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本音と建前と生徒に対する死刑宣告

以下は、教育研究家であり、学校行政アドバイザーである、妹尾昌俊さんという方のコラムから引用させていただきました。

 「部活ってなんのためにやっているんでしたっけ」実際、ぼくが校長等向けに研修をすると、こんな答えが返ってくる。

●部活を通じて、生徒は成長できる。

●競技等にもよるが、たとえば、チームワークや礼儀を学ぶ機会になる。

●困難なことにもチャレンジして、やればできるという感覚や自己肯定感を高めることができる。

 などなど。ぼくはこう切り返す。

 「さすが、みなさん、教育者ですね。だれも、『試合に勝つこと』とは言わないんですね。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20190906-00141487/


文科省のガイドラインでも、部活は学校教育の一環であると定められています。

スポーツや文化を通し、各生徒が成長し…とかなんとか書かれています。

しかし現状では、各生徒ではなく限られた生徒の成長を促すだけのものとなりました。

各生徒の成長を促す、なんて建前だけのものです。

本音ではこうです。勝ちたい、勝つために弱いやつは排除する、下手だから当然だ。あの中学、高校、そして指導者はすごいと言われたい!

試合に出なきゃうまくならない

多くのスポーツ指導者の共通認識として「試合に出なきゃうまくならない」というものがあります。

ときには平然と補欠の生徒に言い放つ指導者までいるのです。

そして練習はレギュラー選手の補佐やカバーで、どんどん養分として使われます。

事実、補欠選手の成長など望んでいないからです。

補欠の選手は、練習で食い物にされ、試合には出ないので技術の向上は見込めず、永遠に補欠が決定されます。

試合に出られる部員と補欠部員の差は開く一方です。成長段階である小中学生では特にでしょう。

これを当然とする流れが、学校教育の一環であると明言されている部活動で起こっています。

特に引用された部分の最後の一文、「●困難なことにもチャレンジして、やればできるという感覚や自己肯定感を高めることができる」

やればできる、という場面は永遠にやってきません。もちろん自己肯定感を育むどころか、劣等感や諦めを助長させるには効率的なシステムが組まれています。

特に吸収力のある成長期に試合に出られないのは、その選手にとって死刑宣告にも等しいのです。

学校教育の中で、日常的に生徒に対してスポーツにおける死刑宣告が行われているのです。

「勝ちにこだわる」指導の危うさ

一方、勝つことにこだわって選んだメンバーならば、それは絶対に勝たなければならないはずです。

勝つことにこだわる指導のために、補欠選手は試合に出る権利を行使せずにいるのだから。

それならば、万が一試合に負けたときは、指導者、レギュラーメンバーに、何らかのペナルティを課されなければ道理が通らなくなります。

しかし実際は、次の試合も全くメンバーの変更なく、もちろんペナルティもなく、同じ選手で試合が行われるのです。

もちろん、負けたメンバーにペナルティを課すことなどできませんよね。

もしも、そういう流れが実現すれば、部活動はギスギスしたものとなり、選手同士に軋轢を生むでしょう。

だから、指導者は勝つことにこだわる指導の危うさを知るべきなのです。

全ては、権利を行使せず、我慢している補欠選手の犠牲の上に成り立っていることを思い知るべきです。


「勝つこと」にこだわった指導が間違っているのではないのです。

試合に出場するべき、部活の場合は引退を控えた選手を全員出場させるなら、大いに勝ちにこだわる価値があります。

学校教育の一環である部活が、教育理念から外れることがあっては絶対にいけないのです。


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