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演じることの拡張性 ─第四の壁を越えた先にあるもの─

 この文章は、阪大SF研究会『拡張SF』に寄稿したものです。完全版は、以下からお求めください。

拡張SF - 大阪大学SF研究会 - BOOTH

【注意】
本稿は以下の作品の一部ネタバレを含みます。
『劇場版 少女歌劇☆スタァライト』
『WHITE ALBUM2 EXTENDED EDITION』
『しゅうまつによせて』
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ』

0 はじめに

 電脳・ネット・VR。現実を「拡張」する手段は科学技術の発展と共に増え続けている。しかし歴史を振り返ってみれば、ヒトは古代ギリシアの時代から現実を「拡張」せんと奮闘してきた。本稿では、最古の「拡張」行為のひとつである「演じる」という行為について、いくつかの作品を参照しながら考えてみたい。
 誤解を恐れずに言えば、演技とは虚構である。だが、ごく稀に偽りであるはずの演技は虚構の壁を突破し、現実を超えうるほどの力を持つ。それが演技における「拡張」現象であると考える。つまり、〝第四の壁を突破する〟効力を持つ演技こそが現実を「拡張」し、新たな世界を我々に見せてくれると、そう信じている。
 「第四の壁」とは、演劇用語で、観客と舞台の間に佇む透明な壁のことだ。この壁は見えないし、触れない。しかし第四の壁を通すことで、演者は観客に見られるという事実を、観客は舞台上で起こっていることが虚構であるという事実をなかったことにしている。以上のことから分かるように、第四の壁を巡る問題は演劇だけには留まらない。映画における第四の壁はスクリーンだし、ゲームにおける第四の壁はモニター画面であると言える。では、演劇に限らず、作品が第四の壁を突破するためにはどうすればよいのだろうか。
 一般に「第四の壁を破る」という言葉は、以下のように説明される。

人物や何らかの舞台装置の働きで、役者達が観客に見られていることを「自覚した」ときに用いられる。

「第四の壁」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』、https://onl.sc/33Mi3RH(二〇二一年四月二〇日最終閲覧)

 演者(キャラクター)が観客に見られていることを自覚することは、すなわち演者と観客に双方向のコミュニケーションが発生することを意味する。一方的に舞台に向けていたまなざしが捕らえられ、自分に返ってくる可能性について考え始める。不干渉だと思っていた対象から投げられたボールにある観客は戸惑い、ある観客は不快感を示すだろう。そこで観客は思うのだ。「これは本当に虚構なのか?」と。
 現実世界のリアルと演劇世界のリアルについて、劇作家の平田オリザはこう述べている。

 現実世界の日常生活は、現実世界だから無前提にリアルなわけではない。私たちは、さまざまな行為を通じて、世界をリアルだと捉え直し続けているのだ。だが演劇においては、その運動の方向性が限定され、「観る─観られる」という関係が固定される。ここに現実世界のリアルと、演劇世界のリアルに差異が生じる原因がある。

平田オリザ著『演劇入門』、講談社現代新書、一九九八年

 一方向な関係が破壊された際に第四の壁は突破される。両者が「観るし、観られる」の関係になるわけだ。
 では、具体的に第四の壁を突破し、現実を「拡張」する手法にはいかなるものがあるだろうか。ここからは、いくつかの作品を参照しながら、様々な突破法について考察していきたい。

1 WHITE ALBUM2

 『WHITE ALBUM2』はLeafによって発売された恋愛アドベンチャーゲームで、主人公の北原春希、ヒロインである小木曽雪菜と冬馬かずさの三角関係を軸とした名作ゲームである。このノベルゲームは三章構成となっており、一章では高校時代の春希・雪菜・かずさの三角関係、二章では大学生となった春希と、雪菜を含めた新たな四人のヒロインとの恋愛、三章では社会人となった春希・雪菜・かずさの物語が描かれている。今回扱うのは、二章にて登場するヒロインの一人である和泉千晶だ。
 彼女は大学生となった春希の同級生かつゼミ仲間という設定であり、怠惰で適当な女性としての側面が強調して描かれる。一章における失敗経験によって女性との関わりに強い不安感を抱いていた春希にとって、「女らしさを感じさせない」千晶は大変有り難い存在だった。だからこそテスト勉強を手伝ったり、教授との緩衝材となったりと、様々な世話をすることとなる。
 後に明かされることだが、千晶が勉強も生活もサボりがちな理由は「演劇」だった。千晶にとって演劇は何より重要なことだった。役になりきるためならばどんな手段も厭わない。彼女は身も心も演劇に捧げた芸術至上主義的な人間だと言い切ることが出来る。
 結局、演劇を第一に考える千晶にとって春希との恋愛は「稽古」でしかなかった。舞台の中でしか「女」になることのできない千晶は役作りのために春希と恋愛関係を結んでいたと明かされるのがこの第二章(Closing chapter)の終盤である。
 しかし、物語はここで終わらない。千晶には、春希と結ばれるルートが存在する。「稽古」だと自覚はしていたものの、千晶にとって春希との恋愛はあくまで真剣だった。演技であろうとなかろうと、演じている際はその人格こそが本物で、感情こそが絶対だ。すべての真相を知った後の春希と千晶の会話で、我々プレイヤーは常に「千晶のこれは演技なのか?」という疑念に苛まれる。

「普段は女を感じさせず、
肝心なときにだけ女として求めに応じる…
難しい『役』だったけど…どうかな、感想は?」

WHITE ALBUM2 Closing chapter 千晶ルートより

 だが最終的に、千晶のセリフは演技として成立しなくなる。彼女自身、演技であるという主張が現実にまで想いを引きずってしまう感情への言い訳であると気づき始めたのだ。ラスト、「演技ではない」と信じる春希と「演技である」と言い続ける千晶はその垣根を越えて結ばれる。もはや演技かどうかなど問題でなくなるのだ。

千晶「はは…はははっ、
馬鹿じゃないのあんた?」
春希「それ…演技か?
合図がないけど」
千晶「っ!?
信じる信じないは、あんたの問題でしょ!
演技だろうが、本気だろうが、それがあたしの言葉だ!」

WHITE ALBUM2 Closing Chapter 千晶ルートより

 第四の壁の役割について改めて確認しよう。第四の壁は、二つの事実を消し去る。演者は観客に見られているという事実と、観客が舞台=虚構であると認識している事実だ。一般的な「第四の壁を破る」のニュアンスには、壊し方として前者の事実しか前提にしていない。しかし観客が演者に対して「これは演技か?」という疑いの目を向けるとき、やはり第四の壁は一面的な役割を失い、崩れ去る。
 そして、壁がなくなり開けた舞台こそが、現実を超えるリアリティを持ち、我々に強く訴えかける。
 第二章にて登場する三人のヒロインのうち、和泉千晶はおそらく最も人気がない。春希を騙すような真似をしていたので、プレイヤーが千晶を嫌う気持ちは分かる。だが他のヒロインはあくまで画面の中に留まる中、和泉千晶だけは違う。彼女はPCの画面を飛び出し、現実を超え、こうささやくのだ。

「あたし…あんたの逃げ道になったげるよ」

WHITE ALBUM2 Closing Chapter 千晶ルートより

2 少女☆歌劇 レヴュー・スタァライト

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、漫画・アニメ・映画・ゲームなど多岐にわたって展開され一大旋風を巻き起こしたメディアミックス作品だ。基本的な内容は12話のアニメを鑑賞後に劇場版を観ればだいたい把握できるが、ここでは特に評価が高くスタァライトブームを牽引している『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を念頭に話を進めようと思う。
 軽くあらすじを紹介しよう。国内随一の演劇学校である聖翔音楽学園にて一流のスタァを目指す少女たちの中で、主人公である愛城華恋は練習に励んでいた。ある日、かつて「いつか一緒に舞台にあがる」約束をしていた幼馴染の神楽ひかりがイギリスから帰国し、クラスメイトとして加わるところから物語は始まる。当然、この二人の関係を軸にしてストーリーが進行するのだが、スタァライトの魅力はそこだけではない。
 この作品は、メインの二人以外に七人の同じ舞台少女が登場し、三つのカップリングが形成される(露崎まひるのことは一旦記憶から消すことにする)。
 劇場版ではそれらのカップリングにおける関係性をすべて破壊&再生し、最終的に愛城華恋と神楽ひかりの関係性にフォーカスする。ラストシーンでキャラクターが明らかに観客をまなざし、意識するシーンが使われてるように、そもそもこの映画自体が観客である我々を想定してメタ視を促す構造を持つのだが、ここで取り上げたいのが〈大場なな〉というキャラクターだ。
 大場ななはバナナの髪型が印象的なキャラクターだ。寮で同部屋の星見純那とのCP「じゅんななな」で知られている。スタァライトの世界ではレヴューと題して相手と戦い、相手の前掛けを地面に落とすと勝利し、オーディションが進むことになっているのだが、星見純那とのレヴューでは星見の自己欺瞞をこれでもかと追求する。劇場版において、事態が急変することのトリガーとなったのは他でもない大場ななである。彼女が発した、

「これはオーディションにあらず」
「なんだか強いお酒を飲んだみたい」

劇場版『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』より、大場ななのセリフ

 というセリフがすべての始まりとなる。これを発したのは移動中、電車の中。つまり大場ななは、他の少女たちに対して(舞台上でないにも拘わらず)セリフを言い、演技をすることを求める。そしてその状況をいち早く察知したのが「舞台装置だ」と叫ぶ天堂真矢だった。
 ここで留意したいのが、大場ななの進路希望先だ。アニメでも2話で明かされる通り、大場ななは登場人物の中で唯一演者としてだけでなく舞台制作にも携わっている。実際、序盤で映される進路希望調査表には、皆が行きたい劇団を書く中で(星見純那は大学進学希望だが)、一人だけ舞台を制作する裏方の進路を記している。つまり、登場人物の中で大場ななだけが舞台をメタ的に捉えることができる。そんな彼女が「ワイルドスクリーンバロック」のトリガーを引いたのは、なんとも興味深い。
 ワイルドスクリーンバロックについても説明した方がよいだろう。元ネタはオールディスが提唱した「ワイドスクリーンバロック」というSFジャンルのひとつで、それをもじったものと推測される。『パラドックス・メン』の訳者後書きから説明を引用しよう。

それは時間と空間を手球に取り、気の狂ったスズメバチのようにぶんぶん飛び回る。機知に富み、深慮であると同時に軽薄なこの小説は、模倣者の大群がとうてい模倣できない代物であることを実証した。

チャールズ・L・ハーネス著、中村融訳『パラドックス・メン』、竹書房、二〇一九年

 なんだかよくわからないが、主観で要約した感じでは「時間や空間を操るキャラクターが多く登場し、縦横無尽に活躍しながら物語として高く完成した作品ジャンル」だと言えるだろうか。最近だと人間六度の『スター・シェイカー』あたりが当てはまりそうな感じがする。
 ワイルドスクリーンバロックがスタァライトで使われる時、それは「wi(l)d-screen baroque」と表されれる。wild、つまり野生のスクリーンバロックとは、一般的なオーディションとは違い、場所を問わずルール無用で争い合う戦いのことだろう。大場ななが「これはオーディションにあらず」と言ってワイルドスクリーンバロックが始まることにも納得がいく。
 一方で、wildのlに括弧がついているのにも理由があるはずだ。wi(l)dは発音すると「ワイド」となり、必然的にwideが想起される。つまり、演劇をwild(野生)化したことにより舞台は拡張され、wide(幅広く)したのである。
では一体、どこに向かって拡張したのか。それは紛れもない我々に向かって、要するに「第四の壁」に向かってである。

 話を整理しよう。大場ななによって、作中の第四の壁は突破された。いや、突破されたという言い方はふさわしくないかもしれない。舞台が果てしなく拡張され、第四の壁を我々の遥か後方に追いやってしまった。それによって、観客でしかなかった我々までもがいつのまにか舞台にあげられ、作品は単なるフィクションには留まらなくなる。一章で紹介した和泉千晶の例はあくまでプレイヤーが能動的に壁を意識して破ろうとしたが、これはあくまで受動的である。
 スタァライトを勧めるオタクは、必ず「劇場で観ろ」と言うし、作品のキャッチコピーは”劇場でしか味わえない{歌劇}体験”だ。その理由が、ここまでの説明でお分かり頂けただろう。舞台にあがる経験をするには、PCの小さな画面では物足りない。映画館のスクリーンがwideになる瞬間を目撃すべきだ。
 作中もっともメタ視点を持つ大場ななによって舞台は拡張されたが、彼女を役者と呼ぶべきかどうかはまた難しい問題である。敢えて言うならば、「役者でありながら演出家」なのだろう。これは先程の和泉千晶も同様だ。彼女もまた、最高の役者でありながら最高の脚本家・演出家だった。思うに、壁を突破する役割を担ったキャラクターたちは役者であり演出家である必要がある。舞台の外に出ることに関して役者は無力だ。それを突破するパワーを得るには、やはりただの役者ではいけない。そしておそらく、どちらになりきってもそれは成立しない。

3 『しゅうまつによせて』

 『しゅうまつによせて』は、私家版で発行される『感傷マゾ vol.04』に収録された小説作品で、商業誌も含めたこの世の小説の中で僕が最も好きな作品だ。
 おそらくほとんどの人は知らないと思うので軽く説明するが、少しでも興味のある人はぜひとも作品を読んで頂きたい。
 この小説のテーマは「完璧な女の子」である。さらに言えば、「完璧な女の子になりたいと願いながら完璧な女の子を演じる」女の子の話である。冒頭、はじめの一段落を引用しよう。

完璧な女の子になりたかった。夢の中で出遭うような、抽象的な女の子。世界と自分との間にある薄布の向こうで、世界の答えそのものみたいに微笑む女の子に。

倫理ちゃん著「しゅうまつによせて」『感傷マゾVol.04「VRと感傷特集号」』、私家版、二〇二〇年、p190

 「完璧な女の子になりたい」と思い続けていた主人公の女性が、会社を辞めるところからストーリーは始まる。家と会社、それからコンビニを公転する日々に嫌気が差した主人公は、退職をきっかけに旅に出ようとする。しかし、社会に蔓延するウイルスはそれを許さなかった。結果、旅行の代わりにVR機器を購入し、仮想現実の中で様々なワールドを巡ることとなる。主人公はその過程で、偶然見かけた美しい少女のアバターに自分自身がなってしまうのだが、そのシーンの末文も引用しよう。

完璧な女の子になりたい。何も探す必要のない、何も信じる必要のない女の子。誰のものにもならない、ただ愛するためだけに愛するということを知っている女の子に。

同書、p.195

 完璧な女の子とは、村上春樹が言うところの「100パーセントの女の子」のようなものだろう。誰にとって完璧なのか。それは、自分自身にとってである。抽象的かつ記号的なその像は、人によって違う方形を持つ。すなわち、「完璧な女の子」は存在しない。けれど、「完璧な女の子」とは存在しないが故に完璧だとも言える。
 それを理解しつつも、主人公は「完璧な女の子」を演じることになる。ワールド内で出会った男性プレイヤーと、「完璧な女の子」としてひと夏を共に過ごす。象徴的なのは、男性プレイヤーに自分のことを「少女さん」と呼ばせていた点だ。自らが振る舞い、外部に認めさせることで彼女の「演技」は成立する。
 しかし、自己矛盾を含んだ演技ほど脆いものはない。時に自分をメタ視して、時に自虐を重ねながら彼女は「少女さん」を演じ続ける。

だけど彼との関係の中で私が演じる私は、優しくて可愛くて、自由で何物にも縛られない『完璧な女の子』を描き出しつつあるように思えて。私は少女を演じる役者でありながら、その姿を一番近くで見つめる観客としてこの世界にいる。

同書、p.202

 1章で取り上げた和泉千晶は、演技とは思えないものを演技だと言い張り、我々に疑わせることで第四の壁を破らせた。
 2章で取り上げた大場ななは、通常は演技を強要されないフィールドでも演技を求め、我々を舞台にあげてしまうことで第四の壁を破った。
 『しゅうまつによせて』の少女さんは、ある意味で両面から壁を破っている。自分の演技に潜む欺瞞に自覚的で、それを他人に見抜かれていることも分かっている(つまり他人からの視線を認めながら、嘘をつき続けている)。
 この姿勢がなぜ壁を破り現実との拡張に繋がるのか。欺瞞を含んだ演技はむしろ壁を強固にするのではないか。そう思うのも無理はない。少女さんが現実に接続するとき。それは、HMD(VRを体験する際に被る機器)を外すときだ。少女さんはVR空間でのみ演技をする。現実の彼女は完璧な女の子でも少女でもなくただの女性だ。ゴーグルを外して演技を止めた時、リアリティのレベルは変化し、物語は虚構を超える。
 我々は邂逅する。決して完璧なんかではない、けれどリアルで同じ次元に存在する、我々にとっての100パーセントの女の子に。

4 『映画クレヨンしんちゃん 夕陽のカスカベボーイズ』


 最後は、『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ! 夕陽のカスカベボーイズ』を紹介しよう。2004年公開のアニメ映画で、ギャグや風刺が多いクレヨンしんちゃんの映画では珍しくシリアスで重々しい描写の方が多い異端作である。
 あらすじを軽く説明しよう。普段から仲良く遊んでいるカスカベ防衛隊の5人(しんのすけ、マサオ、ネネ、トオル、ボーちゃん)は、鬼ごっこで逃げた先に見慣れぬ映画館を見つける。放置されて朽ち果てたノスタルジックで不気味な「カスカベ座」では、館内が荒れ果て無人であるにも拘らず西部劇が上映されていた。しばらくそれを眺めていた5人だったが、しんのすけがトイレに行き戻ると他の4人がいつの間にか消えており、誰一人家に戻っていなかった。子供たちを探すために野原一家はカスカベ座を訪れ、気付くと映画の内部に取り込まれてしまう。西部劇の世界観が構築されたそこでは、カスカベから迷い込んだ人々が大勢おり、滞在する時間が長くなるほど元いた世界での記憶を失ってしまう。しんのすけのアイデンティティが徐々に崩壊していくのだから、子供向け映画とは思えないほどショッキングなシーンだ。具体的には、「かすかべ防衛隊、ファイヤー!」というお決まりのセリフを忘れたり、好きなキャラクターのイラストが書けなくなったりしていく。
 映画世界から脱出するためには、町を支配する「ジャスティス」を倒さなければならず、映画全体としてはジャスティスの討伐を目的として進行していく。その中で、しんのすけは「つばき」という14歳の少女に恋をする。公式設定でしんのすけは「恋愛対象は女子高生以上」とされていることから考えても、とんでもない掟破りだ。つばきはジャスティスに拾われたため彼の屋敷で過酷な環境のもと働かされており、そんな境遇の彼女を映画から解放して救い出すことがしんのすけのモチベーションになっていく。
 結局、紆余曲折ありしんのすけたちは映画世界から脱出することに成功し、カスカベ座から映画に迷い込んだ人々はみんな気付くと明るい映画館に移動しているのだが、そこにつばきの姿はない。要するに、つばきはカスカベ座から映画に取り込まれたのではなく、元々映画内の役者であったと判明するのだ。その際、しんのすけはつばきを追うため映画に戻ろうとするが、当然それは叶わず、ただスクリーンに突撃するだけとなる。そのシーンのセリフを引用する。

トオル「しんのすけ つばきさんは映画の中だけの存在だったんだ だからここにはいないんだよ」
しんのすけ「ウソだ だって一緒に帰るって約束したんだもん」
トオル「でもここにいないってことはやっぱり映画の中の……」
しんのすけ「だったらオラ映画に帰る! ウォー!」

『映画クレヨンしんちゃん 夕陽のカスカベボーイズ』のセリフより

 そして最後、最も悲しいシーンが訪れる。愛犬であるシロの鳴き声で一気に現実に引き戻されたしんのすけは、瞬時につばきのことを忘却し、元の「野原しんのすけ」に戻ってしまう。おそらく、映画館を出たタイミングで、ひろしやみさえ、かすかべ防衛隊の5人は今まで起こっていたことを忘れてしまっている。

 さて、なぜこの作品を取り上げたのか。それは、これらが「第二の第四の壁」を意識的に利用した作品だからだ。今回、四章を書くに当たっては東北芸術工科大学漫画研究同好会の発刊する会誌『Melt Vol.1』に掲載された、佐藤タキタロウ氏による「「第四の壁」の前に立つ『ファイアパンチ』と『カスカベボーイズ』における類似性の解析」を軸にしている。ひとまず、佐藤氏の論考を説明したい。序章を引用しよう。

 例えば映画において「第四の壁」はスクリーンである。だから映画内にスクリーンが登場し、そこに映画が上映された暁には我々は「第四の壁」をレイヤーのように二つも観測できることになる。「第二の第四の壁」だ。そしてこの「第二の第四の壁」(スクリーン)は架空の存在であるゆえに自在なアクションをとることができる。具体的にいうと現実の世界と虚構の世界を行き来することができる。強いてもうひとつの役割を挙げると、「第二の第四の壁」が動かざるものとして登場人物たちを拒むことで、彼らのいる世界は現実だと主張する(実際には虚構だが)ことができる。劇中でスクリーンをこういった「第二の第四の壁」として扱った作品は少なくない。

佐藤タキタロウ「「第四の壁」の前に立つ『ファイアパンチ』と『カスカベボーイズ』における類似性の解析」『Melt Vol.1』、私家版、二〇二一年

 興味深い指摘だ。本来は超えられないはずの「第四の壁」が虚構内に存在することで第四の壁を越えるという行為が容易に行えること、そして虚構内の第四の壁がその超越を拒めば、我々はキャラクターをよりリアルに感じられること。
 第二の第四の壁は、鑑賞者にどのような影響をもたらすのか。例えば、『カスカベボーイズ』にてしんのすけたちがスクリーンの中に取り込まれてしまった時、我々はほんの一瞬ではあるが現実を疑うことになる。つまり、「この世界も映画の中なのではないか」という疑念を抱かせることに成功する。それに、今こうして本を読んでいる状況すら、別次元の誰かにメタ視されているかもしれない。胡蝶の夢を見ている可能性は決して否定できない。
ただし、もちろんそんな疑いも長くは続かない。理性的な鑑賞者はすぐに自分の置かれている状況を再認識する。
 佐藤氏の論考はこの後、第二の第四の壁をキーワードに『カスカベボーイズ』と藤本タツキによる漫画作品『ファイアパンチ』を比較している。特に『さよなら絵梨』に顕著だが、藤本タツキもまた、第二の第四の壁を意識的に用いた作風を得意としている。

 本題に戻る。では、この場合の第四の壁はいかにして破られるのか。実は、第二の第四の壁が存在することそれ自体が第四の壁を破ることに繋がっていると僕は思っている。第四の壁の前に立つことができるのは、本当ならば現実にいる我々だけである。フィクションのキャラクターに第四の壁を意識させること、これはとりもなおさず第四の壁を破る行為だ。
虚構の中に新たなレイヤーとして虚構が登場すると、嫌でも意識しなければならない。我々の背後にある第四の壁のことを。
 もしかして、この世界は入れ子構造になっていて、この世界も虚構なのではないか。我々の後ろにはもう一枚の第四の壁があって、それを外から見ている何かが存在するのではないか。けれどこう思うことで、我々は背後に無限の広がりを得られる。自分の見ている範囲がセカイのすべてだとは、少なくとも思わない。これを現実の「拡張」と言わずしてなんと言おうか。今生きるこの場所が夢の世界であること、マトリックスであること、アルタラであることを否定することは不可能なのだ。

5 おわりに

 さて、ここまで「演技」の切り口から様々な作品を挙げてきたが、僕は一度も演劇作品を例に出していない。これは一因として僕自身に小説、映画、ノベルゲームと同等の演劇知識が備わっていないというのもあるのだが、それ以上に今回のテーマが「拡張」であるからというのが大きい。
 例えば2022年にアカデミー賞を獲得した、原作:村上春樹、監督:濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』を参照してみよう。この映画は主人公の家福が演出家・役者であり、依頼された舞台を成功させるために物語が進行する。紆余曲折あって最終的に「ワーニャ叔父さん」の劇が執り行われるのだが、その際、演者の一人に手話を用いる女性がいる。彼女は劇中、セリフを喋る代わりにすべて手話を使い、示す意味が上のスクリーンに表示される。そして、手話をする彼女とスクリーンを同時に映し、それを見ている観客まで画角に収めた引きの映像が撮られる。もし我々がその劇の鑑賞者だった場合、視界の広さの問題で役者かスクリーンの一方に集中することになる。両方を視界に収めることは、かなり後方の席でない限り許されない。だがそれを、映画という媒体は切り取ってみせる。セリフの書かれたスクリーン、手話で演技する彼女、それを見守る観客。すべてを画面に収める。これはまさに現実の拡張であり、芸術の拡張ではないだろうか。
 現実の人間が現実で演技をして作られる「映画」すらそうなのだから、基本的に全てが自由なアニメやゲームではなおさらだ。演技は現実を拡張するが、演技が舞台に収まっているうちは第四の壁は突破されない。そもそも、演劇は壁を突破しようと作られていないのだから当然だ。よって、演劇を拡張するのは演劇ではない。他媒体における演技がその媒体の可能性を拡張してくれることはあっても、制約の多い演劇を拡張するには外部の力を借りざるを得ない。だからこそ、映画やマンガ、アニメが演技を、演劇を引き上げてくれた時、我々は黙って立ち上がるしかないのだろう。

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