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加害者に自分の「責任」を実感させるには 〜「正義」から「責任」へ(その7)

前回人権問題の解決は、加害者の心の中に「反省」ではなく、「責任」を感じさせることによって可能になるだろうと書きました。もちろん、ここで問題にしたい解決は、社会の中での人権問題の解決(社会的運動や法律の制定等)ではなく、具体的な「人と人の関係」の中での人権問題の解決です。(この二つの解決の違いについては、前回の「個人の『正しさ』と社会の『正しさ』」をご覧ください。)

人権侵害がどのようにして起きるのか

人権問題の解決について考える前に、まず人権侵害がどのようにして起きるのかを再確認しておきます。人の集団(家族、教室、隣近所、職場、地域社会、国等)には必ず「強い立場」の人と「弱い立場」の人が生まれます。「強い立場」の人は、自分の思うようにまわりの人たちを動かそうと思います。そして、「弱い立場」の人が「強い立場」の人に従っている間は、なんの問題も起きません。しかし、「弱い立場」の人が、「強い立場」の人に従わない(従えない)ということが、必ず起きてきます。その時、「強い立場」の人は、自分の「強い立場(=力)」を使うことによって、「弱い立場」の人を思いどおりに動かそうとします。しかし、それでも「弱い立場」の人が思いどおりに動かなかった時、「強い立場」の人は、見境なく自分の力を使って、無理やり「弱い立場」の人を動かそうとします。こうして、人権侵害や差別が起きるのです。(くわしくは、「『多様性の尊重』は人権問題を解決しない(その1)」などをご覧ください。)

人権問題を解決できるのは「強い立場」の人だけ

以上の説明から、ふたつの重要な視点が出てきます。ひとつは、人権侵害や差別を行うのは、常に「強い立場」の人(たち)だということです。もうひとつは、そもそものトラブルが起きた原因、理由は、ふつう加害者と被害者の両方にありますが、人権問題を解決できるのは「強い立場」の人(たち)だけだということです。

人権問題の解決の原理

それでは、「人と人の関係」の中で起きた人権問題は、どのようにすれば解決できるのでしょうか。

人権問題の解決の原理自体はきわめてシンプルです。加害者に自分の「誤り」を認めさせて「反省」させるという、今までの解決につながらないやり方を捨て、加害者に自分の「責任」を実感させればよいのです。その過程は、原理的には、次のような3段階(3ステップ)になります。

1 まず、第三者が加害者に、自分(加害者)が相手(被害者)よりも「強い立場」にあることを自覚させる。(ここでいう「第三者」とは、加害者、被害者以外の人ということです。)

2 次に、第三者が加害者に、力(「強い立場」)には必ず「責任」がともなうことを自覚させる。

3 最後に、できれば被害者が加害者に、加害者を非難したりせずに、「あなたが自分の力を使ってしていることが、どんなにわたし(被害者)を苦しめ、つらい思いをさせているか」を直接伝える。

加害者に「責任」が生まれれば、あとは大丈夫

この3ステップが実現できれば、加害者には自然に「責任(そうしないではいられない)」が生まれます。加害者に「責任」が生まれれば、あとは放っておいても大丈夫です。加害者が「責任」を自覚しその言動が変化すれば、被害者との関係は改善し、人権トラブルは解決に向かうからです。その際に、加害者から被害者への「謝罪」があるかどうかは、実際にはそれほど問題ではありません。被害者にとっては、加害者の「言動の変化」の方が大切だからです。「人と人の関係」の中での人権問題の解決で重要なことは、どちらが「間違っていたか」ということを明らかにすることではありません。白黒つける(「どちらが正しいか(正義か)」を決める)ことよりも、関係の改善こそが人権トラブルの解決には必要なことだからです。

自分は被害者だと思い込んでいる加害者たち

人権問題の解決のステップは、原理的には以上のようにシンプルなものですが、それぞれについて、もう少し説明が必要だと思います。トラブルが起きる原因はふつうは加害者と被害者の両方にあります。(どんな人間関係のトラブルも、一方だけに問題があるということはふつうありません。)しかし、人権侵害や差別をするのは、常に「強い立場」の人(たち)です。ところが、加害者の中には、自分の方が被害者だと思い込んでいる人が結構いるのです。そのため、加害者にまず自分が「強い立場」であることを、きちんと自覚させることが必要になります

力には責任がともなう

次に、加害者(「強い立場」の人)には、力(「強い立場」)には必ず「責任」がともなうということを自覚させることが必要です。「強い立場」に立てば、人を思いどおりに動かせる(動かしていい)ということばかり考えて、それに「責任」がともなうことを自覚していない人が、現実にはあまりに多いからです。(くわしくは、「力には責任がともなう ~「強い立場」の人たちへ~」などをご覧ください。)

3が実現できれば、最初のふたつは省略できる

一番説明が必要なのは3でしょう。実は、1から3の中で、一番重要なのは最後の3であり、また一番難しいのも3だからです。そして、もし3が本当に実現できれば、最初のふたつはたぶん省略できるのです。なぜ省略できるかと言えば、自分に利害が生じない状態で、もしだれかが自分のせいでつらい思いをしていることを知ったならば、人はふつう、すぐに「しまった」「まずい」と思うからです。つまり、人は、利害が関係なければ、自分のせいでだれかが苦しむ様子を見たくないということです。

自分のせいでだれかが苦しむのは見たくはない

こんなことを書くと、「そんなのうそだ」「信じられない」とほとんどの方が思うでしょう。だれかが自分のせいでつらい思いをしていることを知っても、平気でいる(ように見える)人間が、われわれのまわりには必ずいるからです。しかし、試しにこんな心理テストを、自分でしてみてください。もし自分に一切利害の生じない状態で、だれかが自分のせいで苦しんでいるのを目の当たりにした時、自分はどう思うだろうかと想像するのです。たぶん、だれでも「(そういうのは)なんかいやだな」と思うはずです。これはおそらく上記の「平気でいる(ように見える)人間」でさえ、実は同じように感じるはずなのです。これはどういうことなのでしょうか。

「責任の端緒(芽生え)」と呼べるものがある

人がだれでもそう思うのは、人の心の中に「良心」や「思いやり」や「道徳心」があるからではありません。それは思い違いです。また、中国の戦国時代の思想家、孟子が考えたようにに、人の心の中に必ず「善の端緒(芽生え)」があるからでもありません。われわれにわかっていることは、人(わたし)は、(できることなら)自分のせいで誰かが苦しんでいるのを見たくないという性質を持っているということだけです。その性質は孟子の言い方をまねすれば、「責任の端緒(芽生え)」と呼べるものかもしれません。(わたしが今まで何度か、「人の世界がもともと『責任』によって成り立っている」と書いてきたのは、このことです。また、そんな「責任の端緒」が、どのようにして人間の中にあるようになったのかについては、「なぜ、だれもわたしを助けてくれないのか」の終わりの部分(「ヒトの中に生まれた『責任』の原型」)をご覧ください。)

ただ、この「責任の端緒」は、少しでもそこに利害が関わるとたちまち消えてしまいます。(その点が、「良心」や「思いやり」や「道徳心」とはまったく違うのです。)

見知らぬ人の人権は尊重できるが、目の前の人の人権は尊重できない

ずいぶん前に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだ時、登場人物のイワンが弟のアリョーシャに向かって、「自分は身近な人間が愛せない。」と話す場面があり、そこがいつまでも心に残っています。ここでイワンが言っていることは、表向きは「自分がなぜ父親のフョードルを愛せないか」ということの説明なのですが、イワン自身はこのことを「人間の愛の限界」として、アリョーシャに語っていたと思います。

イワンが言っていることを、わたしなりにアレンジしてみれば、「人は、地球の裏側にいる人間は愛せるし、その苦しみには同情できるが、目の前にいる人間の苦しみには、なにも感じなかったり、逆に喜びさえ感じたりすることがある」ということです。「そんなことはない」と思う人も多いでしょう。まじめな人、まわりから「いい人」だと言われている人ほど、このことを認めることに抵抗があります。このことを認めることが、自分の大事にしている自分、つまり「自己愛」を傷つけるからです。しかし、冷静に自分やまわりの人たちを振り返ってみれば、自分自身を含めて、だれにも間違いなくそういう傾向はあります。

人権に関して言えば、たとえば、「見知らぬ人の人権は尊重できるが、目の前の家族の人権は尊重できない」ということになります。奇妙なことですが、実際にはそんなことが、いくらでも起きるのです。どうしてでしょうか。

「責任の端緒」は、利害が関わってきただけですぐに消える

その理由はいろいろ挙げられると思いますが、わたしは「見知らぬ人とわたしには、ほとんどなんの利害もないが、目の前にいる人間(たとえば、自分の子ども)のすることは、こまごまとしたことまで、すべてわたしに「利ー害(喜びや不快感等)」を生むからだと思います。そして、一般に「害」の中でもっとも重いものは、「自己愛」を傷つけられることです。「自己愛」はその人の生きる力の根源だからです。そのため、人は、過去に自分の「自己愛」を傷つけた人のことを容易に許しません。

人権トラブルにおいては、加害者の中の「責任の端緒(芽生え)」は、ちょっとした利害が関わってきただけで、すぐに消えてしまいます。その一番よく起きるケースは、加害者が被害者やまわりの人から非難された場合です。加害者は、「あなたのしていることは、人権侵害だ。差別だ。だから、反省し、謝罪し、行動を変えなさい。」と言われると、本来その人の中にあった「責任の端緒」はたちまち消え去って、その言葉で傷つけられた「自己愛」が一瞬で「怒り」に姿を変えます。その結果、加害者は平然と相手を無視したり、理屈にならない言い訳をしたり、逆に「あなたこそ間違っている」と相手を非難、攻撃したりして、なんとしてでも自分を守ろうとします。

「自己愛」には、「正しさ」や論理は通用しない

人の中に本来ある「責任の端緒(芽生え)」は、「自己愛」のパワーの前ではひとたまりもありません。一瞬で蒸発してしまいます。「自己愛」こそが、人が感じる「利ー害」の基準であり、その人の生きる力の根源だからです。さらに大きな問題は、「自己愛」に対しては「正しさ」や論理は、まったくなんの力も持たないということです。キレてしまった加害者に、どんなに説得力のある(はずの)人権尊重や多様性の尊重の話をしても、なんの効果もありません。かえって、火に油を注ぐだけです。

「加害者を非難したりせずに」伝えることのむずかしさ

ですから、3の実現のためには、「加害者を非難したりせずに」という点が必須条件になります。本当は被害者が加害者に「どんなにつらいか」、そのことだけを直接伝えるのが一番よいのです。ただ、あえて「できれば」と書いたのは、あたり前のことですが、被害者が「加害者を非難したりせずに」自分の「つらさ」を伝えることは、きわめてむずかしいからです。実際問題としては、1や2と同じように第三者が間に入って、被害者のつらさを加害者に伝える方が、加害者の「自己愛」を傷つけて「責任の端緒」を蒸発させることは少なくなります。ただ、第三者が間に入ってしまうと、その分、被害者の本当の「つらさ」は加害者に伝わりにくくなるため、加害者が自分の「責任」を自覚する可能性も下がってしまうという問題が出てきます。

以前、「パワーハラスメントを解決するには(その3)」の中で、職場のパワーハラスメントを解決に導く手段として、オープンダイアローグを取り上げたのは、オープンダイアローグが、加害者への非難なしで、被害者の生の声を加害者に伝えることができる方法だからです。(くわしくは、「パワーハラスメントを解決するには(その3)」などをご覧ください。)

「痛い、やめて」と言った子どもを、さらにたたく親

もうひとつ、3について検討しておかなければならないことがあります。被害者がなんの非難の気持ちもなく、加害者に「つらい、やめて」と言った場合でも、加害者に「責任」の思いが生じないことがあるのではないかという疑問が予想されるからです。

たとえば、なにかで親がカッとなって小さな子どもをたたいてしまった時に、子どもが、「痛い、やめて」と言ったのに、さらに親が腹を立てて子どもをたたいてしまうようなケースがあります。この場合、小さな子どもの「痛い、やめて」という言葉には、親への非難はたぶん含まれていません。「痛い、やめて」という、ただそれだけの言葉どおりの意味なのです。このようなケースは、先ほどわたしが述べた「もし3が本当にできれば、最初のふたつはたぶん省略できる」とは、まったく矛盾するように思えます。では、3は間違っているのでしょうか。わたしはそうは考えていません。このような場面で、親の「責任」が発動しないことには、たぶんはっきりした理由があるからです。

次回は、その理由を考えて、今回述べた人権問題の解決のステップ(1から3)について、さらに検討してみたいと思います。


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