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私の曾祖父の頭はどこかにとんだ。2月10日 「私にとっての戦争」の話

あなたと戦争との距離はどのくらいあるだろうか。
23歳の私にとっての戦争は、"お茶飲み場での昔話"だ。

話してくれるのは大伯父。
私の生まれた場所で起きた空襲の話である。
この「町内」で起きたことを知っている人はどのくらいいるだろう。

かなり風化している。
今ここに住んでいる人も、ここで育った人も、75年前、小さな町内で悲惨な空襲があったことを知らない。

お茶飲み場で聞く話のリアリティと、学校の体育館で聞く"平和教育"とは子どもの中に残すものがきっと違う。
戦争が教科書の中の話でなくて、自分の一部の話であると、そう思える人が増える場になったら、平和が教育でなくて、学びになったら、どれだけ変わるだろう、と。

私にとって、祖父祖母、近所のおじいちゃんおばあちゃんと一緒にいた場所は、学びの場所だった。

1945年2月10日

冷たく空気がぴんとはった、良く晴れた冬の朝だった。

1945年2月10日 B29の編隊が農家の集落の上空に現れた。
敵機にも関わらず、その銀翼はキラキラと輝いて、それはきれいに見えたという。

当時太田市にあった旧中島飛行機(現SUBARU富士重工)は、戦闘機「疾風」の組み立て工場だった。

「きっと中島飛行機の方に向かうんだろう」
家の庭からB29の輝きを見つめていた12歳の大伯父は、そう思った。
民間人が住んでいる場所はそうそう襲わない。
まして都市ではない農家の集落は。

しかし予想外のことが起きた。
250kgの爆弾が空から次々と落ちてきて、集落を襲った。

「壕に入れ...!!!」近くにいた祖父が叫ぶ。
家族みんなで、掘ってあった小さな防空壕に入り、轟音、地響きに耐える。まるで雷が真上に落ちたような衝撃。近くで幼い弟が泣く。これが当時7歳の私の祖父。

消防団だった曾祖父は警報が発令されると、分署に向かったという。


どのぐらいの時間耐えただろう。
空襲が落ち着いて、外に出ると景色は変わっていた。
家が燃えていた。そこら中に瓦礫が飛び散っている。庭に大きな穴が空いている。落ちた場所があと数メートル違ったら、家族全員壕ごと吹き飛ばされていただろう。

なんとかしようと、近くのお寺に避難する。父は大丈夫だろうか。途中逃げ遅れた近所の人たちが倒れている。焦げ臭い匂いと、血だらけの人がたくさんいる。
普通に生活していた場所が、一瞬で地獄に変わった。

父は分署の前で倒れていた。目から上の頭が半分無い。爆弾から飛んだ破片に当たってしまったのだろうか、後頭部までカーブするように、鋭利な刃物で切り取られたようになっていた。

大叔父は手を自身の頭に沿わせて、自分の父の最期について私に話した。

家族は父を失った。

この日、町内には250kgの爆弾が58発、焼夷弾が293発降り注いだ。

2歳の子どもも含む33人が亡くなった。

家は焼夷弾で焼き尽くされた。
庭に落ちた250kg爆弾の跡は池になった。
町内中に"爆弾池"ができた。

最近になってやっと分かった「戦争で死ぬ」ということ

空襲の話は、小学生になる前から聞いていた。
でも、きちんといろんな意味が分かってきたのは、話を初めて聞いて何年も経ってからだ。
曾祖父が爆弾にはねられて死んだのは、昔から知っていたはずなのに、死んだときのリアルな状態は最近知った。

昔から戦争体験を身近で聞かされてきたと思っている自分でさえ、戦争によって死ぬというのはどういうことか、どうやって死ぬことなのか、現実を知らなかった。
爆弾にはねられた遺体が、綺麗なわけがないのだ。

250kg爆弾で傷ついた身体は手足や首がとぶ。
地域のお寺に運び込まれた遺体は、身体の一部がないものが多かった。

民家の壁には爆風の衝撃で飛んだ手足がへばりついたり突き刺さったりしていた。

戦場でない、それまで普通に暮らしていた集落の人にとって、突然血の惨状に襲われたことはどんな思いであっただろう。
祖父兄弟たちは、当時5〜12歳で、父の無残な遺体を目の前で見ることになった。

「綺麗な戦争」なんて、「綺麗な死に方」なんて、「立派な死に方」なんて。
何にも知らない人がいうそんな言葉が、酷く怖く、悲しくなった。
戦争を厭わない人は、綺麗なものしかイメージしていないのかもしれない。
もし自分だったとしても、ドラマや漫画の主人公のようなかっこいい死に方ができると、どこかで思っているのかもしれない。

戦って死ぬ。攻撃で殺される。日本から離れた土地で、家族にどんな最期かも知らされず、骨さえ戻らない。綺麗なわけがない。「立派な最期」は、人の命を命とも思わない国の愚策による餓死、自決がほとんどだ。
無数の犠牲者たちの最期は、語られようもなく、「立派な最期」として、都合よく知りもしない人に書き換えられ、そしていつかは忘れ去られる。なかったことにされる。

なかったことにされている人は、今これを読んでくれているあなたの親族にも、いるかもしれない。

この空襲の話で、ひとつ印象に残っていることがある。
犠牲になった33人のうち、一人は身元が分からなかったという。
語り部の方が時間をかけて調べても名前の分からなかった一人の方は、朝鮮半島出身の方のようだった。
慰霊碑には「氏名不詳 一名」と刻まれているが、その人にも名前があって、祖国に家族や友人がいたはずだ。

遺骨の還っていない方が、遠い戦地だった島でなく、私の住んでいる場所にもいる。

2年かけて記事にしたプロセス

2年前、近所にいた硫黄島戦の生還者、秋草さんが亡くなった。
秋草さんは私の母校の中学校に講話に来てくださったこともあった。
戦争の悲惨さを訴え続けてきた人が亡くなり、こわくなった。
私の大叔父は今も元気だが、この空襲について語り継いでいる数少ない体験者の一人だ。
この空襲について語り部をしている方たちは、もう90歳を超えている。
ちゃんと、今のうちに残したい。伝えたい。
そう思ってこの記事を書いた。

2018年10月、大叔父に資料を借り、なぜ小さな集落が攻撃されねばならなかったのか、この町内だけ狙われたのか、読み直して考えた。

説の1つは、隣町にある中島飛行機を狙った爆弾が風で流されたのではないか、というもの。
しかしこの日の風はそれほど強くなく、弾が流されるにしては距離が遠すぎる。

2つ目は、町内の用水路に氷が張り、上空から見た際に反射して工場に見えた、つまり誤爆なのではないか、というもの。
2月10日当日、中島飛行機の工場も攻撃は受けている。工場への攻撃前に位置を誤ったのだろうか。

3つ目は、この集落の地下に工場を作るという過去に中止された計画が米軍側に漏れており、工場ができていると思った米軍が狙ったのではないか、というもの。
大叔父によると、施設を建設するために測量に来ていた人たちが当時いたらしい。

真相は結局分からない。
でも、戦争で殺されなければならない理由など当然ないのだ。
あの時代の人たちも、本来私たちと同じく日常を生きるはずだった。
大叔父も、他の遺族の人たちも、納得がいかないから、こうして理由や原因を探し続けたのだと思う。
大事な人を失ったとき、遺された人には「どうして」という感情が襲う。きっと大叔父もこの空襲について、調べ、まとめ、語り継ぐ事で、その感情と向き合ってきたのだろう。

卒業間近の春休み、私はもう少し知りたくて、中島飛行機のことならば、今の私に得られる資料があるのではないかと、早稲田の地下書庫に入った。

そこで、まさに2月10日の中島飛行機太田工場への攻撃写真を見つけることができた。

残っている空襲に関する資料は、米軍のもの。
日本側は、多くの人が死んだ日の記録を持っていなくて、何があの日に起きていたのか、なぜ死ななければならなかったのか、やっと戦後に、かつての敵国の資料でしか事実が検証できない。

米軍の記録写真を見て、なんだか余計に虚しくなった。
国体のために、この写真の中で、血だらけになって黒焦げになって死んでいった人がいる。

結局空襲でなぜ町内が狙われたのかは分かっていない。
どの説が有力とも言えないのが現状だが、私自身が個人的に調べて思うのは「怪しいところは潰す」「工場があればその周囲も官民関わらず潰す」という攻撃方法が、この時期米側で当たり前になっていたのではないか、ということ。

1945年の2月、東京大空襲よりも前の襲撃だが、終戦近くはもう市民も関係なく巻き込まれる段階だったのだろう。

「太田工場への爆撃が目視で行われた」という資料の言葉は、誤爆という説を少し補強するかもしれない。
また、資料中にある中島飛行機が「大谷石切り出し跡の地下に移転した」という情報は、3つ目の説の中止された地下工場建設計画と関係しているのではないかとも考えた。
当初集落の地下も候補地に上がっていた移転地が、実際には宇都宮の大谷石採掘場になったということだろう。

「軍は住民を守らない」
2018年9月、沖縄に行った際に知った沖縄戦の教訓。
この空襲にもそれが当てはまると思った。
軍の工場が近くにあったから、軍事施設が建設される計画が一時期あったから、普通の住民が巻き込まれて殺された。

"武装すれば安全""軍がいれば守ってもらえる"
そう思う人は、少し歴史を見てみてほしい。
軍が守るのは人の命ではなく、国体だ。

戦争体験を特別なことと思ってほしくない

ここまで書いたが、こうした話を伝えることを「悲しいこと」「真面目なこと」「危険な人の考え」だと思ってほしくない
それが私の一番伝えたいこと。

戦争に反対すること、事実を歴史を書き換えずに伝えること、歴史を修正しようとする人たちに抵抗すること、それを「政治的なもの」にしてほしくない。

楽しいことをしていることが、楽しい、幸せとは限らない。
こうしたことを考える人が、いつも泣いているわけではない。こうした経験をした人が"可哀想な人"なのではない。
だから、「暗いことを考えると幸せじゃない」というような思い込みは捨ててほしい。

日常の一部として、傷を受け入れられる人も、幸せだと私は思う。
もちろん「知らない幸せ」「見ない幸せ」もあるだろう、「気づかない不幸」「知らない不幸」もあるだろう。
どれを取るかはその人次第、
「自分は楽しいことだけ考えたい」という考えも、その人の幸せだ。

だから、人が傷と向き合うことに対して「楽しいことを考えないと不幸」というのは、そぐわない気がする。

この文章を読んでくれた人に、「私が"可哀想な人" "大変な人"だと誤解しないでほしい」というのは、他の問題を考える上でも覚えていてほしいと思う。

そして、戦争は遠い話・暗い話・怖い話・悲しい話ではなく、自分の人生の一部として起こる話、当たり前に近くに存在する話だと、捉え直してみてほしい。
悲しいけれど、戦争に関しては、どうでもいいと思える人はいても、巻き込まれない人はいない。

私にとって戦争の話は「真面目な話」ではなく、「お茶飲み話」。
それくらい本当に身近なものなのだ。

だから伝えたい、何もしなければ身近な話でなく、自分の目の前で起こる話になる。
「知って、受け継いで、自分の考えや意思を持つ」
たったそれだけのことを、一人一人がするだけで、向かう未来は変わる。

でも、たったそれだけのことを、私たちは日本の教育で教えてもらえなかった。
知ること、自分の考えを持つこと、自分の意志を持つこと。
悲しいことに、これがすごく難しいことになってしまっている。

こわいこと。
語ってくれる人が、いなくなってしまうこと。
確実に時間が流れ、風化してきている。
小さい頃会って話せた人たちと、少しずつ会えなくなってしまっている。

戦争について、難しいところから知ろうとしなくてもいい。
自分の身近な祖父母世代の世間話を聞くくらいのスタンスが、大切なんじゃないかと思う。

意外と知らなかったことが出てくるはずだ。

だからこの文章を読んでくれたあなたに、
あなたの家族や近くにいる人のことを知ってほしい。
私たちが体験者から直接話を聞ける最後の世代だから。
私たちが話す側には、決してなってはいけない。



※このnoteは、私が幼少期から大叔父に聞いた話をもとに書きました。

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