」

 黙っていようとした後ろめたさもあり、変な言い回しになってしまった。竹本は無表情のまま一度瞬きをして、それから口を開いた。

「階段から落ちるか?」

 その一言に瀬古先生が小さく「は?」と言ったのが聞こえた。僕も発言の意図が飲み込めず困惑する。竹本は突拍子もなく冗談を言う時がたまにあるが、今回ばかりは意図を読み取れなかった。

「なんで階段?」
「よくあるじゃないですか。階段から落ちて記憶喪失になって、もう一回やって解決、みたいなやつ」
「それは階段から落ちたことが前提でしょ? たぶん体育の時のことが原因だと思うし」
「いや、違うと思いますよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「だってその後も、広は普通に6限目まで俺と一緒にいたし、時間差で記憶喪失になるなんてありえないでしょ?」

 竹本は得意げにもせず言い切った。確かに、体育は一限目だったのだ。

「確かに。松井君が保健室の前で倒れてたのは放課後だったから、そうなるとおかしいわよね」

 竹本の言う通り、時間差で記憶喪失になることなどありえない。だとすると、放課後に何があったのか? 僕は再び集中して思い出そうとしてみたが、考えすぎなのか頭が痛くなってきた。

 すると、バアーンとドアが激しく開かれた音が重苦しい空気を一掃する。瀬古先生が何事かと急いで様子を見に行こうとしたが、その前に勢いよくカーテンは開かれた。そこには僕たちの友達の梅沢がはっとした表情で立っていた。僕を見るなり梅沢は素早く飛びついてきて、勢いが良すぎたせいで体中に痛みが走る。

「広~! ごめ~ん!」

 梅沢は言いつつ、抱きつく力を強めていく。痛みに耐え切れずに、僕は腕を振りほどいた。

「痛いから、離れろっ」

 引き剥がされた梅沢はシュンとしてこちらを見ている。そして、喚き散らすように泣きそうな声で言った。

「だって、心配だったんだよぉ!」
「俺になにがあった?」
「一緒に階段から落ちたじゃん!」



 その言葉を聞いた瞬間、再び脳裏に映像が流れ始めた。

 僕はゴミ袋を手に階段を下りている。すると、背後から「広」と声がして、ゆっくりと振り向く。そこには梅沢がスーパーマンのような格好で宙を飛んでいた。そのままの状態で前のめりにこちらに倒れてくる。そのまま押し倒され、世界の景色がひっくり返った。



 再び映像は途切れた。先ほどよりも疲労感が凄まじく、ふぅと息をつく。首筋を触るとじわりと汗がかいていて、心臓が先程以上にバクバクと音を立てていた。

「どう?」

 瀬古先生の心配そうな表情に、また首を横に振って告げる。

「また、落ちる寸前だけ、です。部分的にしか思い出せてません」

 僕の言葉を受けて、瀬古先生はため息をもらした。梅沢は皆の顔を見回して、何が起きているのかわからないというふうな顔をしている。

「となると、やっぱり階段から落ちるしかないな」

 竹本がまた真顔のまま平然と言ってのける。

「ええ!? 何で?」

 梅沢がオーバーリアクションであたふたしている間に、瀬古先生は冗談を無視して梅沢に尋ねた。

「梅沢君、その後松井君の様子はどうだった?」
「え? その後は広がゴミ出し行かなきゃいけないからって急いで行っちゃいましたけど。その時、謝りそびれたから教室戻って待ってたんだけど、広帰ってこなくて。電話かけてても全然出ないから怒ってるのかと思って、今まで探してたんです」
「う~ん。これも原因じゃないみたいね」

 電話、と言われて胸ポケットに手を当てる。しかし、いつもスマホを入れている左ポケットにはその硬い感触が感じられなかった。

「どうした?」

 竹本が僕の異変に気付いたのか、こちらを向いて訊いてきた。

「スマホがない。いつもここに入れてたのに」
「教室にはなかったの?」
「教室で電話かけても音しなかったから、ないと思います」
「スマホの在り処がわかれば、何か思い出すきっかけになるかもしれないわね」
「じゃあ、探しにいくぞ梅沢。広はここで待ってろ」

 竹本は言いながら梅沢の襟首を掴んで歩き出す。梅沢は竹本に引っ張られながら、わけがわからないというような顔をしていた。すると、入口に向かおうとしていた竹本の足がふと止まる。

 入口を見やると、下級生であろう男子がドアの陰から遠慮がちにこちらを覗いていた。その男子は目が合うと控えめに中に入ってきて、おずおずとベッドの脇に立った。

「あの……これ」

 そう言って男子は、両手で握っていたものを差し出した。その手には僕のスマホが握られていた。だが、液晶画面はひび割れており、なんだか異臭もする。

「あの……さっきはありがとうございました」

 男子はそう言って深々と頭を下げてきたが、僕はこの男子にまったく見覚えがなかった。思い出そうとしてみるが、手元のスマホの匂いも相まって気持ち悪くなってくる。

「さっきって言ってたけど、今日彼と会ったのね?」

 瀬古先生の問いに、男子は無言で頷く。彼は僕が記憶を失った原因を知っているかもしれない。期待を込めて、僕は問いをぶつけた。

「俺は何をしたか、話してくれないか?」

 男子はひとつ間をおいてから「はい」と小さな声で返事をして、言葉を続けた。

「からまれてたところを助けてもらいました。途中で逃げてしまって何が起こったかはわからないんですけど……やっぱり気になって戻ってきたら、吐いた跡とスマホが落ちてて……」

 まったく身に覚えがないことに、胸の奥がざわついて落ち着かなくなる。先ほどのように瞬間的に映像が流れてくる予感もしない。何より自分がそんなことをしたとは思えなかった。

「広が!! そんなことを!!」

 梅沢がまたオーバーに驚き、竹本も少し目を瞠った。そんな表情されなくても、僕だって自分でわかっている。

「ヤンキー映画観ただけで吐くほど暴力系ダメなのに!?」

 返す言葉もなかった。僕はそういう事は避けて通っていたし、どうしてもあの日を思い出してしまうのだ。自分でもなぜそんな行動に出たのかわからない。

「あの、苦手なのにわざわざ助けてくれて本当に、ありがとうございます」

 また男子は深々と頭を下げてくる。身に覚えがないのにこんなにお礼を言われると、なんだか心苦しくなってきた。

「あ、いや、俺はなんで君……名前なんだっけ?」
「三田(みた)、です」

 男子がそう言った瞬間、頭の中の白紙に次々と今日一日の出来事が描かれていった。

「あ」

 思わずこぼれた一言が、白紙に垂れて茶色から黒へ、時間を巻き戻すみたいに記憶は色濃く鮮明になっていく。じわじわと蘇る記憶に、知ってしまうのが怖いと思いながらも、僕はそこから目が離せないでいた。

 まただ。カレーの匂いが鼻孔に充満する。導かれるように、その匂いはあの日の面影を否応なしに突きつけてくる。そうして思考はカレーの後味とともに、あの頃の記憶に引きずり込まれた。



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