『資本論』第2章・第3章のまとめ


第2章 交換過程

 第1章において、私たちがごく当たり前の存在だと思っていた「商品」が、実は〈物神〉であることが示された。労働生産物が「商品」として扱われることは、決して必然ではない。人間たちが直接的な共同性を放棄して、生産物に媒介された共同性によって社会を構築するとき、そこに「商品」が誕生する。

 しかし、誕生するのは「商品」だけではない。「商品」が人間たちを媒介するなかで、交換されることに特化した特殊な「商品」が自然発生する。それこそが「貨幣」である。

 「貨幣」は、それ自体がひとつの「商品」であるがゆえに、すでに〈物神〉である。しかし、あらゆる「商品」の等価形態として存立する「貨幣」は、「商品」以上の物神性を帯びる。「貨幣」は、「商品」よりも高次な〈物神〉として、人間たちを支配する潜在力を発酵させる。

 第2章「交換過程」は、第1章「商品」と第3章「貨幣」を架橋する。「商品」と「商品」とを媒介するだけだった「貨幣」は、その交換過程のなかで自らを発展させる。

貨幣という結晶は、交換プロセスから生まれた必然的な産物であり、さまざまに異なる種類の労働の生産物は、貨幣においてたがいに実際に同等なものとされ、実際に商品へと変わるのである。交換が歴史的に拡大し、深化すると、商品の本性のうちにまどろんでいた使用価値と価値の対立が発展する。そして人々のあいだに、この対立を取引においてはっきりと見えるものにしたいという欲求が生まれ、商品価値がある自立した形態をとるまで進む。そしてある商品が商品であると同時に貨幣であるという二重の形態をとって、この自立した形態が最終的に実現されるまで、この欲求は休まることがない。このように労働の生産物が商品となるのと同じように、ある商品が貨幣になるのである。

マルクス『資本論』第2章

ある商品が貨幣となるのは、他の商品たちがあまねくその商品によってそれぞれの価値を表現するからなのだが、その反対に、その商品が貨幣であるからこそ、他の商品がそれぞれの価値をその商品によって一般的に表現されるかのようにみえるのである。ここでは媒介する働きは、その働きの結果そのもののうちに消えてしまい、いかなる痕跡も残さない。商品たちは、みずからは何もすることなしに、みずから価値の姿を、その外部に、みずからとならんで存在するある商品体のうちに、完成されたものとしてみいだすのである。この物が金や銀であり、大地の懐から掘りだされたままの姿で、すべての人間労働を直接に受肉するものとなっている。ここに貨幣の魔術的な力がある。

マルクス『資本論』第2章

社会的な生産プロセスのうちで、人間たちはたんなるアトム〔独立単位〕としてふるまうのであり、人間自身の生産関係は物としての姿をとる。これはまず、人間たちの労働生産物が、一般的な商品形態をとることのうちに表現されるのである。こうして貨幣のフェティシズム〔物神性〕の謎は、人々の目をくらます商品のフェティシズム〔物神性〕の謎が目にみえるように示されたものにすぎないのである。

マルクス『資本論』第2章

 こうして「貨幣」となった「商品」は、〈物神〉の水準を高次化させる。


第3章 貨幣

第1節 価値の尺度

 貨幣は本来的には、価値の尺度でしかない。すなわち、貨幣それ自体に価値はなく、生産物の価値の大きさを示すために用いられるものである。

 価値の尺度として貨幣が用いられるとき、そこに現物の貨幣は必要ない。商品の値札に価格を記入すれば事足りるのであって、想像された〔観念上の〕貨幣で十分である。ここで貨幣は、たしかに価値の尺度ではあるが、それ以上に、価格の度量標準としても機能している。

 こうして貨幣は、質的にも量的にも生産物を通訳することになる。すなわち貨幣は、異なる生産物を「価値」として等置するとともに、生産物の「価格」として価値の大きさの違いを表現する。貨幣のこのような性質は、自然発生的な慣習として定着していくが、それが安定するためには法律による規制を必要とする。すると、あたかも法律によって貨幣の性質がもたらされているような錯覚が生じる。自然発生的な慣習〔すなわち人間の本性〕が生みだした貨幣の性質が、まるで法律の産物であるかのように偽装されることになる。

 「価格」はさらなる飛躍をもたらす。もともと価格は、価値の大きさを貨幣の量で表したものであり、生産物の生産に必要な社会的労働時間の長さを表したものだった。しかし、価格は労働時間を直接に表象するわけではなく、むしろ価格は社会的労働時間から独立した平均法則に従うようになる。たとえパンを生産するのに2時間分の社会的労働時間が必要だとしても、パンが需要を超えて生産されているのであれば、1時間分の社会的労働時間に該当する貨幣しか獲得できないかもしれない。

 こうして「価値」と「価格」の結合が崩されると、価格が独自の支配力を持って振舞うようになる。価格はもはや価値の表象ではなくなり、労働生産物ではないものに対しても価格をつけて販売することが可能となる。たとえば未使用の土地には人間の労働力が投下されていないが、それに価格を与えて「商品」にすることができる。爵位や良心すらも、価格が与えられれば商品になってしまうのである。

 労働生産物ではないものを「商品」へと変身させてしまう魔術こそ、「価格」の本性である。労働生産物は、それが他の労働生産物と交換できるように「価値」を宿したが、価値が価格として表象されるようになると、価格は価値を離陸する。これは、決して商品にしてはいけないはずの「人間」が商品化されてしまうことの予感である。


第2節 流通手段

 貨幣は、生産物の社会的交換を媒介する。高度に分業化された社会では、人間は自分自身の生産物だけで生活することができないため、他者の生産物を獲得するために自分の生産物を手放す。資本制社会では、生産物と生産物が直接交換されるのではなく、貨幣を媒介にして交換される。

商品-貨幣-商品
W - G - W

 商品の販売は、取引相手からみれば商品の購入である。同様に、商品の購入は、取引相手から見れば商品の販売である。すなわち、〈W - G〉の反対には〈G - W〉があり、〈G - W〉の反対には〈W - G〉がある。商品流通のこの性質により、〈W - G - W〉は以下のように連鎖する。

 このことから分かるのは、貨幣を媒介にした生産物の交換の効率性である。原始的な物物交換では、相手のニーズと自分のニーズが一致したときにはじめて交換が行われるので、実際に交換が行われてしまえばそこで取引が終了する。それに対して貨幣取引では、交換はむしろ他の交換を開始させるのであり、取引が連続的に生起させられる。

 この連続的な取引のなかで、生産物は、生産の領域から消費の領域へと一方的に運ばれていく。貨幣が一般的な等価物として交換されることにより、社会的な物質代謝は活発化し、強度も範囲も拡大していく。

 しかし商品流通の主導権を握っているのは常に〈G - W〉の変身であり、〈W - G〉はそれに従属している。他者の生産物を獲得するためには自分の生産物を販売しなければいけないが、〈W - G〉の変身は保障されていないのである。そのため、商品流通が発達するにつれて人間はそれに振り回されるようになっていく。また、〈W - G〉の変身が保障されていないことに、恐慌の可能性が潜在している。

 商品流通とは、社会的な物質代謝の形態である。誰かの生産物が他の誰かに消費されることこそ、商品流通を稼働させる原動力である。しかし、生産物の交換が貨幣を媒介として行われることによって、生産の領域からも消費の領域からも独立した、交換の領域が存立する。

 生産領域から交換領域に入ってきた商品は、購入されることによって消費領域へと消えていく。しかし、貨幣だけは交換領域のなかに留まりつづける。貨幣は、〔商品流通のなかでは〕生産も消費もされないからだ。

 交換領域に注目すると、貨幣がひたすら運動している。交換の主導権は常に〈G - W〉の変身にあり、貨幣の運動が商品流通を生みだしているように見える。もちろんこれは錯覚で、社会的な物質代謝〔商品流通〕が貨幣流通を生みだしているのだが、個々の取引においては貨幣に主導権があるため、因果が逆転して見えるのである。

 個々の取引においては常に貨幣が主導権を持つため、個々の人間はますます貨幣流通に振り回されるようになる。しかし貨幣流通は、社会的な人間が生産物を交換することによって生じており、貨幣流通の全体は人間の全体によって生みだされている。つまり、個々の人間を苦しめているのは人間の全体ということになるが、その事実は「貨幣流通」という幻想の主体によって隠蔽される。

 貨幣は、本源的には、抽象的人間労働を表象する特殊な「商品」であるはずだった。しかし、貨幣が交換領域に留まるのであれば、それ自体が価値を持っている必要はなくなる。特定の商品に等価形態が押し付けられることで生まれた「貨幣」は、それが流通手段としてふるまうかぎり、もはや商品である必要がない。

 低級な金属を用いた補助鋳貨や、ほとんど無価値な紙幣が、貨幣と同等の流通手段として機能することの根拠がここにある。もちろん、どのような紙幣でも貨幣の代用になるわけではなく、そこには国家のお墨付きが必要だが、国家の境界のなかでは紙幣が流通手段として機能する。貨幣は、貨幣となる商品の価値を根拠に存立するが、それが十分に流通していれば、価値から離陸することができる。


第3節 貨幣

 これまで、価値の尺度としての貨幣と、流通手段としての貨幣を見てきた。いずれの側面においても、特殊な商品として誕生した貨幣が、「価値」から離陸する可能性を含んでいる。価値の尺度としての貨幣は、それが価格の表象として発展すると、本来的には価値を含まないものにも価格を与えて商品へと変身させる。流通手段としての貨幣は、それが消費されることなく交換の領域にとどまるかぎり、価値をもたないもので代替することができる。

 流通手段としての貨幣はさらに、社会全体の論理と個々の取引の論理を分離させる。社会全体を見れば、貨幣流通は商品流通の結果でしかないが、個々の取引では貨幣が主導権を持っているので、貨幣流通が商品流通を生みだしているように見える。

 このようにして貨幣は、特殊な商品という本性から離脱していき、その謎的な性格を強めていく。すでに流通している貨幣を見ても、それがどのようにして貨幣となったのかは隠されているのである。そしていつのまにか、自己目的としての貨幣が成立する。

 個々の取引では〈G - W〉の変身が主導権を持つため、自分の商品が貨幣へと変身することは保障されていない。そのため、不測の事態に備えて貨幣を蓄えておく欲望が生まれる。商品販売は、〈W - G - W〉の最初の局面ではなく、端的に〈W - G〉の過程となる。あらゆる商品が貨幣によって獲得できるため、貨幣への欲望には限度がない。

 また、信用取引が発達すると、貨幣は商品と交換するだけでなく、負債を決済するものとして機能するようになる。負債を抱えている状態では、貨幣を自己目的として商品販売することと、獲得した貨幣を蓄えておくことが求められる。さらに国際貿易が発達すると、貿易差額の決済のための準備金が必要になる。

 こうして貨幣は、それ自体が目的として追い求められるようになる。社会的な物質代謝から自然発生した貨幣が、いつのまにか人間を振り回している。貨幣はもともと商品であり、原初からすでに〈物神〉だったが、いまや商品とは次元の違う〈物神〉となっている。

 同時に、貨幣の物神性を隠蔽する仕組みも発展する。貨幣が安定的に機能するためには国家の役割が欠かせないが、国家こそが貨幣の支配力の根拠だと錯覚されてしまう。たしかに国家は、近代的所有権の明文化、鋳貨の発行、警察や司法による取り締まりなどを行う。しかし、それらは自然発生した貨幣を安定させるための機構に過ぎない。国家が貨幣の支配力の源泉だと錯覚されるとき、本当の源泉である社会的な物質代謝は見えなくなってしまい、社会から独立した存在としての個人が確立する。



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