見出し画像

青くてエモい小説たち──「ブルーライト文芸」座談会

※この文章は、2022年11月に発行された『負傷』に掲載されていた座談会を加筆・修正のうえ転載したものです。なお、座談会自体は2022年10月に行われたものですので、現在とは情報が異なる場合があります。ご注意ください。

ペシミ:本屋に行くと、文芸コーナーの一帯に青くてエモい表紙が並ぶエリアがあります。近年流行っているそれらの作品を「ブルーライト文芸」と名付け、ひとつのジャンルとして考えるために、今回はブルーライト文芸座談会を企画しました。まずは自己紹介をお願い致します。


紅茶:紅茶泡海苔です。僕は大学院で日本の戦時下の音画理論を研究しています。他にはゼロ年代批評や、ゼロ年代批評に至るまでの文芸批評の歴史を調べています。ペシミさんとは感傷マゾ、青春ヘラ、負けヒロイン、低志会の「2020年代の批評ライン」をきっかけに知り合って、今回この座談会に参加しました。よろしくお願いします。

つむじ:早稲田大学負けヒロイン研究会主催の舞風つむじです。普段はアニメやライトノベルをよく見たり読んだりしてます。ライトノベルを乱読しているので、良いデータベースになればと思います。


・ブルーライト文芸とは何か

ペシミ:まず僕から「ブルーライト文芸」の説明をさせてください。これは僕が勝手に使っている造語なんですが、「青っぽい、もしくはオレンジっぽくてエモい表紙のライト文芸」のことを指しています。詳しくは、このまとめを見ると分かりやすいです。

 当時からこういった作品を好きで読んでいて、元々ある「ライト文芸」の中でも、青い表紙が多かったので「ブルーライト文芸」と名付けました。ちなみに、電子書籍が影響力を持ち始めたケータイ小説の系譜を汲むジャンルとしての「ブルーライト」文芸のダブルミーニングでもあります。
これはおそらく一過性の流行ではなく、逆光を使ったエフェクトが印象的である以外に、内容にもかなりの共通点が見られて、真剣に考える意味があると思い、『青春ヘラver.4』で初めてブルーライト文芸に関するまとまった文章を書きました。そもそも、ライト文芸とは何なのか、というところから考えたいのですが、『ライトノベルの新潮流』にこんな説明があります。

  ライト文芸とは、一言でいえばライトノベルのように個性の強いキャラクターたちによって織りなす小説群のこと。主に文庫書き下ろしとして刊行され、ライトノベルやマンガ、アニメなどで活躍するイラストレーターたちによって表紙イラストが描かれることが多い。ライトノベルとの違いは、主人公たちの年齢が大学生以上に設定される場合が多く、どちらかと言えば社会人女性をターゲットにしているところだ。


石井 ぜんじ、太田 祥暉、松浦 恵介『ライトノベルの新潮流』(standards、2021)

 ライトノベルだけでなくライト文芸もレーベル毎・作者毎でしか語れないですが、ライト文芸を出版しているレーベルではメディアワークス文庫、新潮文庫nex、スターツ出版文庫、集英社オレンジ文庫あたりが有名で、作者単位だと、佐野徹夜、いぬじゅん、冬野夜空、阿部暁子なんかが分かりやすいです。ブルーライト文芸はTikTokでの広告も相まって中高生を中心に支持を得ていますね。
 ライト文芸自体は2014年からジャンル化されてますが、ブルーライト文芸をひとまとまりとして認知できるようになったのは2016年以降でしょう。初期の作品では、入間人間の『昨日は彼女も恋してた』(2011)、三秋縋の『三日間の幸福』(2013)、河野裕の『いなくなれ、群青』がそれっぽいですが、まだ帰納の段階ですね。これが確固とした像として演繹され始めるのが2016年だと思っていて、『君の名は。』と『君の膵臓をたべたい』の二大巨頭によって確立された感じがします[1]。
 実は、表紙だけでなく内容にもある程度の類似点があって、まずブルーライト文芸の主人公には村上春樹作品に出てくる主人公をマイルドにアレンジしたようなキャラが多いんですよ。大人しくて落ち着いているけれど何らかの原因によって自意識を拗らせていて、往々にして斜に構えた性格なんですね。高校生が主役のことが多くて、ほとんどが恋愛メインのストーリー仕立てになっています。舞台は都会より田舎がよく使われ、季節は夏が多いです。あとは物語終盤、ヒロインが何らかの原因で消失・死亡することが示唆されるのが一般的ですね。
 まとめると、2016年に『君の名は。』と『君の膵臓をたべたい』(以下、キミスイ)が流行って、前者がビジュアルイメージを、後者が話のフォーマットを確立させたおかげでブルーライト文芸が生産される土壌が出来たんじゃないか、というのが現時点での仮説です。このあたり、つむじくん的にはどうですか?

映画『君の名は。』(左)と、小説『君の膵臓をたべたい』(右)
ちなみに、『キミスイ』のイラストレーターは『サマーゴースト』のloundraw。

つむじ:最初に出た出版社・レーベルで整理できるか、というのは歴史を考えるとやや複雑な気もします。スターツ出版はケータイ小説からのスタートだけど、メディアワークスは立ち上げ時から入間人間や杉井光といった電撃文庫で活躍していた作家を引っ張ってきてた流れがあるはずで、この二つの流れを一つのものと考えるのはやっぱり難しい。なので、初めからブルーライト文芸的な土壌があったわけではないとは思う。
 内容面について考えてみると、ライト文芸とライトノベルの違いは個人的には「キャラクター小説かどうか」が重要になってくる気がしていて、その意味で『キミスイ』はわりかしキャラクター小説っぽかったんだよね。ヒロインの桜良はちゃんとキャラクターとして確立している感じがした。『キミスイ』と比較すると、ブルーライト文芸はさらにキャラより設定とかストーリーの型みたいなコンテクストの方が重視されている印象がある。そういう意味でビジュアルイメージとかフォーマットがブルーライト文芸を形成した、という仮説はある程度正しい気もするね。

ペシミ:ライトノベルが好きな人からして、『キミスイ』って当時どう映ってたの?

つむじ:僕が読んだのが2018年だったという事実から考えて、多少は避けていたんだと思う(笑)。『キミスイ』は確か電撃文庫にページ数が合わなくて応募せず、「小説家になろう」に投稿した結果出版に至ったという経緯があったと思うんだけど、だからといってラノベとして特別視してたわけではなかったです。どちらかというと一般文芸に近いものだと捉えていて、なんだか人気だなぁみたいな印象だったかな。 『キミスイ』は2017年に実写映画化されてたけど、当時似たような感じで実写化してずっこけた映画(『氷菓』等)がたくさんあったのを覚えてて。そういう「ちょっとラノベ寄りだけど、一般文芸にカウントされる(から、実写化される)」作品として捉えてたと思う。

ペシミ:そこで紅茶さんにお伺いしたいんですが、『君の名は。』以降、それに影響を受けている作品はどう捉えてますか?  作る側としても、見る側としても変化があったように思います。

紅茶:作る側よりも、まず宣伝がすごく新海作品を意識するようになりましたよね。『君の名は。』以降、ジェネリック新海的な作品が増えて、宣伝も似たテイストのものが増えました。おそらく最初にそれをやったのは『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』なんですが、あれは新海っぽい宣伝をしているにも拘らず内容が全然違ったんですね。その後は『HELLO WORLD』がありました。この二つの作品は中国でも上映されていて、とても新海らしさを感じたプロモーションでしたね。新海誠の影響は、少なくともこの宣伝の点においては間違いなくあります。一方作る側では、中国で2009年に公開された『心霊の窓』という映画があるんですが、これは当初から『秒速5センチメートル』のパクりを指摘されていました。いくつかのシーンの絵コンテがそっくりなんです。
 これらのことから分かるように、かなり初期の段階から新海誠の影響は中国にも伝わっている。その後は『詩季織々』のように、公式的に新海らしさを押し出してきました。でもそういった作品はあまり評価されてこなかった。思うに、中国の観客は「新海誠らしさ」だけを求めてるわけではなく、「自分たちの側に引きつけた新海誠らしさ」を求めてるんです。影響はもちろんあるけど、ジェネリック新海のような作品はそこまで高い評価を受けてはいなかった印象ですね。

ペシミ:紅茶さんは以前、「中国の青春小説とファウスト系」という発表をされてましたが、中国における青春系作品は『君の名は。』の影響を受けたりしたんですか?

紅茶:実は、中国の青春小説が変化したのはもっと早いんです。郭敬明が編集長をやっていた『最小説』は一時期ファウストとコラボしましたが、2010年あたりからどんどん青春ものから離れていきます。ほぼ同じ時期に角川から「ライト文芸」が明確に打ち出されましたけど、あの時期が転換点でしたね。中国における「青春小説」はゼロ年代特有のもので、日本のように10年代後半から再ブームが来るようなことはなかったんですね。

ペシミ:『最小説』が青春ものから離れていったのは何か理由があるんですか?

紅茶:二つあって、一つは編集長の郭敬明の物語スタイルが大きく変わったからですね。青春ものから離れて、中国の富裕層の恋愛物語を書く方向性にシフトしていくんです。彼は貧乏な家の出身で、若手文学賞を受賞し、上海の良い大学に行き、入学後にサークルを作って自分の小説雑誌を作って行くんですが、根にはずっと自分の文化資本のなさに対するコンプレックスがあったんです。2010年前後に彼がコンプレックスを抱えた富裕層の話に移ったのは、そういった背景があります。それが中国では批判されていて、かつて書いていた青春ものからはもっと遠ざかることになりました。
 二つ目の原因としては、昔『最小説』でイラストをよく担当していた「年年」というイラストレーターがいるんですが、当時『ファウスト』の編集長である大田克史もコラボの中で彼女のイラストを褒めていたんですね。その人が降りた時期が、最小説で青春ものが退潮していく時期と重なるんですよ。これも大きな転換点でしたね。

ペシミ:(年年のイラストを見て)結構セカイ系っぽい雰囲気ですね。

https://www.jianshu.com/p/cb91321e3c28

紅茶:当時はこういうテイストが流行ってたんですよ。この時期だと、例えば『さよならピアノソナタ』のイラストを描いていた植田亮が『そして明日の世界より――』というギャルゲーでイラストを担当していたんです。このゲームは実際にプレイすれば分かる通り、めちゃくちゃエモい雰囲気なんです。なので、僕のイメージでは、「ブルーライト文芸=ギャルゲーを脱臭して一般向けにした小説」のようなものです。ブルーライト文芸っぽい話を書いている七月隆文も、インタビューで「自分はギャルゲーで得た驚きを小説で再現したい」と言ってるんですね。

ペシミ:確かに、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』ってめちゃくちゃギャルゲーっぽいですよね……。パラレルワールドからやってきた彼女が時間を逆行するっていう。

つむじ:僕の中での七月さんのイメージって、『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』なんですよ。そう考えると、複雑な経歴なんですよね。

ペシミ:やはり表紙に依存してしまう問題はある気がします。七月隆文がブルーライト文芸の文脈で語られないのは、カスヤナガトのイラストが独特だったからってのが大きそう。中村祐介と森見登美彦くらい結びつきが強いですからね。これが2014年じゃなくて2017年とかだったらエモい表紙で売り出されてた可能性はあります。

紅茶:ペシミくんが言うように、エモいイラストは2015年くらいが突出していて、それを受けてジャンルが「発見」されるんですよ。当時印象的だったのは、メディアワークスで天沢夏月が出てきたことですね。それっぽい表紙とそれっぽい内容を何度も繰り返し書く作家が現われてびっくりした覚えがあります。

『八月の終わりは、きっと世界の終わりに似ている。』(2017年)と『そして、君のいない九月がくる』(2015年)
ちなみに、『そして、君のいない九月がくる』は『けいおん!』や『らき☆すた』のキャラクターデザインも担当した堀口悠紀子がイラストを描いている。

ペシミ:あの人は、夏の終わりとか感傷的な要素を何度もリサイクルして書いてるので、すごく特殊な創作のやり方をしてるんですよね。

紅茶:データベース的な感じのね。

ペシミ:そうですね、ブルーライト文芸はデータベース消費と言ってしまって問題ないと思います。それこそつむじくんは、これくらいの時期にブルーライト文芸に触れることはなかったの?

つむじ:そもそもラノベと置いてある棚が違ったから……。

ペシミ:あー。

紅茶:それは重要だと思いますよ。書店側が「こういうジャンルがあるんだ」と気付くまで、可視化されてなくて分からなかったんですよね。

ペシミ:たしかに。ジャンルは書店の本棚から始まるんですね。

紅茶:それこそ岡崎京子のような感じですよね。書店からジャンルが生まれていく。

ペシミ:さっきつむじくんが言ってた「ラノベ作家の流れとケータイ小説の流れがある」のは見落とせないと思っていて。ケータイ小説は少女漫画のメンタリティに近いので、初期は俺様キャラとかの偉そうな男キャラが流行ってたんですよ。その後、俺様キャラからクールで無気力だけど一途な男キャラみたいな型が流行る。

紅茶:セカイ系男性主人公だ(笑)

ペシミ:まさにそうなんです(笑)。今のブルーライト文芸の主人公はこれにかなり近い。僕は「村上春樹をマイルドにした」感じとよく言いますけど、もともとフォルムはあったと思います。

紅茶:そうですかね、村上春樹はどちらかというと「やれやれ」系だと思います。

ペシミ:やれやれ系は無気力系とは少し違いますよね。ただ、ライトノベルの無気力系とはやや異なるんですよ。言語化するのが難しいんですけど、より文学的な無気力というか……。〝ふざけない〟んですよね。

紅茶:それはつまり、自分で「やれやれ」を言わないってことですか。

ペシミ:あ、そうですそうです。やれやれすら言わない無気力系なんです。

紅茶:なるほど。昔、柄谷行人が村上春樹を批判する時に言ってたのがまさに「やれやれ」の部分なんですよ。愛する者の死にコミットしているにも拘わらず、超越的な自我を守るために「やれやれ」を言っていると。それを脱臭させたのがセカイ系男性主人公のようなもので、その延長線上でブルーライト文芸があったという理解ですかね。
 「ジェネリック新海」は便利な言葉ですが、そこには新海らしさを代表する一連のギャルゲーやライトノベルの文法みたいなものがあって、新海作品はその中の一例でしかない。みんな「新海誠」という固有名に拘っているけど、僕が「ジェネリック新海」と言う時はどちらかというと新海誠の背後にある文芸運動みたいなものを指しているんですね。

ペシミ:新海誠という人間じゃなく、ジャンルとして言ってるわけですね。

紅茶:それこそminoriは新海がOPを制作していたわけですが、彼が参加していない『eden*』もそれっぽいんですよね。だから、もう文法ができてしまっている。新海じゃなくても新海らしいものは作り続けるんですよ。僕は日本でクリスチャン・ラッセンと新海誠を並べて語る言説がある理由が分からなくて。というのも新海は匿名性のある作家なんですよ。だからこそ世界的に売れている。日本とアメリカでしか名を知られていない画家と新海を比べるのは無理があると思ってます。90年代後半のPC98エロゲからゼロ年代前半のコンピュータグラフィックを用いたイラストの流れみたいなものが新海には表れていて、ブルーライト文芸はその流れにあると捉えてるんです。もっと広い、全体の運動としての視点なんですね。

つむじ:最近『めぞん一刻』と『きまぐれオレンジロード』を読んでるんですけど、これって明確な三角関係の恋愛ものの作品なんですよね。対して、新海誠に繋がってブルーライト文芸に辿りつく系譜って恋愛ではあるけれど三角関係ではないじゃないですか。なのでそういう三角関係ものの文脈とは違う場所に始点があるんだろうなと思っていたのですが、いま上がったエロゲやコンピュータグラフィックを用いたイラストからの流れというお話を聞いて大変納得しました。 ただ、おそらくどっちかが消えて出てきたみたいな話でもないですよね。同時期の80年代から続くマンガ的な想像力には丸戸史明作品が接続しているのだと個人的には思います。

紅茶:丸戸作品は確かに違うんですよね。それこそ初代の『WHITE ALBUM』はいわゆるゼロ年代批評が注目していた文脈からは外れていましたよね。

・中国における青春小説の系譜


ペシミ:「不可能性としてのセカイ系——杉井光の忘却の否定神学について 王 琼海」(『ferne』所収)にて紅茶さんは郭敬明の小説を〝退廃的な文体と空洞的な青春〟と仰ってますが、その時のストーリーはどういうものが多かったんですか?

紅茶:難病ものとかDVや虐待、事故による死、その先の恋愛みたいなものが多かったです。郭敬明の『悲しみは逆流して河になる』は日本語訳もされてますから、一度読むと雰囲気が分かると思います。

ペシミ:そういった流行の源流となった作品ってあるんですか?  例えば、日本だったらブルーライト文芸の難病っぽい題材は堀辰雄のサナトリウム文学やジブリ映画なんかにあると言われてますよね。

紅茶:ちょっと難しい問題なので整理します。郭敬明は元々日本の難病ものが結構好きで、片山恭一の小説や岩井俊二の映画も大好きだったんです。彼は日本の作品から絶大な影響を受けています。日本では1920〜30年代にかけて、結核の流行もあって闘病小説が多く出版されてたじゃないですか。それからサナトリウム文学が増え始め、ゼロ年代まで続いた結果として片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』なんかが生まれた。1920年代頃には中国でも闘病系の作品は増えたんですが、社会主義革命によって一旦そういった「病」の文学はなくなるわけです。社会主義リアリズムに反するブルジョア的なイデオロギーだから、排除されたわけです。それが、文化大革命の後に「病」に関する作品がまた復活するんです。文化大革命は中国にとってトラウマ的な事件になっていて、それを反省するためにいままでの文学を見直した結果、80年代でいわゆる「傷痕文学」が出てきていますね。その後は改革開放があって、90年代から中国の経済が飛躍的に発展し、段々裕福になっていく人々に「傷痕文学」はもはや必要とされなくなって、風化していくんです。郭敬明の小説は純文学ではなく、どちらかというとポップカルチャーですが、日本の難病ものの流れを汲み取ったことをきっかけに、中国の「病」の文学を政治的要素を切り離した形で無意識的に復活させた、というのが僕の見解です。でも一般的には復活したとはあまり言われなくて、文学史的にはただ断絶があったという認識です。

ペシミ:主人公像はどんなものだったんですか?

紅茶:村上春樹系主人公とセカイ系主人公の中間みたいな感じですね。彼は言葉の使い方が巧いから、とても綺麗な文章を書くんです。当時から女子中高生に人気だったんですが、純文学からはまさにその文体が批判されていて、「空洞的で退廃的」だと言われていたんです。でも今思えば空洞的になるのは当然で、彼は政治を書けない。書かないんじゃなくて、書けないんですよ。政治色を脱臭した結果、空洞的にならざるを得なかったんじゃないかなと。

ペシミ:中国にもケータイ小説ってあったんですか?

紅茶:ありましたけど、男性向けが多くて今で言う「なろう小説」みたいなものが多いです。日本のような、ガラケーでかつ女性が読むようなものは出てこなかったですね。初期はPCで、2010年以降はスマホで読むのが普通でした。

・ケータイ小説とデバイスの問題


ペシミ:つむじくんは魔法のiらんどとかのケータイ小説って触れた?

つむじ:触れてないなぁ。多分、もう5歳上くらいが最後なのかな。

ペシミ:そう考えると、我々の世代以降はケータイで読む小説=なろう系みたいになるんだろうね。

紅茶:ガラケーとスマホはだいぶ違いますね。

ペシミ:なろう小説はガラケーだと読みにくいですからね。横文字で長い固有名を乱発されたらどうしようもないし。

つむじ:短文だったのがケータイの画面に合ってたから流行ったんですよね。あと、なろう系ってPCから読む人がかなりいるので、画面の大きさはかなり関係してますよね。

ペシミ:もうひとつブルーライト文芸で特筆すべき点が、TikTokで流行ってる点なんですね。実際、書店でもブルーライト文芸に「TikTokで話題!」と書いてあって。例えば斜線堂有紀の『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』とかすごく売れている。あとは『桜のような僕の恋人』はTikTokの効果で小説が売れてネトフリで映画化されました。

@netflixjapan

映画「桜のような僕の恋人」の本予告編解禁🌸 フル尺はNetflix JapanのYouTubeをチェック👀#桜のような僕の恋人 #中島健人 #松本穂香 #Netflix #ネトフリ#ミスチル

♬ original sound - Netflix Japan - Netflix Japan


紅茶:『桜のような僕の恋人』の表紙、キミスイっぽい(笑)

ペシミ:ドコモタワーもありますからね。『感傷マゾ vol.01』の座談会で、わくさんが「小説の一人称だと、主人公の気持ちが語られるだけだけど、アニメだと独白と相性のいいエモい風景を組み合わせることができる。小説だと、独白と風景の同時展開はできないですよね」と言ってて。新海誠っぽい表紙って音楽とめちゃくちゃ合うから、広告としてTikTokは最適なんですよね。これはSNSとしてのTikTokの構造の話なんですが。

紅茶:それは結構、的中していると思います。TikTokは画面が縦で、本の表紙も縦だから、映画と比べてメディア的に合っているんですよね。

ペシミ:昔、『青春ヘラ ver.1』で書いた記事では、「高校生の日常動画に良い感じの音楽を流すだけでエモい映像を簡単に作り出せる」という旨のことを言ってるんですね。『桜のような僕の恋人』は、TikTokで、ヨルシカの「春泥棒」とセットで使われてるんです。ヨルシカはもともとセンチメンタルな主題をずっと扱ってきましたし、人選としてはベストですよね。表紙・内容・音楽と方向性を統一することで、宣伝の段階から感性として受け入れられやすくできる。そもそもブルーライト文芸自体がTikTokという媒体にマッチしてるんでしょうね。

紅茶:それはつまり、こういうことじゃないですか。TikTokを使うことで、PCを使わずとも新海誠的な映像を作れるようになったわけじゃないですか。というより、その難易度がすごく下がった。PCの編集ソフトはやや難しいから誰でも使えるわけじゃないけど、TikTokは手軽な編集方法をプラットフォームの中で提供したという点で革新的だったんですね。それっぽい表紙と音楽を流していれば、新海らしさを演出できる。その意味において、なぜ小説だったかというと縦の構図だったからですよ。編集が要らないから。

ペシミ:確かに……。YouTubeは横ですもんね。でも、そもそもTikTokで流行って本がすごく売れる風潮が普通にあるんですよね。

つむじ:『残像に口紅を』とかね。TikTokでバズって重版されたんだよね。

ペシミ:そうそう。もともとそういう流れがある中で、そのフォーマットにブルーライト文芸は合ってたんですかね。

紅茶:結局『時をかける少女』的な感性なんですよね。筒井康隆がTikTokでウケるのも。

ペシミ:『時かけ』も、今の時代に出版されてたらかなり違った表紙だったんでしょうね。

紅茶:細田守映画版のイラストが使われた新装版小説は既にエモい表紙ですけどね。

ペシミ:でも個人的な感覚だと、『時をかける少女』を見てる同級生って体感4割くらいなんですよね。『サマーウォーズ』はテレビでいっぱい放映されててもう少し多いですが。

紅茶:もうそんな時代か……。アニメスタイルの小黒祐一郎が『夏へのトンネル、さよならの出口』を見て「これは時かけだ」と言ってたんですね。もちろんあの映画自体は時かけの流れを汲んでいるとは思いますが、今の時代に出たからジェネリック新海として扱われるでしょうね。

つむじ:ちょうどそのツイート見ましたね。夏、田舎、少女みたいなモチーフが全て新海誠に回収されているという。

紅茶:それは当然、細田守のせいでもあるんですよ。彼がもう『時かけ』的な作品を作れなくなったから、新海映画に回収されてしまったんですね。どちらかというと細田側に原因があるというか。

ペシミ:むしろ、細田監督が今『時かけ』っぽい映画を作ったら、新海映画のパクリって言われそうですけどね。

紅茶:可能性はありますね(笑)

ペシミ:ブルーライト文芸が中高生に人気というのもそうですけど、新海遺伝子がこういう形で継承されていくんだろうなと思いますね。ちなみに、『キミスイ』って中国で話題になったりしたんですか?

紅茶:新海映画ほどではないけど、結構人気でしたよ。『キミスイ』はああいう結末だから『君の名は。』ほどは流行りませんでしたが、僕はあのラストだからこそ良いと思います。

・新海誠とloundraw


ペシミ:『サマーゴースト』の話もしていいですか。紅茶さんは、『サマーゴースト』と新海映画の関係はどう見られてます? 僕は新海誠とloundrawは真逆のタイプだと思ってるんですが。

紅茶:それは正しいと思いますよ。loundrawの色やフィルターの使い方は、新海誠とは全然違いますね。新海誠の特徴として、『言の葉の庭』でキャラクターの輪郭線に環境色を反映させたりしてますよね。

でもloundrawはキャラクター全体に光を反射させるから明確に違いますよね。でも僕が『サマーゴースト』で新海らしさを感じたポイントは、カメラの動きなんですよ。カメラを360度回転させるような動きとか。

ペシミ:ブルーライト文芸の表紙の源流は新海誠もそうですが、大半はloundrawですからね。表紙の中でも新海派とloundraw派に分かれてるのかもしれないですね。

紅茶:多分、新海だったらキャラクターを描かないか、小さく描くんですよね。『天気の子』(角川文庫版)の表紙絵は分かりやすいですが、キャラクターはあくまで風景の一部で、全体の雰囲気を優先するのが彼のやり方。一方でloundrawはキャラクターが中心に据えられていて、それがメインなんですね。新海はもともとキャラクターを描くのが上手いタイプではなかったですから。

新海誠『天気の子』(2019、KADOKAWA)
loundraw『イミテーションと極彩色のグレー』(2019、KADOKAWA)

ペシミ:以前『青春ヘラver.4』でloundrawさんにインタビューした時、イラストを描く際に一貫して意識していることを伺ったら、「これに関しては技術的な面と信条的な面が共通しているのですが、余白を作ると言う事です。例えば、あえて視線の先にあるものを描かない、描き込みすぎない、と言った表現になるのですが、それは見た人が想像する余地を作ることを目的としています」と答えてらっしゃったんですね。二人とも、画面における「余白」は意識しながらも、その使い方、カメラの持ち方が異なっている。ここは面白いポイントだなと思います。

紅茶:新海はあまり人を描かないから、ポストヒューマン的だとよく言われますね。

つむじ:少し外れてキャラクターについての話になってしまうんですが、ライト文芸と比べたときに、ラノベは「欲望がそのまま出ている」ような気がしていて、実際一般的にもそう言われていると思うんですね。ただ、これは決して生々しいというわけではない。それは、ラノベがキャラクター小説だからだと僕は思っています。何かしらの欲望を満たすための作品(=ストーリー)が作られるのではなくて、そういう欲望を体現したキャラクターが作られるのがラノベだ、という。だから個人的には、ラノベにえっちなキャラクターはいてもいいけど話がエロいのはダメなんですよ(笑)。
 ただ、このキャラクターとストーリーのどちらに重点を置くかというのは大事だと思うんですよね。キャラクターに重点を置くならキャラクターの行動に説得性があればよくて、ストーリーに重点を置くならストーリーや設定に説得性がなければいけない。後者の場合それが一番わかりやすいのがどの程度のリアリティがあるかだと思っていて、だから妙に細かい土地の情報が出てきたり、話が生々しくなっていくのだと僕は考えています。最近では『わたし、二番目の彼女でいいから。』がこの典型かなと思います。
 このキャラクターから物語へ比重が変わっていくのにはやはりライト文芸の影響というか、ライト文芸ジャンルの拡大があるはずなんですよね。先ほど表紙についての話で出たように、キャラクターよりは背景だったり余白といったそれ以外の部分が重要なんだろうと思います。
 ただやはり、こうした特徴を維持したままラノベとして成立しようとすると、どうしても無理が生じる気がします。ラノベでは欲望がストレートに出過ぎてしまう。たとえば一時期ラノベでも「飛び降りようとする女の子を助ける」みたいなのが増えたけれど、ラノベではそれは「助けた女の子とつきあう」という欲望に直結してしまう。フォーマットがわかりやすすぎて意味をなさないから、ラノベはストーリーではなくキャラクターが優位である必要があるわけです。とはいえ、近年だとこうしたキャラクター優位のラノベも減ってきているような感じがしますね。

ペシミ:僕は基本的にラノベもライト文芸も好きで読むけど、一番苦手なのは「ライト文芸のストーリーをラノベの文体で書いてる作品」なんですよ。キャラクター小説じゃないからキャラ自体の深掘りはないけど、語りが軽いから、すべてがライトになってしまう。ライト文芸の主人公ってだいたい捻くれてることが多いですけど、それはある種のシリアスさを担保してくれるんですよね。けれどそれをラノベの文体でやると、本来もっと重く扱うべきものがすごく軽くなってしまうんです。なぜそんな事象が起こるのか考えると、さっき逆輸入の話もあったけど、じわじわと浸食し合っているんですよね。『夏へのトンネル、さよならの出口』は(当然、良い意味で)その草分けだったと捉えてます[2]。

つむじ:でも『夏トン』はかなりキャラクター小説っぽいけどね。あんずさんの個性は強烈だし、原作では深掘りされてたから。

紅茶:ペシミくんは、『明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。』みたいな作品は苦手なんだろうなと思いました。ハーレムものと幽霊の彼女という設定がミックスされたラノベで、まさに「ライト文芸のストーリーをラノベの文体で書いてる作品」ですね。僕は結構この作品が好きで、「やれやれ」と言いつつも、最終的にそれを乗り越えるような痛みがあるから良いんですよ。一回読んでみて欲しいです。

つむじ:ガガガの今年の大賞が『わたしはあなたの涙になりたい』っていう難病ものなんですよね。ブルーライト文芸のメタ作品っぽい感じだった。これはしっかりキャラクターが立ってて面白かったです。

ペシミ:『夏トン』は2019年ですけど、あの時期のガガガでこの表紙ってかなり珍しくないですか?

つむじ:あの時期にちょうどガガガとブルーライト文芸的な文脈が接近し始めたんですよね。『千歳くんはラムネ瓶のなか』もこの年だよね。

ペシミ:チラムネはちゃんとキャラクター小説だよね。まあでも、ブルーライト文芸に限らず日本全体でノスタルジックな作品が売れてる風潮はありますよね。『インターステラー』とかの影響を受けたSFチックな『夏トン』が売れたのは、ブルーライト文芸市場を解体する意味でも大事だと思います。あとブルーライト文芸的なものって映画化されやすいんですよね。今年だと、『君が落とした青空』や『今夜、世界からこの恋が消えても』なんかが実写化されました。ブルーライト文芸は中高生に人気なこともあって映画に対するアプローチがしやすいので、その方向性で今後どうなっていくか楽しみです。



[1]正確に言えば『君の膵臓をたべたい』が発売されたのは2015年だが、2016年に本屋大賞で2位を獲得したことで広く認知されたという意味で、2016年は象徴的だったと言える。

[2]この「軽さ」については最近、「ライト文芸およびライトノベルにおける〈自殺〉表象について」(『青春ヘラver.8』所収)にて書きました。

追記1:「「エモいとは何か」を総括する──四象限分析、価値反転作用、ブルーライト文芸、物語性、エモ映画、エモ消費」にて書いたブルーライト文芸の箇所について、nyapoona氏から「『太陽のあくび』は刊行後に表紙が差し替えられたもの」という情報をいただきました。貴重なご指摘、ありがとうございます。

追記2:最近はライトノベルレーベルの小説賞において、ライト文芸寄りの作品が受賞することが増えてきた印象がある。受賞した段階で同時に電撃文庫かメディアワークス文庫に振り分けられる電撃大賞(『どうせ、この夏は終わる』)はもとより、『透明な夜に駆ける君と、目に見えない恋をした。』『ただ制服を着てるだけ』『レプリカだって、恋をする』等の近刊があるGA文庫はその地盤を固めつつある。また、上記で言及した『夏トン』(およびその影響を受けた『私はあなたの涙になりたい』)のヒットを受けてか、ガガガ文庫の公募(小学館ライトノベル大賞)は受賞作の中に一つ以上ライト文芸寄りの作品が含まれることがパターン化しており、最近では『いつか憧れたキャラクターは現在使われておりません。』『サマータイム・アイスバーグ』『サンタクロースを殺した。そして、キスをした。』等がそれに該当する。また、河野裕の著作全般や『この恋が壊れるまで夏が終わらない』『夏の約束、水の聲』を刊行している新潮文庫も最近では注目されている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?