見出し画像

【アメリカ文化メモ④】シカゴ旅行記

シカゴに1泊2日で滞在したので、その記録を残しておこうと思う。以下のニューヨーク旅行記のシカゴ版といった感じである。

シカゴのヒップホップシーンーサウス地区

シカゴといったときに私がまず思いつくのは、数々のラッパーたちである。90年代からCommonがいて、00年代からKanye Westがいて、10年代からはChance the Rapperがいる。そうしたヒップホップシーンを支えたのが、サウス地区の豊かな黒人人口であろう。シカゴの人種のドット図が以下のとおり。

※青:アジア系、薄緑:ヒスパニック・ラティーノ、黄:アフリカ系、薄茶:白人、赤茶:二種以上の人種

黄色がアフリカ系であり、薄茶色が白人で、薄緑色がヒスパニック系であるが、アメリカといえども、ここまでの大都市でこれほどまでに人種の棲み分けがされている街も珍しいだろう。
黒人が多く住むのがサウスサイド地区とウェストサイド地区。サウスサイドは第一次大戦時の黒人人口の移動時に形成され、ウェストサイドは第二次大戦時の黒人人口の流入やサウスサイドから溢れた人口の吸収によって形成された。ロサンゼルスの人種構成に触れた際と同じように、不動産制限約款により、黒人が土地を取得できない地域が多かったことが黒人居住区が作り上げられた根本的な原因である。制限約款は1948年に違憲とされたが、慣行としては維持された。一度形成された人種分離がいかに解消し難いものかを物語っている。
一連の公民権法の成立を成し遂げたマーティン・ルーサー・キングもシカゴに一部居住する形で黒人スラムの問題に取り組んだが、自分の経済的利益を掘り崩す改革を求める黒人に対して保守化した北部白人たちの以下のような反発もあり、大きな改革は実現できなかった。

七月三〇日から八月二五日の間、近隣白人地区とそこにある不動産事務所に向けたデモ行進が、一〇〇人から一五〇〇人の規模で、合計一六回行われた。白人の敵意はすさまじかった。近隣白人地区には、白人労働者階級やホワイト・エスニックすなわち、第二世代から第四世代を経て「白人化」したアイルランド系移民やポーランド系移民などが居住していた。彼ら彼女らはデモ行進を「侵略」とみなし、持ち家の資産価値を守り、コミュニティの同質性を守るためなら、暴力の使用は民主主義的行為であるとすら信じていたのである。
デモ行進には、規模に応じて最大千人の護衛警官がついた。だが、その周囲を数千人の白人暴徒が取り囲み、卵、石、ビン、レンガの雨を降らせる。「ニガーを絶つ唯一の方法は根絶」と書くプラカードやナチスの旗を掲げ、「ニガー、帰れ」と連呼し、こう歌った。「自分がアラバマ州警官だったらよかった。合法的にニガーを殺せるから」。あるデモ行進では、キングも投石がこめかみに当たり、よろけて膝をついた。南部でさえ「ここまでの敵意と憎悪を見たことはない」とキングは取材記者に答えた。だが、デモ行進を継続する意志は変えなかった。

黒崎真『マーティン・ルーサー・キング-非暴力の闘士』190-1頁

黒人街の住宅の大家や店舗のオーナーの多くは郊外に住む白人であったし、都市構造的な隔離は教育格差を生み、経済的な格差を再生産した。そうして黒人の多くは経済的困窮にあり、犯罪発生率も当然高いので、サウスサイド地区は危険な地域として知られることなった。シカゴ生まれのラッパーであるKing Louieが"Chiraq Drillinois"というミックステープを2012年に出したが、この"Chiraq"というワードは、銃による暴力事件が多発するシカゴはまるでイラク(Iraq)のようである、ということを示すワードであった。このワードは当時バズって、Spike Leeも"Chi-raq"という映画を撮っている。(ちなみに、後半の"Drillinois"は、シカゴ発のギャングスタ・ラップであるdrill rapのdrillにillinoisをかけている。)

土曜の朝9時にシカゴのMidway International Airportに到着して、まずは、Kanye Westの生まれ育った家に行ってみた。

この家は、彼が幼少のときから20歳になるまで住んでいた家である。Kanyeはこの家を2021年4月に購入しており、シカゴのスタジアムでアルバムDONDAのlistening eventをした際、この家をスタジアムまで移送するよう依頼したが、それがかなわず、ライブではこの家を再現した。(そのセットでDaBabyとMarilyn Mansonとともにスキャンダラスなトリオでパフォーマンスを披露した。 )

McDonald'sの「発祥」の街、シカゴ

Kanyeの家を見て満足して、ダウンタウンに戻り、腹ごなしにMcDonald'sへ。

McDonald'sのカリフォルニアの店舗にいくと、McDonald'sの発祥の地はカリフォルニアであるとたまに店舗の壁に書かれていたりする。それ自体は間違いではない。たしかに、DickとMacのMcDonald兄弟が1948年にハンバーガー店を始めたのはカリフォルニアであった。そのハンバーガーチェーンに興味を持ったシカゴ生まれのレイ・クロック(Ray Kroc)は、交渉の末、そのブランドを使える権利を勝ち取り、シカゴ郊外のDes Plainesに彼の最初の店を誕生させた。彼はそこからブランドを成長させ、グローバルなブランドにまで仕立て上げた。したがって、我々が知っているMcDonald'sの発祥の地は、その意味では、シカゴといってよい。

McDonald'sの本社の下には世界のメニューを体験できるという触れ込みの本社の1階にあるレストランである。

ただ、今回、韓国の商品は売り切れていて、海外プロダクトで買えるのはカナダとスペインのもののみ。。たくさん選択肢があると期待しすぎるのはよくない。。笑
ただ、スパイシーハバネロベーコンエッグマフィン(カナダ)とBiscoff McPops(スペイン)を同時に注文できるのは世界でここだけだろうと思いつつ、注文するのはなんだか特別感があってよい。

シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)

以下で述べる映画ロケ地を前後に挟みつつ、シカゴ美術館へ向かう。
シカゴ美術館は、かなり広い美術館で、カバーしている範囲も広い。特に印象派はかなり作品が多い。また、アメリカの作家も多く収蔵しており、例えば、ジョージア・オキーフの作品数も多いし、エドワード・ホッパーのナイトホークスなんかも置いてある。日本の工芸品・美術品の専用スペースもあって、これまたおすすめである。

映画ロケ地巡り

シカゴのダウンタウンはロケ地巡りがコンパクトにできるので、おすすめである。私が回った箇所は以下のとおり、

  1. Union Station(『アンタッチャブル』の銃撃戦のシーン)

  2. シカゴ商品取引所ビル前の交差点(『ダークナイト』の戦闘シーン)

  3. Daley Center(『ブルースブラザーズ』のラストシーンの舞台)

  4. General John Alexander Logan Statue(『シカゴ7裁判』の運動のシーン)

あと、私は見たことがないものの、『フェリスはある朝突然に』もロケ地巡りに適しているようだ。(シカゴ美術館もロケ地の一つ。)

ランチは、ロケ地巡りの道中のThe Gageで、ロブスターロールをいただく。バターの効いたブリオッシュ、揚げオニオン、アイオリソースとセロリがロブスターと合っていておいしい。お酒の選択肢も多いおしゃれなお店なので、おすすめである。

Deep-dish Pizza―イタロ・アメリカーナ

友人のお宅にお邪魔した後、友人ご夫妻とピザを食べに向かった。

アメリカでのイタリアンは、イタリア語で、クッチーナ・イタロ・アメリカーナ(cucina italoamericano)と呼ばれるが、当然イタリア系移民が多い場所でそれが花開く。その中心がNYである。クラムチャウダーも、ニューヨークでは、クリームを使うニューイングランドスタイルではなく、イタリア移民仕込みのトマト風味であることは去年書いた。

イタリアの移民は早くから存在していたが、当初その数は多くなく、1861年に誕生した統一イタリアの中で貧困に喘ぐ南イタリアの人々が多数アメリカに押し寄せたのは、1880年代以降で、第一次世界大戦がはじまる1914年頃までがピークであったとされる。遅れてやってきた移民であるイタリア移民には、もはや開拓すべきフロンティアは残っておらず、都市に集まって居住し、Little Italyのコミュニティを作り上げ、イタロ・アメリカーナの基礎を築いた。南イタリアからの移民が多かったからこそ、アメリカのイタリアンは、南部イタリアの料理中心なのである(たとえば、北部イタリアであれば生パスタ、南部イタリアであれば乾燥パスタ、という違いがある)。

さらに、イタロ・アメリカーナの特徴として挙げられるのは、タバスコ。タバスコはルイジアナのエイブリー島で生まれたアメリカ製。イタリアンにタバスコが置いてある風景というのも、イタロ・アメリカーナの風景である。

そして、アメリカ独自の「イタリアン」の品々、まさに正真正銘のイタロ・アメリカーナも数あり、その中で最も花開いたイタロ・アメリカーナがピザで、クリスピーなニューヨーク・ピッツァと分厚いシカゴ・ピッツァがその双璧をなす(あとはデトロイトピッツァ?)。

1943年に開店したシカゴの”Pizzeria Uno”が、生地が分厚いシカゴスタイルのピザ(deep-dish pizza)の発祥の地で、当時の料理長、Rudy Malnati氏がレシピを考案した。そのMalnati氏が独立した店がLou Malnati's。今回はそのLou Malnati'sの店を訪ねた。頼んだのがthe Lou Pizza。

フレッシュなトマトが利いていておいしい。ここの店はそこまで生地が厚くなく、日本で食べたことがあるディープディッシュピザに比べてキッシュ感はなく、普通のピザに近いが、ジューシーなソースやチーズが押し寄せてきて楽しい。もっとキッシュっぽいお店に行きたい人は他の店を探した方がいいかもしれないが、とても美味しいのでおすすめである。

Blues Club

ピザで腹一杯になって、次に向かうはBuddy Guy's Legends。世界的なブルーズマンのバディ・ガイが経営するクラブである。

冒頭でシカゴといえばヒップホップを思い出すといったが、これはあくまで私の趣味に依存する部分が大きく、本来シカゴといえばBlues(ブルーズ)の街であろう。
ブルーズという音楽の根本にあるのは、西アフリカ沿岸から連れてこられた黒人奴隷たちの持ち込んだリズムである。解放奴隷たちの多くは、白人たちの土地で借地小作人として働いたが、その労苦を歌った(というか叫んだ(hollar=叫び))フィールド・ハラーに、リズムを刻むギター等の楽器が加わって、さらにイギリスから持ち込まれたバラッドが持っている物語的な歌詞形式から影響を受けて、19世紀後半にブルーズができあがったとされている。
ブルーズが生まれた場所は、テネシー州のメンフィスからミシシッピ州のヴィックスバーグに広がるデルタ地帯とされ、その音楽がまずメンフィスに出て、1930年代にセントルイス、シカゴ、デトロイトといった北部都市に広がる。シカゴは、デルタ地帯から川や鉄道をさかのぼった先にあり、多くのデルタ地帯から黒人たちが移り住んだことがシカゴに広がった大きな理由である。そして、戦後には、シカゴにおいてエレキギター・アンプの導入が進んで、シカゴ・ブルーズが注目されるようになった。

その日の演奏内容はホームページで確認してほしい。チャージも出演者によって違うようではあるが、私が土曜の夜に行った際には、1人あたり25ドルであった。無料で見れるソロ演奏、前座のバンド、本チャンのバンドと3部構成になっており、色々な演奏が楽しめてよい。また、店員も頻繁に注文を聞きに来てくれるので、絶え間なくビールを飲みながら見ることができた。結局、19時くらいから23時過ぎまで4時間も滞在してしまった。

ライブハウスを出てWest Loopのバー、the Aviaryへ。巨大な製氷機を使ったカクテルが楽しめるとのことで向かった。In the Rocksというカクテルは、氷の中にカクテルが閉じ込められており、自分で器具を使って氷を割るというのが楽しい。ただ、自分たち以外ほとんどがいい感じのカップルでちょっと気まずい。。(あと値段はお高いので注意。。笑)

「摩天楼」発祥の地、シカゴ

1日目を終えて、2日目朝起きて、360 CHICAGOという展望台に向かう。なお、展望台のチケット売り場で買うと入場料は40ドルもしたが、ネットで買うと35ドルのようなので、ネットで買っておくことをおすすめしたい。

シカゴは19世紀後半から高層ビルが立ち並んだ「摩天楼」発祥の地である。友人によると、1871年のシカゴの大火事によって確保できた用地が高層ビル建築の要因になったとのことである。
なお、建築をめぐるリバークルーズも観光で有名ではあるが、今回は寒さがキツいので、上から眺めることにした。

シカゴ最後のご飯である2日目のランチは近くにあるメキシコ料理の店、Tzucoへ。シェフのCarlos Gaytanはメキシコで初めてミシュランの星を得たシェフであったとのことで、シカゴに住んだ経験がある大学院の同級生から教えてもらった。味付けもモダンな感じにアレンジされていておすすめである。

これでシカゴ観光は終わり。電車で空港に向かい、シカゴを後にした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?