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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「…

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人権について考える中で、自分の中のさまざまな「ものの見方」が変わってきた気がします。「正しさ」から抜け出した目で、人が生きるということを見ていきたいと思っています。

マガジン

  • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ

    人権問題の解決は、どうすればできるのでしょうか。人権尊重という「正しさ(正義)」を相手に強制してもそれはむだです。「正しさ(正義)」から「責任」へと考え方を切り替えることで、初めて人権問題の解決が可能になります。

  • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換

    人権尊重が叫ばれても、なぜ人権侵害や差別はなくならないのでしょうか。人権尊重の観点を、「義務」から「責任」へと変えることで、この行きづまりを変えることができるのではないでしょうか。合い言葉は、「あなたはあなたのままでいい」です。

  • パワーハラスメントについて考える

    パワーハラスメントは、人が生活する場のどこにもあります。パワーハラスメントはどうしたら、その進行を止め、解消に近づけることができるかを、加害者でも被害者でもない立場から考えてみたいと思います。

  • 高校生のための人権入門(全27回)

    人権についてわたしが考えたことを、高校生だった自分にもわかるように書いてみました。興味のあるテーマについて書いてある回から読んでいただいても、大丈夫です。

最近の記事

「正しさ」よりもわたしとあなたの「幸せ」を〜「正義」から「責任」へ(その14)

前回、20世紀フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズがスピノザの著書『神学・政治論』について書いた言葉、「なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう」(G・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』平凡社ライブラリー、P23)を最後に引用しました。(注:この言葉が含まれる一文は、この文章の末尾の注1をご覧ください。) ここでドゥルーズが言っている、「人はなぜ『自らの意志で』、支配者の言いなりになることを選び、なぜそのことに命までかけてしまうのか」と

    • 「自己愛」を「更新する」必要がある〜「正義」から「責任」へ(その13)

      何回かにわたって、パワーハラスメントを防ぎ、解決するためにどうすればいいいのか、またそこで出てくる問題点、困難点について考えてみました。困難点は大きくわけてふたつになります。まず個人のレベルでは、自分の中の「正しさ(正義)」を括弧に入れて、「自分をゆるすこと」のむずかしさ。次に集団、組織、社会のレベルでは、その集団等が持つ「正義(正しさ)」を括弧に入れ、その「正義(正しさ)」の徹底に制限をつけることのむずかしさです。この二点について今回と次回でふり返り、「『正義』から『責任』

      • 「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その3)~「正義」から「責任」へ(その12)

        前回、パワーハラスメントが深刻化して、加害者と被害者の両方が互いに「あの人はおかしい、あの人のせいでわたしはこんなに迷惑している。ゆるせない。」と思っている場合、つまり、双方が自分を「被害者」だと思っている場合は、第三者が関わっていくしかないと書きました。今回は、前々回にあげた例にもとづいて、パワーハラスメントを解決するために第三者がどのように関わっていくのがよいのか、また、そこで出てくる問題点、困難点について考えてみたいと思います。 第三者がパワーハラスメントを解決するに

        • 「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その2)〜「正義」から「責任」へ(その11)

          前回、考えやすく単純化したパワーハラスメントの例をあげて、どんな対処が問題の解決をむずかしくするのかを書きました。ではどうすれば問題が解決に向かうのか。また、そうする上で出てくる問題点と困難点について考えてみたいと思います。 人権トラブル解決の「目的地」どうすれば人権トラブルが解決に向かうのかについて考えるためには、まず、どういう状態になれば問題の解決と呼べるのか、つまり「目指す目的地」をはっきりさせておかなければなりません。もちろん、わたしがここで考える解決は以前も書いた

        「正しさ」よりもわたしとあなたの「幸せ」を〜「正義」から「責任」へ(その14)

        • 「自己愛」を「更新する」必要がある〜「正義」から「責任」へ(その13)

        • 「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その3)~「正義」から「責任」へ(その12)

        • 「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その2)〜「正義」から「責任」へ(その11)

        マガジン

        • 人権問題の解決とは 〜「正しさ(正義)」から「責任」へ
          16本
        • あなたはあなたのままでいい 〜「義務」から「責任』への転換
          15本
        • パワーハラスメントについて考える
          7本
        • 高校生のための人権入門(全27回)
          27本

        記事

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その1)〜「正義」から「責任」へ(その10)

          前回、人権トラブルを解決するためには、解決の観点を「正義(正しさ)」や「義務としての責任」から「本来の責任」へと切り替えることが必要だと書きました。それは実際にはどういうことなのかを、今回は職場におけるパワーハラスメントを例に考えてみたいと思います。 一般に人権侵害や差別というものは、「強い立場」の人が自分の「正義(正しさ)」にもとづいて、「弱い立場」の人を自分の力で無理やり動かそう(変えよう)とした時に起きるものです。今回、パワーハラスメントを例として取り上げるのは、人権

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する(その1)〜「正義」から「責任」へ(その10)

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する 〜「正義」から「責任」へ(その9)

          前回、われわれの中に深く根づいている「権利ー義務」という「正義(正しさ)」の観点を、新たな「責任」の観点へと切り替えることが、人権問題の解決につながると書きました。ただ、この「責任」がどういうものであるかが、わかりにくかったと思います。わたしが前回述べた「責任」は、世間一般で言われている責任とは、だいぶ違ったものだからです。 目の前の苦しむ人を放っておけない「本来の責任」わたしがこのnoteでずっと「責任」と呼んできたものは、わかりやすく言ってしまえば、目の前で苦しんでいる

          「本来の責任」が人権トラブルを解決する 〜「正義」から「責任」へ(その9)

          「痛い、やめて」と言ったのに、なぜさらに親はたたくのか 〜「正義」から「責任」へ(その8)

          なにかで親がカッとなって小さな子どもをたたいてしまい、子どもが「痛い、やめて」と言ったのに、親がそれに腹を立てて、さらに子どもをたたいてしまうようなケースがあります。そんな場合、親にその理由を聞けば、親は「(子どもは)悪いことをしたのに、わかっていないから」とか、「なまいきだから、反省させたかった」とか、答えそうです。しかし、たぶん本当の理由を親はわかっていないのです。 なぜ、親に「責任」が生まれないのか前回、人権トラブルにおいて、被害者が加害者を一切非難せずに、自分のつら

          「痛い、やめて」と言ったのに、なぜさらに親はたたくのか 〜「正義」から「責任」へ(その8)

          加害者に自分の「責任」を実感させるには 〜「正義」から「責任」へ(その7)

          前回、人権問題の解決は、加害者の心の中に「反省」ではなく、「責任」を感じさせることによって可能になるだろうと書きました。もちろん、ここで問題にしたい解決は、社会の中での人権問題の解決(社会的運動や法律の制定等)ではなく、具体的な「人と人の関係」の中での人権問題の解決です。(この二つの解決の違いについては、前回の「個人の『正しさ』と社会の『正しさ』」をご覧ください。) 人権侵害がどのようにして起きるのか人権問題の解決について考える前に、まず人権侵害がどのようにして起きるのかを

          加害者に自分の「責任」を実感させるには 〜「正義」から「責任」へ(その7)

          個人の「正しさ」と社会の「正しさ」〜「正義」から「責任」へ(その6)

          「『正義』から『責任』へ」という副題で書き継いできた文章も、前回の「番外編」を入れるとこれで7回となりました。noteを書く上でのわたしのテーマは、人権問題や人権トラブルの「解決」です。そして、実際の人権問題は常に具体的な「人と人の関係」の中で起きます。そのため、人権問題の解決は具体的な「人と人の関係」の中で行われる必要があります。 人権問題の解決とは、どうなることをいうのか人権問題の解決とは、加害者と被害者がどのような状態になることを「解決」というのでしょうか。人権の尊重

          個人の「正しさ」と社会の「正しさ」〜「正義」から「責任」へ(その6)

          信じるということは危険な「賭け」なのか? 〜「正義」から「責任」へ(番外編)〜

          前回、人に助けてもらうには、人を信じて率直に「助けて」と言うことが必要だと書きました。率直に「助けて」と言うことができなければ、だれも助けてくれないからです。しかし、一方で、実際にだれかから助けてもらったことがなければ、だれかを「信じる」ことはなかなかできません。これは、人を「信じる」ということにつきまとう根本的な矛盾です。 「相手にまかせる(ゆだねる)」ことのむずかしさ「相手を信じる」ということは、違う言い方をすれば、自分のこれからを「相手にまかせる(ゆだねる)」というこ

          信じるということは危険な「賭け」なのか? 〜「正義」から「責任」へ(番外編)〜

          なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか 〜「正義」から「責任」へ(その5)〜

          前回の最後に書いたように「困っていれば、だれかが必ず助けてくれる」のが、人の世界です。それは、人の世界がもともと「責任」の世界だからです。そのことが信じられなくなった時、人は孤独になり、絶望します。 現代というこのひどい世界で、孤独になり、絶望しないために、われわれは人の世界が、本来は「責任」の世界だということを改めて知る必要があります。ただ、こんなことを書けば、「そんなのはウソだ。現に、わたしのことをだれも助けてくれない」と思われる方もいらっしゃるでしょう。 「責任」は

          なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか 〜「正義」から「責任」へ(その5)〜

          自分の「責任」を無視して力をふるう人たち 〜「正義」から「責任」へ(その4)〜

          われわれが生きている現代の世界が、こんなひどいものになってしまっている原因はなんでしょうか。わたしは、それは「強い立場」にいる人、つまり力を持っている人が、自分の「責任」を感じることなく、ただ自分の力を振るっているからだと思います。 力には必ず責任がともなうこのことについて考える前に、まず確認しておかなければならないことがあります。それは、「力には必ず責任がともなう」ということです。くわしくは以前の文章(「力には責任がともなう ~「強い立場」の人たちへ~」)をご覧いただきた

          自分の「責任」を無視して力をふるう人たち 〜「正義」から「責任」へ(その4)〜

          「正しさ」抜きの「よさ」を考える 〜「正義」から「責任」へ(その3)〜

          前回、「毒親」に人権の尊重という「正しさ」にもとづいて、反省や謝罪を求めてもむだということを書きました。子どもから、「あなたは間違っているから反省してわたしに謝罪し、今後、わたしへの態度を改めなさい」と言われて、「はい、すみませんでした。わたしが間違っていました」と謝る親は、まずいません。 「正しさ」で相手を動かし、変えるためには、相手に自分の間違いを認めさせなければなりません。しかし、人は例外なく自分の間違いを認めたくはありません。そう考えてくれば、「正しさ」にはそもそも人

          「正しさ」抜きの「よさ」を考える 〜「正義」から「責任」へ(その3)〜

          あなたの「正しさ」は相手を動かせない 〜「正義」から「責任」へ(その2)〜

          前回は、「正しさ(正義)」と切り離して、「よさ(倫理)」を考えることが必要だと述べました。「正しさ」は、人を動かすことができず、むしろ結果として人を苦しめることになるからです。 「毒親」に反省や謝罪を求めてもむだ自分の親が「毒親」だと思う人は、親が自分を「人として尊重してこなかった」ことが、今の自分のつらさを生んでいると思っています。自分を「繊細さん」だと思う人は、自分の特性(繊細さ)をまわりの人たちが理解し、尊重してこなかったことから、今の自分のつらさが生まれていると考え

          あなたの「正しさ」は相手を動かせない 〜「正義」から「責任」へ(その2)〜

          「正しさ(正義)」と「よさ(倫理)」の違い 〜「正義」から「責任」へ(その1)〜

          前回、「トロッコ問題」という思考実験を使って、普遍的な絶対的な「正しさ(正義)」というものは「虚構」だ、しかし、だからといってこの世に「よさ(倫理)」がないことにはならないということを述べました。ただ、「正しさ」と「よさ」の区別については、言葉たらずなところがあったと思いますので、少し補足をしたいと思います。 「正しさ」は普遍的、絶対的なもの本来、「正しさ」というものは、相対的なものではありません。「正しいこと(正解)」は、常にひとつだからです。つまり、ある行為が「正しい」

          「正しさ(正義)」と「よさ(倫理)」の違い 〜「正義」から「責任」へ(その1)〜

          「正しさ」についての思考実験が意味すること 〜「正義」をどう考えるか〜

          「正しさ(正義)」についての思考実験というものがあります。たとえば、こんな話です。 「線路を暴走する巨大なトロッコがあって、だれも乗っていないのでそれを止めることはできない。暴走するトロッコの前方で線路は二手に分かれていて、左前方の線路の先では、5人の作業員が線路の上で大きな音を立てて脇目もふらずに線路補修の作業をしている。右前方には、1人の作業員がこちらに背を向けてうずくまって、線路の点検をしている。線路の分岐点には、切替器(分岐器)のレバーがあって、レバーを今のままにし

          「正しさ」についての思考実験が意味すること 〜「正義」をどう考えるか〜