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信じるということは危険な「賭け」なのか? 〜「正義」から「責任」へ(番外編)〜

前回人に助けてもらうには、人を信じて率直に「助けて」と言うことが必要だと書きました。率直に「助けて」と言うことができなければ、だれも助けてくれないからです。しかし、一方で、実際にだれかから助けてもらったことがなければ、だれかを「信じる」ことはなかなかできません。これは、人を「信じる」ということにつきまとう根本的な矛盾です。

「相手にまかせる(ゆだねる)」ことのむずかしさ

「相手を信じる」ということは、違う言い方をすれば、自分のこれからを「相手にまかせる(ゆだねる)」ということです

昔、わたしが参加したある研修会の中で、アイス・ブレイク(初対面の人同士の固い雰囲気をほぐすためのちょっとしたゲーム)として、二人一組で同じ方向を向いて少し間隔をあけて立ち、講師の合図で、前にいる人が体をまっすぐにした状態で、前を向いたまま後ろに倒れ、後ろにいる人が倒れてくる人の背中を両手で受け止めて支えるということをしたことがあります。

二人で交互にそのアイス・ブレイクを行った後、講師から「簡単なことなのですが、後ろにいる人が必ず自分を支えてくれると思えないと、なかなか後ろを見ずには倒れられないんです。信頼ということですよね」というようなことを言われた記憶があります。

「あなたはAさんを、信じられますか?」

「あなたはAさんを、信じられますか?」とだれかに聞かれれば、ふつう人は、「今までわたしはAさんに一度も裏切られたことがないから、信じられる」とか、「かつて裏切られたことがあったから、ちょっと信じられない」などと考えるでしょう。そのため今まで周りの人たち(親や仲間)に、何度もひどいことをされてきた人の場合は、自分がつらい状況にあっても、人を信じて、だれかに率直に「助けて」と言うことが、とてもむずかしいことになります。率直に「助けて」と言うためには、前回も書いたように「自分の心を開いて、弱みもさらけ出し、相手に自分の今後をゆだねる」ということが必要になるからです。

人を「信じる」なんて不可能?

それでは、今までその人に裏切られたことが一度もなければ、その人を信じても大丈夫なのでしょうか。今まで99回裏切ることがなくても、100回目の今回、わたしを裏切らないとどうして言えるのでしょうか。理屈の上では、そんな保障はどこにもありません。ただ、そんなふうに考えていけば、この世に信じられる人はたぶんひとりもいなくなります。つまりは、人を「信じる」という行為そのものが不可能になります。

もちろんこれは、「もし〜だったら、どうか」という思考実験にすぎません。ただ、このことからわかることは、過去の出来事を洗いざらい点検しても、その人が「信じられる(信じてよい)人」だという証明(保障)を手に入れることは不可能だということです。まして、先ほどのアイス・ブレイクのように、後ろにいる初対面の相手が、必ず自分を支えてくれると信じて後ろに倒れるなどということは、「もってのほかの危険な行為」ということになります。

「信じる」ということは「賭け」なのか

わたしがここで言いたいことは、人を「信じる」という行為は、本質的にある種の論理的な「飛躍」を含むということです。必要にして充分な根拠を並べあげて、その人を「信じる」ことが「正しい」行為であると、論理的に結論を出すことは、たぶんどうやっても不可能です。そう考えれば、「信じる」という行為は、勝てる根拠(確証)のない「賭け」と、しょせん同じだと言った方がよいのでしょうか。

つまり、「毎年、大きな賞が出ているこの宝くじ売り場で買い続ければ、いつか必ず自分も大きな額が当たると信じて買うこと」と、「自分の目の前にいる人を信じて、『助けて』と言うこと」は、同じようなことなのでしょうか。

人を信じる人は、人から信じてもらえる

ここで重要なことは、人を「信じる」という行為は、たとえ同じように論理的な根拠はなくても、「賭け(ギャンブル)」とはまったく違う性質のものなのだということです。「信じる」と「賭け」とが違うものである理由を、ひと言で言い表せば、「人を信じる人は、人から信じてもらえる、つまり、助けてもらえる」ということに尽きます。

逆に、これは余談ですが、宝くじはそもそも番号抽選なのですから、いくらこの宝くじ売り場で買えば必ず「当たる」と信じて買っても、当たる確率自体は他の売り場で買った場合とまったく変わりません。

「信じる」ことと「賭け」とはまったく別の行為

人を「信じる」ことは、論理的な根拠がない点では「賭け(ギャンブル)」と同じようなものに思えますが、しかし、人を「信じる」ことは、あえて「賭け」にたとえてみれば、「信じてよい」に賭ければ相当の確率で勝てる「賭け」なのです。相当の確率で勝てる「賭け」とは、ギャンブルの世界では詐欺(ありえないインチキ)にほかなりません。つまり、「信じる」ことと「賭け」とは一見、よく似ていますが本質的にはまったく別の行為です

「見る前に跳べ」?

昔、大江健三郎という作家が『見る前に跳べ』という題名の小説を書きました。もともとこの題名は、W.H.オーデンの詩("Leap before you look")から引いたものだったと思います。(ただ、わたしはオーデンの詩は読んでいないので、ここでは勝手なことを書きます。)

わたしの勝手な理解では、この言葉(「見る前に跳べ」"Leap before you look")の言いたいことはこんなことです。

「人が生きている中において、前をよく見ないで『跳ぶ』行為には常に危険が伴う。しかし、『今ここで跳んでも大丈夫だ』という証明データは、たぶんいつまで待っても決してそろうことはない。安全が証明されていないこと、つまり危険なことはしないということになると、跳ばない(跳べない)ことが、論理的には常に正しいということになる
しかし、それであなたはいいのだろうか。あなたがそれでいいと言うのであれば、もちろんそれでかまわない。しかし、あなたは本当にそれでいいのか

この言葉は、そんなことをわたしやあなたに向かって言っているような気がするのです。そして、わたしは今の勝手な解釈の中の、「跳ぶ」という言葉(動詞)は、すべて「信じる」に入れ替えてもいいのではないかと思っています。

「信じる」という行為が「責任」を発動させ、人を動かす

人を「信じる」という行為自体が、たぶんある種の論理的「飛躍」です。「信じる」ことが、充分な根拠を持った行為であるとは、だれも言えません。しかし人の世では、充分な根拠のない「信じる」という行為が、率直な「助けて」という呼びかけを生み、相手の中に「責任(そうしないではいられない)」を感じさせて、現実の「助ける」という行為を生み出しているのだとしたら、「信じる」という行為を単なる「賭け(ギャンブル)」とか、「ばかげた行為」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。

くり返しますが、「信じる」ということがなければ、率直な「助けて」という呼びかけは生まれず、率直な「助けて」という呼びかけがなければ、人の「責任」は発動せず人は動きません。逆に、いくら形だけの「助けて」をくり返し言っても、いくら「(わたしを助けるのがあなた方の義務なのだから)助けなさい」と言っても、だれも動かず、結果として「だれもわたしを助けてくれない」ということになります。

率直に人に「助けて」と言うことには、勇気が必要

もちろん、だれも助けてくれないという状態であっても、その人がそれでいいのであれば、理屈としてはそれでかまいません。ただ、それではだめだということであれば、生きていく中では、いつか人を信じて「跳ぶ」しかないということになるのではないでしょうか。たしかにそれは一種の「賭け」ですが、言わばそれは、賭ければ相当の確率で勝てる「賭け」なのです。なぜ、相当の確率で勝てるのか。人の世界は「責任」の世界だからです。そういう意味では、それは「賭け(ギャンブル)」というよりは、生きるための、必要な行為を、今、「選択」する勇気と呼ぶべきものなのかもしれません。

率直に人に「助けて」と言うことには、ある種の勇気が必要になります。それは自分を今までのあり方に縛りつけている「自己愛」から解き放ち、新たに「生きよう」とする勇気です。

人が心から「助けて」と叫んだ時、だれかが必ず動いてくれます。人の世界は「責任」の世界だからです。

あとがき

今回は、「『正義』から『責任』へ」という副題でnoteに5回ほど書き継いできたものの番外編です。前回の「なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか 〜『正義』から『責任』へ(その5)〜」の補足と思っていただければ、幸いです。

次回は「『正義』から『責任』へ(その6)」として、個人の「正しさ」と社会の「正しさ」の関係について書いてみたいと思っています。


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